第2話空の記憶
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「空を見るといろいろなことを思い出さない」と私は隣を歩くアキ君に問いかけた。
「ん、そうだな」とアキ君は少し考える。高野アキツ。それが彼の名前。彼と私は付き合っている。今年の春にアキ君の方が告白してきて、それから付き合い始めた。もうそろそろ半年になる。
今は夕暮れ。学校から帰る道の途中。私の部活がある日はこうして一緒に帰るのがいつの間にか決まりごとになっていた。
「確かに、あるなそういうことって」そういうとアキ君は空を見上げた。空はオレンジ色に染まっている。雲がバランスよく浮かんでいて空が高く見える。気分のいい空だ。
「陸上部でいいタイム出たときとか気分良く走れたときとか、そういうのたまに空見てると思い出すかな」
「ああーなるほど。でも、私が言いたいのはそういうことじゃないんだよなー」というと?とアキ君が疑問する。
「なんかこう。さぁー表現しづらいんだけどさ。空を見てると時々懐かしい気分にならない?」
「懐かしい?」
「そう」それは言葉にしづらい感覚。
時々私は考える。
空の記憶について考える。
私は時々空想する。
この空が抱えている多くの記憶について。
空の記憶。
と私が勝手に呼んでいるもの。
それはこんなものだ。
例えば、冬の朝。
澄んだ空気にガラスに映ったような磨かれた青空が広がっているとしよう。その時感じるある種の予感。何か素敵なことが起こりそうなそんなワクワクする予感。
例えば、九月の曇り空。
均一に広がった灰色の空。少し冷たい風。そんな時に感じる言いようのない懐かしさ。
空を見るときに感じる感覚。思い出せそうで思い出せないこの郷愁。それが空の記憶。
「曇り空の日ってなんか懐かしくならない?」
「んーワクワクするのはわかるけどな。懐かしいってのはちょっとわからんな」
「そう?私はそういうのあるよ。なんとういうか今じゃないいつか、ここじゃないどこかの記憶がなんかあるような気がするの」
「それって前世的な?」
「んーそうだねー微妙に違うような気がするけど、そんな感じ。強いて言うなら人類の歴史的な?」
「壮大だな」そういわれて少し恥ずかしくなった。
「と、とにかく。行ったことないはずの場所なのに懐かしいってことない?」
「そうだなー」
「例えば、山とか田んぼとかさ、古き良き日本的な風景とか見るとなんか行ったこともないのに懐かしいとかあるじゃん」
「ああ、そういうのか。それならわかるな」
「でしょ?」わが意を得たりと得意げになる。
「こういうのってさ、なんなんだろうって思わない?」
「確かに謎だなぁ」私たちはこういうどうでもいいようなことをいつも話している。こんな内容の会話はアキ君としか話せない。昔は姉とこんな話をしていたけれど、今はそれもできない。
「遺伝子に刻まれてるのかもな」とアキ君はつぶやいた。
「そうかも」と言ったところであることを思いついた。それを言葉にする。
「んじゃあさ、今のこの記憶も遺伝するのかな」私たちの出会いとか、日常とかもずっと後の誰かの記憶の中に残って言いようのない懐かしさの源泉になるのかもしれない。そう思うとこの何でもないような日常もロマンチックなものに感じる。
「そういえば、私たちが出会った時もこんな夕暮れだったよね」
「そうだっけ?」とアキ君。君ってやつは恋人がいのない人だな、と少し落胆。
「覚えてないの?」
「いや、俺たちっていつであったっていうんだろうな」
「と、いうと?」
「俺が告白したのは今年の春だけど。俺は一年の時から楓を見ていたわけで」
「ああ、そういうことか。私的にはアキ君を見たのは告白してきた時からだから春でいいんじゃない?」
「なるほど。なら確かにこんな夕暮れだったな」
「アキ君はいつごろから私を見てたの?」そうい聞くとアキ君は少しうつむいた。
「いや、なんか恥ずいな」聞いておいてなんだけど、こっちも恥ずかしくなった。ちょっとしたイタズラ心だったんだよ。
「あの、無理して思い出さなくてもいいですよ。私も恥ずかしくなってきたし」
「ああ、そうだ。部活入って少し経った頃だったな。忘れ物取りに教室に戻ったら、楓がいて、それでそれから気になってさ。いつの間にか目で追うようになってた」本人から聞くと恥ずかしさ倍だな。これって当人同士なのにのろけになるんだろうか。
「部活って仮入部?」
「いや、入部してからだよ」
「となると、私も声楽部に入部してるね。となると・・・部活のない日で且つアキ君が部活のある日となると・・・木曜か」その頃はもう・・・そして私はあることに気が付いた。
「となると」
「となると、多くない」
「そこは突っ込まなくていいの」
「で、何に気付いたの?」
「アキ君は私と姉さんどっちに一目ぼれしたのかなって」さすがにその時は彼の顔を見ることはできなかった。どんな顔をしていても傷つきそうだったから。
私と姉さんを比べるのは私たちの間ではご法度だった。なのに、つい意地悪したくなっていってしまった。
確かめたかった。
アキ君が私を好きなことを。それだけだった。
私たちはもうかれこれ半年近く付き合っている。けれど、キスもまだだし、手をつないだこともない。正直、付き合ってる感じがあまりしない。だからだ、アキ君は本当に私を好きなのだろうか?という疑問が浮かんでもしょうがない気がする。もちろんそれだけが理由じゃない。最近のアキ君の様子を見ていたら言いたくもなってしまう。
アキ君が部活を再開した理由を私は知らない。姉さんが学校に残ってアキ君とお喋りすることが無くなったのが何故なのか私は知らない。でも、察することくらいはできる。
姉さんに何か言われたんだろう。それくらいわかる。それが悔しかった。
アキ君の大切な決断にかかわれなかったことがなんかさびしかった。だからだ、ちょっと困らせたかった。でも、聞いてから後悔した。やはり聞くべきではなかった。なんだかバカらしかった。こんなことでしか恋人かどうかを確かめられないのが歯がゆかった。
「正直さ」とアキ君が口を開いた。私は空を見上げて彼の顔を見ないようにした。それでも彼は続けた。
「どっちかはわからないんだけど」ちょっとがっかりした。でも、続きの言葉に目が覚めた。
「今好きなのは楓だから」それを聞いたらなんだか胸が熱くなって頭がぼうっとしてしまった。そして思う。私はアキ君が好きなんだな、と。なんだか恥ずかしくてうれしくて今度は別の意味で彼の顔を見れなかった。だから空を見た。
空がきれいだった。
西に沈む日が赤い空を引き連れて落ちていく。東からは夜のベールがその裾を広げていた。二つの空の間には美しいグラデーション。紫の雲が高く、西日に焼かれた雲の端は金色の輝いていた。いい風が吹いていた。夏が終わる。
「は、恥ずかしいこと言うの禁止」アキ君のこういうところはずるいと思う。思ったことを思ったまま言えてしまうところが、その、ずるい。
「大丈夫」とアキ君は言った。
「なにが?」と聞き返すと。
「俺も恥ずかしいから」と言ったので二人で笑ってしまった。
もう姉さんのことなんかどうでもよくなってしまった。張り合ってもしょうがない。彼が私を好きだというならそれが正解なのだ。私も彼を好きなのだから問題ないのだ。姉さんには悪いけれど私たちは結構仲がいいみたいだ。
「ごめんねアキ君」と私は彼を見ていった。彼は笑顔のまま「なにが?」と言った。
「いや、姉さんと比べてさ。ちょっと意地悪したくなったんだ。でも無意味だったみたい」と、私はあることを思いついた。
「ねぇ、アキ君?」少し私たちは見つめあった。
「なに?」
「テ」と途端に恥ずかしくなって言いよどむ。
「て?」と聞き返す彼に、うんと私はなずいた。
「手、つながない?」私は右手を出した。
「そ、そうだな。つなごうか」と彼は左手を出した。ドキドキと心臓が鳴っていた。緊張して少し震えた。
指先が少しふれた。少し硬い感触。指と指が触れあい相手の温かさが伝わってくる。ゆっくりと指が掌に届き握った。ただ、手をつなぐだけにやけに時間がかかった。
不思議な感じだった。
ドキドキしているのに妙に落ち着いてもいる。安心感というのだろうか。なぜだろう、懐かしく、しっくりくる感じがした。
「なんか不思議な感じ。ドキドキするのに安心感がある」
「楓の手ってやわらかいな」
「アキ君の手はしっかりしてるね」私は空を見上げた。
「ねぇ、空がきれいだよ。アキ君」私たち二人は空を見上げた。
「ああ、いいな」言葉が風に溶けていく。少し私たちは無言になった。でもそれは心地いい時間だった。
「ありがとうね」と私は本心を告げた。何が?と不思議そうな彼に私は彼の顔見まっすぐに見てはっきりと言った。
「私を好きになってくれて」
「うん」とアキ君はうなずいた。私は嬉しくて、手を強く握った。アキ君は何も言わずに握り返した。
そして「帰ろう」といって彼の手を引っ張った。その時私は空を見た。その時の空の色を忘れないために。今日という日を忘れないために。空を見るたびに今日のことを思い出せるように。空に記憶するために。
空には気分よく翼を伸ばしたような雲が浮かんでいた。色はオレンジと暗い青が混ざったような色。夜が来るって予感を感じさせる。風には冷たさが混じっている。私はこの一瞬を忘れない。そして思う。なぜかこの時私は懐かしさを感じていた。この懐かしさの起源について私は今一つの仮説を思いついた。
「ねぇ、アキ君」と私はつい笑ってしまった。
「笑うところあった?」というアキ君。
「いや、さ、アキ君がかわいくて」
「なんかほめられた気がしないんだが」
「うん」それでね、と私は続ける。
「なんかさぁ、いま妙に懐かしい気分なんだ」
「そうか?」
「それで何で懐かしいんだろうって思って」
「うん」
「さっきもこんな話したよね。私たちの前にも、たくさんの人たちが大事な思い出を空の下で作ったんじゃないかって」
「うん」
「たぶん、そういういろいろな記憶が遺伝子に刻まれてて、空を見ると懐かしいんじゃないかって」
「じゃあ、今日のこれも、いつか誰かの懐かしさになるのかな」とアキ君がつぶやく。
「なんか恥ずかしいな」と思うけれど、悪い気はしなった。
空の記憶は遠い昔の誰かの思い出なのかもしれない。だとしたら、今の私たちの思いも未来に伝わっていくのかもしれない。ちょっと恥ずかしいけど、そうだといいな、この思いが誰かの懐かしさになればいいと素直にそう思った。
●了●
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