第44話
妻を今でも愛しているし、死んでしまった今でも操を立てているのは変わらない。今も、そしてこれからも。
なのにどうしてだろうか、目の前にいる彼女に乱される理由が分からない。
飛び抜けて美しい容姿に、時折見せる仕草の可愛らしさ、花を語る生き生きとした声。何一つとっても心が勝手に騒ぎ冷静ではいられなくなる。
息子と旅を続ける中で色々な出会いがあったけれど、誰と接しても揺らぐことのなかった気持ちが、今目の前の彼女と出会ってから揺らいでいる事にノクトは激しく動揺していた。
「ああ、そうだね」
「そうなんですよ、プリムラの花が咲いてくれて―――」
空返事をしながら考えついたのが、既に彼女の術中に嵌められてしまっているということ。
相手の心を操作できる呪術者が稀に居るというのは知っていたからこそ、彼女がそうなのではないかと疑った。それも飛び抜けた使い手だとも。
ノクト自身、既に操られ始めているのではないか、そう疑問に思えてしまう兆しがあった。何故なら自然にユーティリアの身体の線を目で追わされていたからだ。むしろじっくりと表現するくらいに、と、分析する。
実際のところ、ユーティリアという女性の魅力に、ただただ魅せられているだけなのだが気づけていない。
ノクトは冷静に動かせているつもりの頭で考えた。身体のどこも術にかかっているという感じもなく、付近には彼女以外誰の気配もない。彼女の傍らにある剣を奪って、逃走や反撃だって造作もないだろう。だというのに、動けない。その理由が分からない。
呪術というものが存在するのは知っていたが、実際に呪術をかけられると、まさかこれ程までにやっかいなものだとは思いもしなかった。
目の前の女性の身体を見てしまうと同時に、妻への背徳感に痛む心。呪術とは、何と不義理で甘美な魔法なのだろうか。そう考える反面で、正しく働いている感情もあるというのに・・・
「仮面様?どうされましたか?」
「あ、いや。何でもない」
仮面をつけていてよかった。今彼女の身体を見ていると悟られずに済む。
今の表情を見られなくて助かった。正直今の自分がどんな顔をしているのか想像がつかないから。
自分でも驚くくらい話題が出てくれるおかげで、彼女の笑顔や驚く声、色々な面が見れて嬉しいのに、片方で死んだ妻に対して不貞を働いているのではないかと苦しくもなる。
一度落ち着こう、そんな思いから茶器に手を伸ばせば、
「あ、今お代りを注ぎますね」
「・・・ありがとう」
すぐさま彼女は意図に気づいてくれて、三度目のお代りを注ごうとしてくれる。
「っ!?」
そんなユーティリアの純粋な行為にノクトは怯んだ。艶のある髪、ふわりと香る優しい匂い、深い溝の胸元に。
お茶を注ごうと軽く上半身を折れば、それだけ二人の距離は縮まるのは必然なのだが、それを呪術の追撃だと誤解したのである。
ところが、茶器から注がれたのは僅か数滴の雫のみ。そしてそれは、どれだけの濃密な時間を過ごしていたかを互いに気付かせた。
「お茶が・・・」
「あ、ああ」
おかげで僅かながら冷静さを取り戻す事に成功したと思っているノクト。
「どうやら長居しすぎたようだ。そろそろ帰ることにするよ」
「お待ちになってください!今代わりを用意してきますから―――」
「楽しかった。まさか、こんなにも話し込んでしまうとは思いもしなかった。ありがとう」
言葉を優しく、意味は鋭く、ユーティリアに突き立てた。
本心は、もっと話していたい。けれど、このまま話を続けても苦しいだけ。もう二度と会わないのならば、直ぐにこの場を離れた方がいいに決まっている。
「いや、です。・・・もう少しだけいいじゃありませんか」
憂いを断ち切るため、ここはハッキリと言わなければならない。剣が抱きしめられようとも、ここで揺らぐべきではない。
「剣を返してくれないかな、俺は約束を守った。次は君の番―――」
だから、なのに・・・
「どうしても、ですか?」
「ああ」
そんなにも辛そうな顔をされただけで決意が揺らぐ。こちらまで辛く・・・いや、実際に辛いのだ。
「叫びますよ、それはもう凄く大きな声で精いっぱい」
「できればそれはやめて欲しい。無理に奪いたくないんだ」
「・・・本当にしますよ」
いっそ叫んでくれた方が吹っ切れるかもしれない。そう考えてしまう自分が酷く卑しい。
「お名前だけでも教えてくれたって・・・」
「教えられない」
自分でも驚くほど淡白に発せられた言葉。
だが、これでいいと。これでいいのだと自分に言い聞かせ無理やりにでも納得させる。
「どうして、どうしてなのですか?どうしてそこまで頑なに拒否されるのですか・・・私のこと・・・・・・嫌いだから、ですか・・・」
出逢って数度。されど数度。
短い時間ではあるけれど、嫌じゃない。それどころか、困惑してしまうほど内側へ入り込まれてさえいる。だからなのか呪術のせいだとしても、ノクトは誤解されたままなのだけは避けたかった。
無難に、目の前の彼女が傷つかずに済む言葉を選ぶが・・・
「嫌ではない。違うんだ、その、なんだ。気持ちの問題というかなんというか」
「でしたら名前を教えてください!」
「・・・申し訳ないんだが」
「やっぱりっ!」
上っ面な言葉で上手くいくはずもなかった。
きっと、明確な理由を伝えない限り彼女も納得をしてくれないだろう。だからといって、呪術を警戒していましたと言える雰囲気でもない。
許されるなら後少しだけでも話をしたい。けれど、ここで終わらせなければならないと前を向く、が、そこで気づいてしまった。
「―――」
正面から自分を見ていたのである、それも涙が溢れそうなのをグッと堪えながら。
それを目の当たりにしたノクトは悟った。急に恥ずかしくなった。次に悔しくなった。そして、何をしているんだ自分は、と後悔した。
彼女との会話を思い出す。
名前をユーティリア。花が大好きで、これだけの広い庭を程一人で切り盛りする女性。多分貴族の中でも位は高いに違いだろうにも関わらず、こんな王宮の中でも隔離されたような場所で専ら過ごしているという。相当長い間ここで生活しているであろう事も、花壇の様子から想像に容易い。
貴族の女性でこんなにも魅力にあふれる女性が篭の外というのは絶対に在り得る訳もなく。つまりそれ相応に不遇されている理由があるはずだ。
普段の話し相手は花。侍女も居るという話だが、いくら何でも限度があるというもの。長くこの敷地で一人で過ごしてきた中に現れた自分という話し相手。そして自分が去れば、再び一人きりの生活が戻ってくる違いない。
呪術ではなく、そんな懸命な姿に自分は心を奪われていたのだ。と、
そしてその誤解は、ノクトの中に熱い想いを生み出すには十分な糧となる。
「・・・」
彼女は剣を拾ってくれた恩人であって、更には鞘にまで手入れを施し返してくれる心の持ち主。
真摯に謝らねばならない、そして、心からのお礼をしたい。
「・・・ユーティリア。剣を返してくれないだろうか」
「―――っ」
「君に、見せたいものがあるんだ」
今まで一度も呼ばれた自分の名前に驚く。思考が遅れ、何故、どうして、という言葉が出てこない。彼女の中でどのような葛藤があったかは想像できないが、長くとても短い空白が過ぎると、ユーティリアは抱きしめていた剣を両手の平に乗せノクトへ差し出した。
「ありがとう」
ユーティリアの手が完全に開くのを待ってから受け取る。背を向けながらゆっくり歩を進め、手頃な場所を確保したところで再び振り向いた。
「貴女への迷惑や思いを踏みにじってしまったことを心より謝罪します。また、この剣を保管していただき感謝いたします」
「え?えっと?」
「お礼になるか分かりませんが、それでも、俺にできる唯一の恩返しをさせてください」
頭を下げる。
そして、顔を上げ、ゆっくり剣を抜く。
旅人の自分に出来る唯一のお礼はこれしかない。
想いを乗せ、彼女に届ける為―――
「貴女に、この剣舞を、送ります」
初めて舞いたいと思えた。
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