6.クロッカスに成り果てる
「あっあ、あゔっあ!あああ!」
カナウもアイナ同様、快楽は忘れ、狂い込んでいた。目の前に広がるグロテスクな世界。リョウの顔を、犬がジュルジュルと食べている。リョウはカナウにチョウセンアサガオの種を食べさせ、強制的に狂わせていた。新生活が始まって数ヶ月。時間の感覚を失っていた。ヨダレを垂らしながら、頬骨を尖らせ、唸っていた。
「可愛い。可愛いよ」
栄養剤が入った点滴を打たれているので、アイナほど醜くはないが、痩せこけたカナウは綺麗だった。リョウは週に一度外出し、高級男娼としてお金を稼いで、生活費を保った。もうアイナはこの世に居ないものだと思っていた。
「アイナ。」
「何ですか?」
数ヶ月。突然、人格が変わったように大人しくなったアイナは開放病棟へ移動した。受け答えもしっかりしていて、見るからに普通の人間だ。今、リョウがカナウを監禁し狂わせていると知ったら、何を言うのだろうか。
「今日はどんな気分だ?」
「空が晴れてて楽しい気分です。」
「そうか」
イオリはアイナの髪を撫でた。アイナは目の前の男が自分の父親だとは知る由もなかった。
「悩みとかなんでも言えよ」
「はい」
やけに優しい手付きにアイナは安心感に覆われた。もぞもぞと身体を動かし、布団を被ったままイオリに近づいてきた。
「ぼくのこと、好きなんですか?」
「どうしてだ?」
「だって、目付きがそう言ってる」
人とはこんなに変わるものなのか。子供の現状を変えるために働いて結果を得てきたイオリにとって。頭のおかしい息子がここまで大人しくなったイオリにとって。アイナの変貌は感激だった。
「好きではない。愛してるんだよ」
「ぼくと暮らしたいの?」
アイナの顔は、アイの面影が強く残っている。髪型や性別が違うだけで。あの時は殺意しかなかったけれど、写真を手にしてからは、後悔と抱えきれない愛しさに溢れて死にそうだった。
アイ…妹を死ぬほど愛していたんだ。殺してしまった後に言うのもおかしいが。もし今、病室から連れ去って、アイナと暮らしたらどうなるのだろう。愛しさで次は、イオリが狂うのだろう。どうしてアイは整形したのだろう。そんな必要もないのに。アイナは生きているだけでアイの完成形だ。攫いたい。
「暮らしたら、お互いおかしくなる」
「ぼくは、先生と暮らしたいです」
右手をとって握り締めてきた。君の母親を血で染めた右手を。アイナの真っ白な手は、アイを寝室から連れ出したときに見た光景と全く同じだ。先生ではなく、父親だと告げることなど出来ない。
「ぼくね、先生のこと大好きなんです」
アイナはリョウを憎み始めていた。無垢なぼくを狂わせて、平気で他の男と恋に落ちた。リョウは何一つ悪くないのだが、アイナは正当化を覚えた。自らを狂わせ、無実なのに檻に放り込んだリョウを殺す計画を立てていた。まともな人格を保つようになった裏で、サイコパス的思考は消えなかった。馬鹿みたいに狂っていても意味がないと気が付いた。まともそうな人間であって、成立するのだ。目の前の男は、それを気が付かせてくれた。檻の中で吐き、床に這いながら、自問自答を繰り返していた時に。ある日から、平常を保てるようになった。二つの人格の一つが暴れなくなった。壁に背を付けて真顔で考えていた。すると、男は姿を見て抱き締めてくれたのだ。こうすると、愛情を貰えて。
「先生。大好き」
狂っていてこそアイナだ。そして、運命の日に本性を現してこそアイナらしい生き方だ。肉親にしか恋が出来ないのがアイナだ。いつの日か先生と呼び始めた。認識したのだろうね。
握られている右手の反対でアイナの頭を撫でると、大きな目を閉じて、寝息を立て始めた。
「もう逃げてもいいよ。そして、お父さんに見せるんだ。本物のアイナを」
小声で言った。窓を一定しか開けられないようにするための器具は外した。病室の扉を内側から施錠し、カーテンを閉めた。ポケットから睡眠剤が入っている注射器を出した。右手首に注射した。病院着を優しくめくる。少しだけ肋が剥けた真っ白な腹。優しくキスもした。いい匂いだ。なぜか女の子の匂いがする。ズボンも脱がせた。下着は履いていない。
「アイナ…お父さんのことを、夢見るんだ」
イオリ自身が見舞い品として花瓶に入れて、棚に置いたチューベローズ。花瓶から抜いた。エキゾチックな甘い匂いが部屋中に振りまかれた。根元を握ると、アイナの鼻元に花弁を当てた。
「お父さんと堕ちよう」
微動だにしない。枕元にチューベローズを置いた。イオリ自身もズボンを脱いだ。真っ白な照明のおかげで、カーテンを閉めても真昼間のようだ。危険な快楽を得るために、アイナの誰も知らない膜を破った。なんて気持ちいいんだろう。達したイオリは中を掃除せずに、ズボンを履かせた。アイナは生まれた時から純粋無垢な子だった。無視をしたら、構って欲しくて泣く。五月蝿かったけど今思えばとても可愛らしい。それに対してリョウはどうだ。殴れば叫んで、無視すれば喜んで。嫌な奴だ。顔を思い出すだけで虫唾が走る。
「どうしてリョウに惚れたんだ」
イオリは滅茶苦茶だ。自ら二人を捨てたくせに、幻想の面影を見た途端これだ。
「アイナ、全てを告白しても、俺のことを好きと言うか?」
「カナウ。カナウ起きろ」
「リョウ…」
数ヶ月になる監禁生活にカナウは疲れ果てていた。体力も肉体も削られていく。対して、リョウは元気そうにカナウを弄んでいた。手錠による拘束が解けたときには、もう脱走を諦めていた。この人に殺されてもいいや。叶わなくたっていいや。夢なんて精神の消耗品だ。
「リョウ…点滴がないよ」
「本当だ。変えるよ」
何処からか仕入れているのか分からない栄養剤の点滴が切れた。この点滴をしていると気分が多少楽になる。リョウは素早い手つきでボトルを変えた。
「リョウ。リョウあのね、僕、リョウのそばにずっと居るよ」
「あはは。ありがとう」
静脈針を手首に刺し直していると、カナウは微笑を浮かべていた。最初は針も怖がっていたのに、今では喜んでいる。それに加え、愛の言葉、生涯を共にする言葉をポツリポツリとくれるのだ。これは大きな進歩だ。カナウとまで名付けられている男が夢を捨て、大嫌いな男と共に人生を歩むと告げるのだから。歩むと言っても、大きくは精神的にだが。
「かわいいね」
お手入れのしていないギシギシの金髪。定期的に染め直しているため、黒髪の部分はないが、流石に傷んできた。さらに女性らしくなったセミロングの髪型。とても綺麗。本人は栄養失調の醜い人間だと思っているらしい。よく言うのだ。リョウに「どうして醜い僕を愛するの」。醜いはずがないだろう。
「かわいくない」
「かわいいよ。かわいいに決まってるよ。いや?美人さんかな。どっちにしろ。俺のお嫁さんにピッタリだよ」
「リョウのお嫁さん?」
俯いたまま返答してくれた。
「うん。そして、この狭い部屋を式場にするんだよ。拘束されたままの花嫁。服を脱がせ、レースを肌に巻く。ベールを被せ、誓いのキスをする。牧師なんていらない。この数ヶ月の生活が、聖書に書かれる物語だ」
「リョウ…」
あの、赤い花ハサミを出してきた。脱げない服に傷を入れた。ビリビリと破っていく。不恰好な円を作って、切り取る。下着も切り取られ、全裸になったカナウはもどかしそうに動いた。
「寒いか?」
「違う…恥ずかしいの」
「此処まできて?」
「誓いのキスをするのが…」
頬を赤く染め、ニッコリと笑顔を見せたカナウ。
女神だ…。
「カナウ。ちょっと待ってろ」
あまりの綺麗さに動揺してしまった。花ハサミを握っていると思わず傷付けてしまいそうなので、花ハサミを床に放り投げた。寝室を出て、リビングに行くと、テーブルの上には、夜の街で手に入れた華やかなレースとベールがあった。手に持った。寝室に戻った。ベッドに踏み込み、カナウの素肌にレースを巻きつけた。真っ白な肌に通っていく花模様。鎖骨から下に巻きつける。
「お似合いだね」
「そんなことないよ」
次はベールだ。多分高級品だろう。とても質がいい。カナウの少し大きな頭に被せた。
「女神よ…」
手を背で拘束され、疲れ切って上半身が前に倒れ込み、素足は大きく開脚され、真っ白なレースが細い身体を纏い、綺麗な顔と髪はベールに包まれ…声を上げて泣き始めたカナウに、無言で口付けをした。
「カナウ。一生、共にいような」
「うん…」
鼻をすすりながら頷き、リョウの瞳を見つめた。
狂気なんて消え去っていた。純粋無垢、カナウを穢れなしに愛している瞳。カナウはどうだ。リョウとの生活に満身創痍の死んだ目。漸く、本気で愛してくれたのに。花より綺麗なストーカーが本気で愛してくれたのに。カナウはもう、何も考えられなかった。
「酷いことしてきてごめんな。どうしても、堕としたくて。本当に思ってるんだよ。カナウは夢を叶えなくたって、カナウなんだよ。とっても綺麗なカナウなんだよ」
「夢...」
「夢を叶えて幸せになるとは限らないじゃない?俺は夢を抱いたことがないからこそ冷静に考えてるんだよ。夢を叶えられない現実に耐えきれないのに、夢を叶えた後の現実に耐え続けれるはずないしね。」
「お花のお手入れをしていた時のカナウは本当に綺麗だったよ。確かに、楽しそうじゃなかったけど。本来のものから離れたって、生きてけるのなら、もう一度他のことで輝けるチャンスがあるの。たとえそれがたった二人だけの空間だとしても。そんなに人に認められるのが大事かな?たった一人、愛してくれる人がいれば、それでいいじゃない」
今は結婚式をやっているんだ。誰も参列者がいない結婚式。だから、人々の五月蝿い言葉を聞かなくとも、直接カナウに伝えれば心に響くだろう。
「そうだね...リョウさえいれば」
「今のカナウは、俺の目の前で輝いているんだよ?とっても綺麗で、とっても儚い、女神様のように」
大嫌いになった過去に罪悪感を覚えた。その次は。自分のことしか考えられなかったことに気が咎めた。こんなにも、自分のことを考えていてくれたのか。誰にも愛されなかった。誰からも逃げていた自分を。はたから見れば洗脳され切ってる哀れな男だ。カナウは自覚していたのに、言われるがまま言霊を受け取った。が、愛してくれてるとはいえ、もう死にたいのだ。自分もリョウのことが好きだと思う。愛していると思う。でも、死にたいのだ。いっそのこと、リョウ。殺ってくれ。
「久しぶりに、歩いてみるか?バージンロードなんて言っちゃ、くさいけど。」
「歩きたい」
ここで逃げ出されたらある意味面白いかもしれない。逃げ出して柵を乗りこえ落下してみようか。お互いそんな事を考えていた。数ヶ月ぶりに手の拘束を解いた。針も抜いた。もう指は動かなくなっていた。身体を抱き、お姫様抱っこの形をとった。襖の前で一度座らせ、手を持った。
「カナウ、立てるか?」
すると、カナウはいとも簡単に立ってしまった。久しぶりに見下ろした。花嫁なはずだが、子供のようで愛おしくなった。機能しない左手を優しく握り、襖を開け、ゆっくりとテラス戸に向かって歩き出した。震えているが、倒れることなく歩いてくれた。テラス戸からは藍色の夜空が広がり、星々と朧月、都会のライト。いつぶりだろう。こんな景色を見たのは。リョウの顔しか見ていなかった数ヶ月間。
「綺麗だな」
「うん。とっても綺麗」
世界はこんなにも広かったのか、なんだかやけに広く見えた。もとからこの世界に生きているはずなのに。未知の世界のように見えた。
「一旦、座ってな」
「分かった」
言う通り、足を折ってその場に座る。リビングから出て行った。扉の向こうから袋がガサゴソと鳴る音が聞こえた。なんとなく、赤い薔薇の頃のことを思い出した。戻ってきたリョウの手には、花束が持たれていた。赤い薔薇ではなく、黄色いクロッカスの花束だった。
「はい。これ。ブーケとは違うけどね」
「わぁ...」
久しぶりに目にした花達にも感動を覚えた。黄色いクロッカス。確か...。
「私を信じて?」
「そう。俺のこと信じてよ」
花束を持つことが不可能なので、リョウは、カナウの目の前に差し出し、鼻の辺りでわさわさと振ってみた。
「いい匂い」
今までの疲労が吹っ飛ぶくらい癒された。入ってくるのは、石鹸のような柔らかい香り。しゃがんでいたリョウも体勢を崩すくらいいい香りで、嗅ぎ込んだ二人は、鼻の頭がぶつかった。
「ふふ」
「あは。」
「カナウ、この花より綺麗」
「リョウこそ」
その二人の光景はまるで絵画作品のようだった。
「なんか、気分悪い...」
目が覚めたアイナは全身に這う気分の悪さに吐きそうで、口を抑えていた。もう随分と吐いていないが、癖はついているため必死に抑えていないと出てしまいそうだ。特に、尻あたりの違和感が酷い。夢の中では、見覚えのある大男に襲われていた。カーテンを閉めた記憶がないのに閉まっているし、扉の鍵もかかっていた。
「変なの」
過去のアイナならパニックを起こしかねないが、常に冷静沈着になった現在のアイナは、「まあ誰かが寝かせてくれたのだろう」と考えることが出来る。それにしても、気分が悪い。とても身体が重いし、トイレに行き、鏡を見ると、顔が窶れていた。とりあえず、時間を確認しようとカーテンを開けた。夜か…。時計がないので、性格な時間は分からない。新鮮な空気を吸いたくてカムラッチを動かす。
「えっ」
窓は鉄の器具で止められ、少ししか開かないように必ずなっているはずなのに、その器具は無くなっていて、全開にすることが出来てしまった。「逃げれる」直感でそう思ったアイナは片足を細い踏み出した。
「そんなに高くない、行ける」
そして、そのまま、空気を裂くように飛び降りた。着地には成功して、痛みはあまりなかった。病室を下から見た。カーテンがバサバサと暴れていた。
「先生、いつかまた会おうね」
大好きな先生と別れるのは辛いけれど、ぼくにはやらなければいけないことがある。先生、見せてあげる。
あの頃のような痛々しい姿ではない。けれども、同じように本能のまま走った。通行人は裸足で病院着のまま走る少年を見て驚いたが、月光に照らされる顔を見て、惚れ惚れしていた。
立ち止まった場所はウインドウが特徴的の花屋だった。とっくに営業時間は終わってそうだが、店内は電気がついていて、客は居ないけれど、ひとりの女性が赤い薔薇の前で立ち尽くしていた。ドアノブを触り少し力を入れると簡単に開いた。そう、あの2人がいた花屋だ。
「...誰?」
「すみません、突然」
その女性の右手には花達をお手入れするハサミではなく、小さいが鋭利なナイフが握られていた。レイは死のうかと考えていたのだ。
「金髪の男と、長身の男をここで見たんです。その2人を探していまして」
「そうなの。私も探しているよ。でももう帰ってこないよ。2人は」
「どうしてですか?」
「出てってもらえる?私やることあるから。まず営業時間外だし」
女性の目付きは死んでいて、赤い薔薇を刃先でつついていた。無視して話を続けた。
「金髪の男知ってますよね。目鼻が細くて、小柄の金髪の。」
「カナウって人でしょ?彼ね、その長身の男に連れ去られたの」
「連れ去られた…」
今にでも途絶えそうな声を発すると、刃先を左手首に向けていた。
「待って!!!」
「何よ!!」
アイナは止めに入った。この女性なら何か知っていると感じた。後ろから右手を抑えて、刃物を床に落とした。もがいて反抗されたが、負けじと抑えた。
「お話ししませんか。ぼくは、長身の男について知っています。教えるので、貴方は、金髪の男について教えてくださいよ」
「あのでかい男について知ってるの?」
「知ってますよ。実兄ですし」
「えっ…」
レイは驚愕した。あいつの弟?彼も彼であいつを追いかけているのか?反抗をやめ、彼の手を優しく解いた。死ぬ気がなくなってきた。彼に話を聞けばカナウと再開する手がかりが見つかるかもしれない。アイナの方に向いた。
「弟さん?お名前は?」
「ぼくは、アイナって言います」
「アイナくん?」
「はい。貴方は?」
「私はレイ。」
「じゃあ、お互い呼び捨てで呼び合いましょう」
「分かった」
あいつの弟とは思えないくらい真面目で優しそうな印象を受けた。アイナ。カナウと同様、女の子のような可愛らしい名前だ。とりあえず、アイナを座らせようと事務所に行き、椅子を引っ張ってきた。
「ごめんね。古い椅子で。これに座って。」
「いいですよ、レイが座って」
手を引かれ、肩を押され、椅子に座らされた。あいつと違って女性にも優しいのか。かなりの美形な上、傷んでいる白髪(シロカミ)もプリン状態なのに似合っている。あの頃の醜い風貌はすっかりとなくなっていた。レイは心を奪われた気がした。
「あ、あのさ。まず、アイナのお兄さんの名前ってなに?」
「あの人は、リョウって言います。」
「リョウって言うんだ。家庭ではどんな人だったの?」
「あんまり覚えてないんですけど。とりあえず、ぼくたちは毒親育ちなので、かなり歪んでいると思います。まともではないです」
「そ、そうなの」
タブーな問題を聞いてしまったが、突然怒鳴って平手打ちしてきた姿を思い出せば、妥当だ。
というか、まずなぜアイナは裸足に病院着なのだろうか。病院を抜け出して脱走してきたのか?下手に聞くと面倒なことになりそうなので、スルーしておこう。
「リョウは突然、毎日、赤い薔薇を握り出すようになったんです」
「え?」
「通販で購入した高級なギフト用の赤い薔薇を毎日購入しては、大事そうに握って見つめていて。」
赤い薔薇。ギフト用の。店の前に置かれていたあの赤い薔薇のことか?
「それの行き先は知らないんですけどね。多分惚れた男にあげてたんですよ。リョウもぼくもゲイなので」
さらっとカミングアウトされたが、これも一つの恋愛観として心の中で納得しスルーしておこう。問題はカナウが危険な目に遭っていないかだ。かなり深い話になってきた。レイは立ち上がり、入り口を施錠した。
座り直すと、アイナが質問を投げかけた。
「レイは、カナウのことが好きなの?」
「そうよ。大好きよ、カナウちゃん。もちろん、恋愛的な意味で」
「リョウに何かされたの?」
「カナウちゃんがリ、リョウに花屋をやめさせられた時に、この店に来たんだけど」
「うん」
「私を見た途端睨み付けて、平手打ちしてきたの。以来、憎くなって。それ以上に、カナウちゃんの身に何か起こっていないかとか、私にまた危害を加えるんじゃないかっていう恐怖心がもの凄くて」
「そんなことしたんだ」
あの従順で優しかったリョウが、アイナ以外の相手に狂って、人に危害を加えるまでになってしまったのか。なんだか、失望した。過去の記憶ではなく、人格を捨てたアイナは、リョウに対し拒絶感を覚えた。
「アイナは何かされたの?」
「ぼくは、リョウの前で暴れたりした。だからこんな格好なんだ。察してね。でもね。リョウは実の弟であるぼくを捨てたんだ」
「捨てた?」
「そう。ぼくたちは小学生の頃、既に親に捨てられているんだよ。その上、未発達な部分も多くて社会に出られなかった。二人で傷を舐め合って生きていくしかなかったのに。愛の言葉をたくさんくれたのにも関わらず、リョウはぼくを捨てたんだ…」
「まさか、カナウちゃんに惚れて…?」
「そうだ。カナウをストーカーしたのもリョウだ。攫ったのも。ぼくは精神を壊した。だって、本当に孤独になっちゃったから」
アイナは嘘をついた。自分もリョウに粘着し、毎晩セックスを求めたことを隠した。レイに同情して貰いたかった。自分自身をうまく悲劇の舞台に立たせれば、人を騙せることを、開放病棟の広場の本棚に寄付されていた絵本で学んだのだ。過激な治療の後遺症か、涙腺はボロボロだ、余裕で嘘の涙を流すことができた。俯いて鼻をすすっていると、レイが椅子に座らせてくれた。
「そんな…!許さない、こんなにいい子を、捨てるなんて。やっぱりあいつはクズなんだ。最低だ!」
脳内で薄ら笑いをしたアイナは顔を上げ、腕にしがみついた。
「レイの大好きなカナウも危ないんだよ!あいつが関わるとみんな不幸になるんだ…予感だが、カナウが危険な状態にいる気がするんだ!カナウを一緒に助け出さないか?」
目を大きく見開いて息を荒げた。レイは勢いよく抱き締めてくれた。
「アイナ、私は貴方も助け出すよ。ここだと不審に思われるから、私の自宅に行こう」
「ありがとうレイ。感謝するよ」
憎かったカナウを助け出すために、助けたかったリョウを恨み殺すために、アイナは初めて大きな嘘をついた。絵本も理解が出来なかった少年が、まるっきり、優等生のように変貌している。レイは事務所に戻りカバンを持ってきて、刃物を仕舞うと、電気を消し、鍵を開け、死のうとした手でアイナの手を握った。花屋を捨てる覚悟で飛び出した。
「アイナ。何か食べたい?」
「そうだなあ。ハンバーガーでも食べたい」
「分かったよ。ショップに寄ろうね」
ショップ?なんだそれは。吐ききったハンバーガーが何処で売っているのか考えたことがなかった。レイはアイナを、某ハンバーガーショップへと連れて行った。店内は若者からお年寄り、家族連れで大盛況だ。
「五月蝿い…」
「どうしたの?」
「どうしてここはこんなに五月蝿いの?人も多くて不愉快だよ。こんなところにハンバーガーが売っているの?」
「えっ…」
この子、本当に何も知らないんだ。親にも兄にも捨てられ、ずっと一人で生きてきたのか。思わず同情してしまったレイは、大きなメニュー表を指差した。
「あそこから選ぶの。好きなの選んでいいよ」
「…おおきなやつ」
「ビッグのやつね」
アイナを待合席に座らせるとレイはビックバーガーを購入した。周りの人々が不恰好なアイナを見つめ不思議そうに見つめていた。その様子を見て持ち帰りの紙袋を受け取ったレイは素早く外に連れ出した。パニックになってもらっては困る。アイナというものを保てるだけであって、触れたことのない習慣や文化を目の当たりにすると、まだ戸惑ってしまう。
「ごめんね、アイナ。びっくりしたね」
「いいよ。久しぶりに外に出たから緊張しただけ。」
顔を撫でようとするとそっぽ向いたアイナを見て、なんだか愛おしく見えた。自宅のアパートまで、手を繋いで連れてきた。鍵を開け、扉を開ける。
「お邪魔します」
「どうぞ」
女性の部屋に初めて入った、というか、他人の部屋に初めて踏み入ったアイナはまた戸惑っていた。ゲイと言えど男だ、本能的に女性には緊張してしまう。さらに母親も知らないし、苦手意識もある。リビングの入り口で立ち止まっていると、レイが優しい笑顔で迎え入れてくれた。
「もう、なにやってんの、おいで」
「だって」
ミニテーブルの前に座らせると、飲んでくれるかは分からないけれど紅茶を用意した。テーブルに二つ置く。アイナは不思議そうな顔をして香りを嗅いでいた。
「これ、本で見たことがある。お姫様が飲んでた。」
「可愛いこというね。ちょっと飲んでみてよ」
折れそうな細いカップの取っ手を優しく持ち、一口、口にする。
「美味しい」
「良かった。ハンバーガーも食べる?」
「うん」
吐き癖が付いているから、吐かないか心配だけど、どうしても食べてみたくて頼んだ。無理やり食べさせられた経験があるのに、何だか食べたくなった。レイが薄い紙を剥がし、差し出す。手に持ち、口に入れるとキツすぎる風味に驚いた。
「ちょっと、どうしたの」
「いや、初めて食べるから、こんな味なんだと」
「美味しくなかったな〜その顔は」
「そんなことないよ」
咀嚼し、飲み込むと、思ったより美味しかった。本当はこんな味がしていたのか。治療中の自分のイカレ具合にも驚いた。
「気持ち悪くなったらいつでも言ってね」
「うん。大丈夫」
食事が終わると入浴をした。シャワーを浴びていると、後ろから声がした。股間を隠してしまった。入浴を終わらせると、レイに変わった。一人で正座して待っていた。30分は経った。女性の入浴ってこんなに長いのか。パジャマ姿で出てきたレイはゴォーと鳴る機械で髪を攻撃していた。何も知らないことだらけだ。
すると、アイナのもとにやってきて、髪に攻撃してきた。
「やめて!」
「ドライヤーだよ。したことないの?髪染めてるんだし、しないと傷むよ」
意外と心地よかった。乾かされた髪を触ると、とてもサラサラでずっと弄ってた。レイはアイナの隣に座り、テレビを付けた。
「テレビ、見たことない?」
「ない。何このおじさんたち?」
「芸能人っていうの。」
「このおじさん変な人」
「あは、この人はお笑い芸人さんだよ。面白いことをしてね、人を楽しませるの」
画面の中でおじさんたちが裸になってイチャついてる様子を見て、アイナは少しだけ変な気持ちを抱いた。
次に出てきたのはレイのように綺麗な女性だ。暗そうな顔をして過去を喋っている。
「レイの方が綺麗」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。ありがとう」
次こそはと頬を撫でる。アイナは顔を真っ赤に染めて目を見開いた。愛情ってこういうことを言うんだ、本当は家族から受けるものなのに。
その晩、レイと一緒の布団で眠った。柔らかな石鹸の匂いが寝室に漂っていた。胸の中に抱きしめた。ゆっくりと眠りに入ったアイナの頬にキスをした。
(「アイナ。お父さんだよ」
「リョウを殺しに行くんだ」
「隣の女も、カナウも、全員殺せ」
「今まで、ごめんな」)
「それでさ、アイナ、ねえ聞いてる?どうしたの」
「いや…」
変な夢を見た。そのことが気にかかって仕方ない。朝ごはんを済ませ、二人で談笑していた。
夢の中に出てきた先生が「お父さん」だと言った。そして、三人とも皆殺しにしろと言うんだ。隣に座っているレイの顔を見た。
「あのさ、レイは、リョウをどうしたい?」
「どうしたい?檻の中にぶち込みたい。あんな犯罪者」
「ねえ。リョウをさ、二人で」
「うん」
「殺さない?」
「えっ…?」
突拍子もなく何を言ってるのだ。こちらを見つめてくるアイナの顔を見ると、かなり真剣な顔をしていた。大きな目をギロリと剥いて、呼吸が荒くなっていた。本気で考えているのか?
「私たちが犯罪者になってどうするの?」
「隠し通せばいいんだよ」
「そんなの無理だよ!」
「あいつは早めに殺さないと。警察を使ったって無駄だ。警察を動かしている間に、リョウが逆上して、カナウが殺されてしまうかもよ?」
カナウちゃんが死ぬ…殺される、カナウちゃんがこの世からいなくなる、もし警察を動かせば逆上してカナウちゃんが殺される…愛おしいカナウちゃんが居なくなれば私は。
「…例えば、どうやって殺すの?」
「レイ。車の運転はできる?」
「まあ、免許くらいは持ってるよ」
「あいつを轢き殺すんだよ。多分、週に一度くらいは夜の街に出てきてると思うんだ。それじゃなきゃ、カナウを養うどころか、自分も生活できないから。そこを狙う」
「よ、夜の街?」
「あいつは男娼なんだよ。」
それも一つの職業なのは分かっている。が、正直ドン引きだ。本当に未発達で、まともに働けないのか。あいつが自分の肛門を男に開いて喘いで、札束を貰い、カナウちゃんを養っている?ふざけるな。気色が悪い。そうか、轢き殺せば、事故だと間違われる可能性もある。あいつが死んでカナウちゃんが助け出されれば、自分が檻の中に入ってもいい。カナウちゃんが幸せに暮らしてくれればそれでいい。寝室に飾ってある紫のクロッカス。少しだけ扉が開いていたので、匂いがリビングにも漂ってきた。「愛の後悔」。カナウちゃんをもっと大切にしていれば。いつのまにかレイもカナウに狂っていた。アイナの大きな瞳に思考回路を吸い取られたかのように、非人道的な提案にも頷いてしまった。
「じゃあ、私の車を使おう。」
「車持ってるの?」
「持ってるよ。通勤は歩くけど、遠くにお出かけするときとかに使う」
「分かった」
希望と後悔に成れ果てた先は、どんな結末が待っているのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます