5.それぞれの新生活
目が覚めるとそこは、あの無機質な感情のないコンクリートで囲われていた。前に見たのは無限に広がっていたけど、ここは、四角の箱型になってアイナを閉じ込めていた。動けない。
「なんだ、これ!」
アイナがよく着ていた白いワンピースに似ているが、無駄に肌触りが悪かった。腕は組まれ、胸のあたりで拘束されていた。目の前には白色の塗料が塗られた柵が立っていた。
「出せ!出せ!出せ!」
いつかは思い出せないが、誰かの家に行き、リョウに叫び散らし、扉を叩きまくったようにはできない。発狂し始めたが、誰も来ることはなかった。叫び疲れたアイナは端に座り込んだ。ボロボロと涙が出てくる。
「分かんないよ、ぼく、分かんないよ、なんでこんな所にいるの。お兄ちゃんに死ねって言ったから?」
記憶が曖昧だ。ふわりふわりと霧の中に浮くような感じで見えてくる。だから、分からないところも多い。音声は再生される。消えてはいない。
「お兄ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい、助けて、助けて。」
蹲って啜り泣いていると、複数のコツコツと鳴る足音が聞こえた。顔を上げると目の前には、同じような白いワンピースのようなものを着た集団がいた。先頭には、やたら貫禄のある男が立っていた。
「起きたようですね」
「叫んではいたけど、泣くとは」
「記憶はあるな」
「逸材、だからね」
アイナの様子を見て不規則に話し始めた人間達。笑う者もいれば、不思議がって見つめてくる者もいる。先頭に立つ、大柄の端正な顔立ちをした男は、薄ら笑いをした。逸材?意味が分からない。病院にかかった経験すらないが、せいしんさんびうたで見たことがある気がする。この人たちは医師、か?
「ねえ、出して、出してよ、出してよ」
アイナは立ち上がり、柵の隙間に顔を置いて、掠れた声で嘆いた。苦しい。息が詰まりそうだ。吐き気がする。頭が痛い。
「出して欲しいのかい?」
「出して。苦しいから出して」
先頭の男が聞いてきたので、正直に気持ちを伝えた。
「それは、今後の君次第だね」
「なに?なにすればいいの?」
「私たちの言うことに従えばいいさ」
「どうして、どうしてぼくは、ここに居るの?」
この人間達に従う?そんなこと出来るはずない。まずリョウ以外の人間を知らないのに。リョウ以外の人間...?
「君はね、自分の肉親に恋をした愚か者なんだ。当然、対象の男はほかの恋人を作るだろうね。」
「...」
ほかの恋人?リョウはたしか、金髪の男といたような。恋人...?
「それに腹を立てた君はストーカー行為をし、恋人の家の前で暴れたんだ。そのまま救急車で運ばれ、ここに収容されたって訳。」
やはり目の前の人たちは医師だ、そしてここは、閉鎖病棟なのか。出来事や記憶を他人から改めて辿られると、色々思い出す特徴がある。いつのものか分からない出来事も。ぼくは暴れた。暴れて閉鎖病棟に押し込められた。暴れた場所。恋人の家の前?恋人...
「お兄ちゃん...お兄ちゃんにはやっぱり恋人がいるの!?」
「ああ、金髪の、恋人がいるんだろうね。」
「そんな!!ぼくと恋人なはずだ!!」
「そんなわけあるまい。あんたとあいつは兄弟だろう。兄弟は恋に落ちれないのだ。落ちないのではなく、恋には落ちれないのだ」
「恋に落ちれない?そんなことあるはずない!!お兄ちゃんとぼくは、結婚すると決めたんだ!!」
「ああ、なんて愚かな少年だこと。同性である上、肉親に惚れてしまうなんて」
「うるさい!殺すぞ!」
甲高い声の人間に馬鹿にされ、アイナの癇に障った。再度発狂し、こいつらを殺すために脱出しようとした。柵に頭を打ち付けた。
「ああ、それでこそアイナだよ」
アタマのオカシイ狂人でこそアイナなのだ。先頭の男は埃だらけのカルテに記入した。最初から、アイナのことを知っていたかのような口調だが、アイナの目付きと男の目付きは酷似していた。叫び声と痛々しい音が響く中、医師たちは止めることなく観察していた。
「アイナ...」
「ああああぁぁぁあ!!あぁ...うっ、あぁ」
数分間打ち付け限界が来たのか、柵から頭を離しふらついていた。長い前髪は血が滲み、額に張り付く。鼻の辺りまで血が滴っていた。
「アイナよ。言え。これからどうしたい」
「はぁ、......は、お兄ちゃんの恋人と、お前らを」
「なんだ」
「殺したい...」
「分かった。それではまた来る。好きなようにするがいい。」
「行くな!殺す!絶対に殺す!」
決死の思いで叫んだが、医師たちは去って行った。頭が痛い。骨が割れていそうだ。我に返ると、痛みに襲われ藻掻くだけになる。
「ヴっ、う、あっ、はぁ、ぁあっ、お兄、ちゃん」
リョウの笑顔が脳裏によぎった。幸せだった。不自由がなかった。気になることはあったけれど、リョウと暮らしていた日々はとてつもなく幸せだった。
「ヴォェ」
喉が熱くなり上ってくる感覚がして、勢いのまま餌付くと吐瀉物が出てきた。胃液に交じる白い肉。
「うゔぅっ」
地面に這いずり、服に臭い胃液がしみても無視して、白い肉を食べた。ドロドロとした感触ではなく、咀嚼するとジュワっと汁がでてきた。天井に監視カメラがあることも知らず、アイナは好きなように動いた。
「先生、彼との関係は?」
「肉々しい関係かもしれない」
「そうなんですか。とりあえず、あれを続けておきましょう。少し時間がかかるとは思いますが。」
「ああ。」
医師たちは大きなモニターからアイナの様子を見ていた。なにかの研究対象にでもしているのか、普通の精神病院とは違う雰囲気だ。アイナの完全なる本能を呼び覚ます。周りからは既に恐れられているかもしれないが、アイナはまだ直接人間に危害を加えることは出来ないだろう。アイナがコロリと変わるその日まで、檻の中に押し込めておく。アイナと肉々しい関係であることを初めて他人に話した男はコーヒーを飲みながら、微笑んでいた。最奥にある閉鎖病棟は、現在アイナしかいない。開放病棟には、子供たちが溢れかえっている。ここは、古くからある児童精神科だ。表では、医師が優しい、徹底している治療、と書き込まれ評判がいい病院だ。
「あ、ぁヴっあ、ああ」
アイナはそんなことも知らずここは狂った精神病院なんだと思い込んでいた。吐瀉物を数時間ほど舐めていたアイナは気絶した。なにか薬を打ったわけでもないのに、精神攻撃は効いたようだ。男は、アイナを殺人鬼に変えてみようと目論んでいた。変えた所でなんの意味もないが、ただただ見てみたい。この子が人を殺すところを。
「アイナ。昔から出来損ないだったが、今もそんなに変わらないのか。」
気絶したアイナを起こさぬよう、静かに檻を開け、頭を撫でた。檻の中の新生活が始まった。
「うっ...」
再び目が覚めた。鼻の辺りが血ではなく、吐瀉物の匂いに包まれていた。まともに食事をした経験がないせいか胃酸の匂いがかなりキツイ。腐敗臭がした。えづきながら、立ち上がる。檻から鼻を出した。外部の匂いも分からない。更なる吐き気を催していると、男がやってきた。
「食事だ。手を使って食べられないだろうから、俺が食べさせる」
「お前なんかに、」
「口を開けろ、さもなくば口も固定するぞ」
ボロボロの歯をギリギリと横に動かしながらも、渋々口を開けた。男はアイナの目線に合わせ腰を下げた。朝食は野菜が多めのサンドウィッチのようだ。摘むと口の中へ放り込んだ。
「うヴっ、」
「噛め」
アイナが異食症であることは知っているが、まともな朝食は矯正させるためではない。
「そのまま飲み込め」
死ぬ気で咀嚼したのちなんとか飲み込んだ。しかし、飲み込んだものが逆流してきた。
「吐け」
「あぁ、」
食道が焼け焦げた感覚に襲われた。手を使えないのでそのまま狼狽え、檻の中に吐き切った。
「味はどうだ?」
倒れたアイナから返答はなかった。浅い呼吸を繰り返し、服の上からでも分かる背骨が痛々しかった。強烈な匂いが辺りにも漂う。
「また来る」
「じ、ね」
骸骨が話しているような声だ。放置されたアイナは泣くことも出来なかった。
「お、にぃちゃん」
リョウを助けることをたったひとつの生き甲斐にしていたのに。それすらも、なくなってしまった。此処はまともな空間じゃない。直感で分かった。リョウが助けに来ること。気絶した頭の中で、少しだけ浮かんできた。ただただリョウが好きだっただけなのに。ぼくだけどうしてこんなことになるの。生まれて幸福と不幸すらからも隔離されていたアイナは、初めて不幸を感じた。
「...」
好きでいることになんの意味がある?
「カナウ。痛いか?辛いか?」
「手首が痛いよ」
拘束状態で座らされたまま数日を終えた。無事に毎晩眠ることが出来た。寝室にはリョウの匂いが漂っていて安心した。見張ることはなく、手を出すこともしなかった。リョウは気分が悪くなっていた。夜を迎えるたびに思い出す、嫌なほど感じたもの。リョウの視線の真上にいた妖怪…。元々ベッドに付属していた小さな棚の間に大型のクッションを挟み、カナウの背中や首は保護されていたので、身体は大して痛くないが、手錠がそのままくい込んでくる手首がかなり痛い。ジンジンと痛めつけてくる。
「ヒゲ、生えないんだね。」
「毛薄いんだよね」
疑問を飛ばしたままいなくなっていたリョウだが、カナウが視線の位置を直すと、シェービングクリームの缶と水が入ったボウルとT字のカミソリを持って仁王立ちしていた。
「剃毛、楽しみたかったんだけどな」
「ぼ、僕の?」
「うん」
悪趣味すぎるだろと内心思ったが、持っていたものたちを床に置いて、ヒゲが全く生えてない鼻の下を指でなぞって、困った顔をしたのを見て申し訳なくなった。
「手足もツルツルだね」
「恥ずかしいよ」
変態だ。変態すぎる。金髪の陰キャ根暗おっさんを監禁して、手足や口周りを撫でてくる。このイケメン、何してんだよ。少しでも優しくされると、嫌悪や恐怖をなくしてしまうカナウは少しだけ気を緩ませた。
「ちょっと待ってろ」
「うん」
襖を開け、シンクの横にある食器棚に置いてあるコーヒーメーカーでコーヒーを作った。軽く息を吹きかけて冷ますと、持ったまま寝室に戻る。
「コーヒーだ。飲め」
指でカナウの唇を上下に開け、カップの端を押し当て、コーヒーを飲ませた。
「美味しい?」
「美味しいよ」
微笑んでみた。すると、リョウも微笑んでくれた。擦り切れているカーテンの隙間から漏れるたったひと切れの日光がリョウの顔を照らした。綺麗だ。やっぱり、綺麗だ。好きだ。怖いけれど、好きだ。
「なあカナウ。暇だろ?音楽聴くか?どんな音楽好きなんだ?」
「僕は、ヴィジュアル系とかかな。」
アイナと一緒...?カナウも聴くのか?リョウ的にはヴィジュアル系特有のメロディーを聴くとフラッシュバックが起きて、アイナの顔が脳裏から離れなくなるのであまり好きではないが、好きなら仕方ない。かけてあげよう。
「カナウはヴィジュアル系メイクも似合いそうだね」
「ヴィジュアル系、やってたことがあるんだよね」
「ええ?やっぱり。」
「挫折したけど」
「かけてみてもいい?」
「べつに、かけ、なくていいよ?」
ヴィジュアル系を聴くとカナウも悲しい過去がフラッシュバックしてくるから随分と聞いてなかったんだけど、それ以外に好きなジャンルもないのでポロッと言ってしまった。カナウを無視してリョウが再生したのは、グロテスクな重い曲だった。グロテスクな表現に気分が悪くなるのではなく、過去の自分を思い出して辛くなってきた。
「このままかけておくね」
「や、」
「え?」
ううん、と頭を振る。アイナの携帯を使って爆音で再生した。「胃潰瘍とルソーの錯覚」。リピート再生に設定して、携帯を棚に置いておく。カナウの様子を見て察したリョウはわざと耳元に置いた。押し入れを開けて、カラーボックスを探る。首輪だ。鎖が伸びていて、細長い革の輪っか。カナウに似合いそうだ。
「カナウ、これ付けてみようよ」
首輪を差し出した。カナウは涙目になっていた。本気でミュージシャンを目指していたのだろうか。それでも再生は止めなかった。重いメロディーが寝室に響く。頭を撫でると、カナウが顔を上げた。
「首輪?」
「うん。きっと似合うよ」
端の金具を外し、カナウの首に巻いた。苦しそうに声を上げたが気にしない。呼吸が浅い方が、精神的にも追い詰められるだろう。手首はだんだんと赤くなってきている。壊れたカナウを見たい。肉や皮膚が挟まらないように金具を止めた。鎖が胸や腹の辺りまで伸びた。リョウは鎖を手に持ち、そのまま後ろに下がり、軽く引っぱった。
「苦、しい」
「じゃあこのままね」
頭の中では胸を締め付けられるような思い出の再生が止まらないのに、さらに呼吸が苦しくなる。カナウの呼吸は、狙い通り浅くなってきた。メロディーに掻き消される。気づかないふりをした。
ピンピンと鎖を引っ張ると、どんどん項垂れた。拘束されている手をモゾモゾと動かした。
「カナウが苦しんでる様子をもっと見たいんだよね」
どれだけ変わっていくのか。自分の不安定な心と感情のせいでついていけない。優しさの欠片もなくしたリョウは表情筋が切れそうなほどニヤけていた。10秒、30秒、50秒、1分、時間の進む感覚が、こんなにも遅く感じるのは久しぶりだ。苦しい。
「ああ、カナウちゃん。もっと苦しくしてみていい?」
「だ、」
「ん?」
「いい」
小さな輪っかに声帯と喉仏に留まらず、皮膚や肉まで圧迫されて、小さな返事しか出来ない。耳から入ってくる攻撃により脳みそは過去のことでいっぱいで、さらに苦痛だ。離れられない。本当は大きなステージで…。リョウは立ち上がり、膝立ちのままカナウの耳元に移動した。もう一段階、右方向に金具を動かした。
「ゔっぅ」
えづいた。相当苦しいのだろう。まだ死んでもらっては困るから、40分くらい観察していよう。耳元で囁く。
「カナウ、曲を変えようか?」
そしてそのまま、急所を踏みつけた。痛々しい声をあげ、身体を跳ね上げたカナウは、質問に答えられなかった。リョウは曲を変えた。「ネクラ・ネクロ・ネグロ」。
定位置に戻ると、鎖を握り引っ張った。少し痛んだ金髪がふわふわと日光と共に揺れる姿。短めの睫毛。斜め上から見る綺麗な高い鼻筋。とても綺麗だ。時計を無視して、体内時計で40分を細かく計った。カナウは項垂れたまま動かなかった。考えることを放棄したのか、返答は頷くのみ。一旦、観察を終わる。
「はぁ、はぁ、…」
「苦しかったか?ごめんな」
「うん」
首輪自体を外した。首には深い跡がついている。ゆっくりとカナウを抱きしめた。身体は震え、呼吸は整わない。落ち着かせるよう背中を撫でた。手首を見ると、こちらも深い跡がついていた。
「リョウ、僕、お腹空いたんだ…」
口を大きく開くとコーヒーと唾液が混じった匂いがした。リョウとの本格的な監禁生活に胸を高ぶらせていて、ほとんど食べていないことに気が付いたカナウは一気に空腹感に襲われた。腹がグルグルと鳴る。コーヒーだけでは気持ち悪くなる一方だ。
「食事は一日に一回。夜しかあげない。」
「そんな…苦しくて、きもちわるくて、吐きそうだよ」
昨日の夜は何を食べたんだっけ。カナウは記憶を辿れなかった。すると、身体の痙攣が始まった。思ったよりも早く壊れてきたようだ。カナウのことだから、意外と耐えると思っていたけれど。肉体的な疲労もそうだが、相当思い詰めているようだ。
「俺は、花屋で働くカナウが好きだよ?」
「じゃあ、止めろ…」
「ん?」
「音楽を止めろ!」
突然、低く掠れた声を出して怒鳴ってきた。
「そんなに考えちゃうのかあ。夢を抱いたことがない俺はわかんねえなあ」
そう言うと、リョウは音量をさらにあげた。
嫌いだ。嫌いだ嫌いだ。僕よりも優れている人間ども。叶わないのが嫌なんじゃなくて、自分よりも才能が優れている人間に嫉妬しているだけだ。
「ふふ。」
やはり精神的攻撃は肉体的攻撃より効くらしい。リョウは音楽を止めることなく、「多少の生きがいであった花屋で働くことさえ失った」カナウを痛め続けることにした。カナウの目に、今、俺はどんな風に映っているのだろうか。相当綺麗に映っているのだろう。そして、俺を観賞用としか見てなかったから、とっくに嫌いになってるのだろうか。
「カナウ、だーいすきだよ」
泣き始めたカナウに愛情を伝えた。
「うぅ…」
逃げたい。やらなければいけないこと。を改めて見つけてしまったカナウは、精神が堕ちてゆく。
「今何したいと思った?大好きな俺とセックスしてみたい?」
「何言って、」
「解放してほしい?もう辛い?でもね、俺に殺されるまで、カナウは逃れられないの。」
なにも、告げることじゃあないだろう。やってることもド変態だ。僕よ。なぜ上辺だけしか見れない。上辺しか見たくないのだろうね。現実を見れない。変わりすぎる考え。どうせ、目の前でパッとリョウが優しくなったら、また好きになるんだ。それでもリョウを越す夢物語がある。逃げていたんだ。叶えたい。逃げていた?もう、どこからも逃げれない。
「なあ。」
ずっとずっと考え込み、痙攣しながら過呼吸を起こす寸前のカナウに声をかけた。
「セックスでもするか?」
「はっ...?」
「多分なあ、気持ちよくなれば、何もかも忘れんだよ」
花より綺麗なリョウに。同性に抱かれる?犯される?
「む、」
「切っちゃおうかな〜」
いつの間にかリョウの手にはハサミが握られていた。
「あ...」
カナウが花屋で使っていたあの、赤い花ハサミ。
「やめろ!」
「暴れても意味ないから」
僕って、ゲイなのかな?僕って、男に犯されても正気でいられる???目の前のリョウに犯されて...ザクザクとズボンが切られていく。強引に切り裂かれていく。数日変えていない蒸れた下着が見えてきた。しなっている。下着が刻まれる。冷や汗が出てきた。リョウは初めてアイナに犯された日のことを思い出した。このベッドで眠っていたら、突然襲われた。両手を結束バンドで固定され、自分の手首を切るカミソリで服を刻み込まれたのだ。
「あーあ。カナウの大事なところ、元気ないね」
「やめて!やめて!やめろ!!!お願いだから!!」
「俺とセックスしないんだったら、腕を切ってやるから」
アイナと同じようにやった。リョウの腕には白い傷跡が残っている。お前も傷付けばいいと、花ハサミの先端でカナウの白い腕を深く傷つけた。
「痛い!やめて!分かったから!もういいから!」
「ホントに?」
「痛いって!お願い、もう、いいよ...」
腕には5本もの深い傷跡がついた。皮膚がえぐれ、血の塊がボタボタとシーツに落ちている。カナウは痛みに悶え、血と共に涙をこぼす。手に持っていたハサミを床に投げ捨て、リョウも服を脱いだ。初めて見るリョウの裸体。とても、綺麗だった...
「大丈夫。洗ってないけど、痛くないから」
意味が分からないまま、記憶を失った。
「あヴっ、あヴっヴ、ヴ、」
「アイナ、落ち着け。食え。」
「あぁぁあ」
理性を失った獣、と例えるのが良いだろうか。檻に押し込めて数週間。食事の量も増やしつつ、吐かせる量も増やした。すると、アイナはどうなっただろうか。
「あぁぁっ!!ヴッ、あ」
狂った。尋常じゃないくらい狂った。アイナにとって、食事をするという行為はかなりの苦しみを伴い、痩せ細った骨のような身体で吐くという行為は、かなりの疲労を伴うようだ。毎晩、係がアイナを押し付けて、清掃員が吐瀉物を清掃する。そんな時もアイナは噛み付こうと牙を剥いていた。それに加え、当然眠れないのだろう。深夜にモニターを覗いたときには、アイナは大きすぎる目をギンギンに開きグルグルと唸っていた。犬に育てられた少女の映像を見たことがあるが、酷似している。現在は昼間。男はアイナのもとにハンバーガーのセットを持ってきて、食わせようとしていた。
「ほら、うまいだろ。」
「ヴヴ」
口の中に放り込み、唇を指で固定すると、すんなりと飲み込んだようだ。ポテトにナゲットに、ジュースに。様々なものを食べさせている。一通り食べさせた後は、狼狽えるアイナを放置した。モニターの前の定位置でコーヒーを飲んでいると、看護師がやってきた。
「先生、なぜ彼にこんなことをするんですか?」
「アイナの人格を変えたくてな」
「悪い方向へ行ってません?」
「行ってるな。それでいいんだ。」
男の目指してるものが全く理解ができない。
「いつまで続けるつもりですか?悪臭が酷くて耐えられません。というか、何故嘔吐させるんですか?」
「私の元嫁が関わってるんだよ。」
そういうと男は看護師を隣に座らせ、過去を話し始めた。
男は、精神科医になるだいぶ前。医師を目指そうと、実家で勉強に励んでいたとき。とある恋をしていた。
「いつ見ても可愛い」
勉強机に飾ってあるガラスの写真立ての中にいた少女。傷や汚れが目立っているが、男が常に持ち歩き、何処にでも一緒に居られるようにとしていた証拠だ。
幼い子供とは思えないほどの綺麗な顔立ち、男はそこに惚れていた。少女は男の妹だった。しかし、一緒に暮らしているわけではない。幼少期に両親が離婚し、母親と共に妹は出て行った。実家には、男と父親が残った。あまり幸せではない日々、父親は悪い人ではなかったが、子供には手を加えず無視をし続ける人だった。ただ、とても賢く裕福な人だった。
「はぁ。ムシャクシャする。」
勉強は得意だから問題はない。幻想に恋をし続けるのがどれだけ苦しいことか。そんなもん、同じ境遇にいる人間とでも分かち合えないだろう。心が枯れている最中、いつのまにか、クラスの女子にもらったカーネーションも枯れていた。
「花にも嫌われるのか」
なんとなく幻想の中の彼女に嫌われている気がしていた。別に彼女が死んだわけではないが、常に後ろから視線を感じたり、覚えているはずのない声が聞こえたりしていたのに。ここ最近、パッタリとなくなった。
「僕は、ロリコンなのか?」
彼女に欲情してしまうのが原因だと考えた。彼女の顔を見るだけで、気分が高まり、性的欲求が激しくなる。もし、成長した彼女を見ても好きでいられると思った。写真立てを握って立ち尽くしていた。
「ダメだ。抑えられない」
限界が来た男は勉強を放棄し、近くにある夜の街へと出かけた。至る所で下品な格好をした女が男を引っ掛けている。
「みんな下品だな...」
彼女みたいに若くて品のある女性はいないのか。少女でなくていいから。少女でなくてよいから。若くて品のある女性はいないのか。リョウの父親だ。もちろん顔立ちは素晴らしい。強い視線を感じる。足音が近づいてくるから、早足で歩いた。躓きそうになると、ひとりの女性が手を差し伸べてくれた。
「大丈夫ですか?」
黒髪ロングの透き通った肌。結構ニセモノ臭いが、可愛らしい。纏わりつく足跡は消えていた。可愛いのはもちろん、とても魅力的に感じたのでお礼を言ったのち誘ってみた。
「ありがとうお姉さん。突然ですが。今夜どうですか?」
「貴方とですか?ええ。向かいましょうよ。」
彼女は高級そうなラブホテルへ手を引いてきた。そのまま、彼女と一晩を過ごした。帰り際、彼女は小さな紙に電話番号を書いて渡してきた。男も、貰った紙に電話番号を書いて渡した。
「じゃあね」
去っていく後ろ姿は先程まで乱れていたとは思えないくらい、綺麗だった。
それから数週間後。男は無事に大学に合格し、進学した。彼女と致してから、なぜか順調な日々だった。そんなとき、一本の電話が入った。彼女からだ。神妙そうな声で話をしてきた。
「妊娠…」
「そうなの。避妊に失敗したみたい」
「なっ、本当に?」
「本当よ。」
ああ、なんてことをしてしまったんだろう。やってしまった。あまりの欲求に判断がつかなくなっていたのか。バカだ。大バカだ。
「とりあえず、今からでも会いましょうよ。出会った場所で。殺したくないんだよね、私は。」
口調が変やった直後電話を切られた。
「やられた」
頭を抱えた。でも、赤子、一つの命の話だ。言われた通り、出会った場所へ向かった。
「御機嫌よう」
「御機嫌よう…」
既に彼女は居た。わざとらしく腹をさすりながら、ワンピースの端を振っていた。昼間だ。周りの視線が刺さる。
「ここには今、赤ちゃんがいるのよ。貴方と私の。」
「そ、そうなのか…」
「何よ、その反応。まさか貴方、中絶を選ぶ気じゃないわよね?」
「なわけ!」
「じゃあ、貴方、私の家においでよ。」
ワンピースから伸びていた腕は傷だらけだ。致した晩はやけに照明を暗くさせられたので、気が付かなかった。右手を握られると、彼女のマンションへと向かわされた。
「ここよ。」
階段を上り、通路を歩くと、扉の前に着いた。「3-240号室」…そう小さなプレートが貼られていた。ここは3階じゃないのにどうしてだろうか。彼女は自宅に招き入れた。ゴミや物が散乱していて、何かが腐った匂いがしている。一瞬で気分が悪くなった。
「ここで、暮らしません?」
「僕は大学生だ。しかも合格したばかりだ。」
「あらそうなの。じゃあ大学に通いながら住みましょうよ。私が養ってあげるから。」
どうやって?彼女は孕みながら他の男と致し、金を稼ぐのか?まあ。そうだろう。逃げられないと確信した。
「そういえば、お名前は?」
「イオリだ。」
「素敵なお名前ね。私はアイと呼んでね。」
そして、アイとの新生活が始まった。朝や昼は大学に行き、夕方には帰ってくる生活だ。アイは夕方から街へ出かけるので、常に部屋でひとりだった。ただ手料理は美味かった。
「だらしないなあ」
潔癖症なイオリは一気に部屋を片付けた。捨てていないゴミ、腐った生ゴミ。最悪だがやるしかない。週に一度は帰ってきた。アイは手料理を振る舞ってくれる。一緒に食べるのだが、食後、アイはトイレに直行した。何をしているのかと覗くと、アイは指を突っ込み吐いていた…。
「何してる!」
「はぁ、はぁ、イオリ。私はこれをやめられないの。痩せたいとかじゃないの。やめられないの」
見た目はスレンダーだが病的ではない。アイの右手は深く傷ついていた。吐瀉物の匂いが鼻をつんざく。
「栄養は必要だ!やめろ!」
「無理ね。私は手足を切り落とされてもやるわ」
必要以上の分をアイは吐ききった。イオリは衝撃と嫌悪を抑えられなかった。愚かな豚。そんな言葉が似合う。それを機に、どんどん会話は減った。でも、どんどん腹が膨らんでいく。検診にもいかない。栄養がないのに成長しているのか。問うとアイは「貴方がいないときは食べてるわ。あれは狂った私を見せつけてるの」とサラッと言った。絶望したイオリはアイを誰にも見つからずに殺す方法を考え始めた。アイが子供を生んだら実家に戻ろうと決めていたが、イオリは追い詰められ鬱に近くなった。それでも、平然な顔をして大学には通い続けた。気が付かぬ間に臨月を迎えていた。時間の感覚は失われている。
「アイ!産気づいたのか!病院…」
「駄目よ!私はここで産むわ!」
頑なにトイレから離れようとしなかった。アイは陣痛が始まっても、便座に座り、冷たい陶器だけを握り、便器の中に子供を産み落としたのだ。狼狽えるアイを突き飛ばし、すぐさま、赤子を掬い取る。
「ああ…」
イオリはこんなことを考えた。なぜ、男なのだと。
「五月蝿い。五月蝿い。五月蝿い。五月蝿い。」
少しだけ学んだことのある乳幼児の育て方を思い出し、なんとかやっていた。生まれて間もない赤子を持ち出し、脱走することは不可能だと感じた。こんなにも繊細な物体なのか。教材や映像だけでは分からない。アイは平気で育児放棄をした。「生んだらね、終わりなの。でも大体、腹を殴って貰って、流産するのよ」そう言った。そんなクズは毎晩男と踊っている。一人で勝手に「リョウ」と名付けた。意味は特になかった。全く可愛くないよ。女の子なら良かったのにね。特に、夜泣きには耐えられなかった。カーテンの開くテラス戸から星に降られながら、リョウの五月蝿い泣き声に、頭を抱えていた。耐えた。やった。飼育した。
久しぶりにアイが帰ってきた。もう無理だと訴えた。また、アイはセックスを求めてきた。泣きながら応えた。また、妊娠を告げられた。また、吐き始めた。吐瀉物がかかった料理が美味しい…、リョウに乳がわりに吐瀉物を飲ませた。
それでも黙らない。ある日、ブチっと何かが弾けた。遂に、リョウを殴った。泣くたびに殴った。死なない程度に殴った。アザだらけになっていく。死んでもらったら困る。人として生きて行けなくなるからね。
「ああ、生きて、生きて、生きてね」
イオリは狂った。アイは平然と料理を作っては吐いていた。リョウは泣き止まない。それでも、殴る。臭くない。襖の奥に顔の見えない赤子の死体があっても臭くない。今は何時何月何日?分からない。またアイが産気づいている。寝室のベッドの上で産んだ。
陰茎がついていたが、リョウとは違って女の子らしい顔をしていた。
「アイ無し。君にアイはない!アイナだ。」
腰に手を当て大きな声で、命名した。アイナが産まれた。ベビーベッドに寝かせると紐で手足を柵に縛り付けた。足に抱き着いてくるリョウを蹴り飛ばした。
「おと、さん!おとぅ、」
「五月蝿い。殺すぞ。」
それにしても、ここは精神病院か?泣き声に泣き声に啼き声に叫び声に。
「アイ。なあ、アイ。」
「何?」
寝室に行くと、アイはベッドの中央で座り込んでいた。なぜか泣いていた。
「どうした?」
「私、イオリと結婚したくなった。」
「え?」
「イオリ。私と結婚しない?」
「…」
俯きながら左手の薬指を差し出してきた。イオリは呆れた。この女を先に死なせなければ。シンクの下から包丁を取り出し右手で握った。ベッドの上で俯くアイを左手で引っ張り出した。
「何…イオリ…」
「死ね、豚が」
包丁を勢いよく心臓に突き刺した。呻き声を上げながら、血の噴水が生まれた。
「なん、で」
倒れたアイは既に息途絶えていた。何回も何回も刺した。馬乗りになり、手を大きく振りかぶり、何回も何回も。
「ぎゃああああああ」
その様子を見たリョウは幼いながらに感じ取り頭をぐしゃぐしゃに掻き、悲鳴をあげた。イオリは一心不乱にアイを刺した。洋服に、床に、ゴミに、血が滲んだ。
「生きてる価値ないんだよ。ここに暮らす人間全員…」
アイから離れると、リョウを睨みつけた。殺しはしない。包丁を放ると、寝室でアイのミニバッグを見つけた。高級ブランドの財布を取り出し、中を開けた。大量の札束の中に小さな紙が混じっていた。
「なんだ、これ」
指で摘んで引き上げた。四人が並ぶ家族写真のようだ。
「う、嘘…」
そこには、イオリの父親と母親、幼き頃のイオリと、
「妹…」
札束の横のポケット美容整形のレシートが大量に詰められていたーーーー「だから、アイナには私と同じような殺人鬼になって欲しいんだ。吐かせているのは、愛おしい妹をもう一度。見たくてね。」
看護師は唖然とした。寒気が止まらなかった。思わず立ち上がり、失礼しますと扉を閉めた。
「アイナよ。もう少しだ。」
モニターの中のアイナは静かに眠っていた。
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