アキノタワゴト(パイロット版)

白Ⅱ

第1話トンボの夢

 「トンボはどうして空を飛ぼうと思ったんだろう」向かいの席に座る西木椿はそうつぶやいた。そんな問いをしたのは俺が外を見ていたからだろう。窓から見える空にはトンボが5、6匹宙に止まって飛んでいた。それを彼女は見つけたのだろう。ちなみに俺はそんなことには気づかなかった。ただ、ぼうっと外の音を聞きながら頭をからにしていた。開いている窓から時々風が吹き込む、それがボブカットの彼女の髪を少し揺らした。

 「必要に迫られてじゃないか?」俺はぼうっとしていたのでテキトーに答えた。

 「なんか投げやりだし、面白くないから却下」どうやら俺の心は読まれやすいらしい。

 「ずっと水の中で過ごしていてもいいはずだし、進化の観点からみても、空にいくってのはなんかウルトラCだと思わない?」まぁ、確かに。そういわれると、少し興味もでてきた。

 「そもそも虫のはねって謎だよな。どこが進化したんだろうな。最初からあったって方がまだ説得力がある」そういうと椿が想像以上に食いついてきた。

 「そう!そうなんだよ。虫のはねってのは謎が多いんだ。そもそも、どこがどう進化したのか今でもよくわかってないんだよ。蝶とかカブトムシとか変態する虫も何ではねなんかがでてくるのか」やや興奮した様子の椿がおもしろかったので俺はこの話に乗ることにした。いつもの放課後の始まりである。

 俺たちはいつもこうして放課後の誰もいない教室でくだらない話をして時間をつぶしていた。

 たとえば、猫はどんな夢を見るのか?

 たとえば、人はいつから靴の左右を見分けられるようになるのか?

 たとえば、エスカレーターの段数の数え方。などなど。

 くだらなければくだらないほどいい。

 それは部活をやめた俺の退屈な放課後の慰めだ。

 早く帰ればいいのかもしれないけれどなぜかそれはできなかった。未練って奴かもしれない。

 「背中にあった突起が進化したって説もある。って聞いてる?」

 「ああ、聞いてるよ。背中の突起だろ?でもそんなのどうやって進化させたんだか」

 「こう・・・ふるわせたんだよ。きっと」

 「ケンコウコツを動かす感じか」

 「そうそんなかんじ」そりゃご苦労なことだ。肩胛骨を動かすイメージで虫が背中の突起とやらを動かすのを想像した。すごい疲れそうだ。筋肉痛なんてレベルじゃはねは進化しそうにない。

 と、そのとき一つのイメージが俺の中に生まれた。それはトンボの幼虫、ヤゴが水中から空を眺めているというものだった。水にゆがんだ青空を彼は眺めている。そこには広大な世界が広がっている。その世界に行きたいと、そのヤゴは思ったのではないだろうか?

 もしそうならば・・・

 トンボが空を飛ぼうと思ったのは・・・

 「夢を見たのかもな」と俺は思いついたことを言ってみることにした。

 「夢?」と不思議そうな椿。俺はそれをあえて無視して先を進める。

 「そう、夢だ。空を飛びたい。水の中から出たい。そういう願い、願望が積み重なって、はねになったんじゃないか」俺はどんな反応が返ってくるかを待った。椿は笑わない、そういう確信がある。だからこんな話をするのだ。俺たち二人は普段ならしないような話をしている。仲がいい友達とだってこんな恥ずかしい話はしない。けれど椿とならできる。なぜだろうか。お互いに近しいものを感じているのかもしれない。似たもの同士というのか。

 「なるほど、おもしろい仮説だ。さっきのの一億万倍いい。トンボの夢ってわけだ」そう。トンボの夢。トンボたちは想像も及ばないくらいの時間をかけてこの夢を実現したのかもしれない。空にあこがれて、空で飛ぶことを夢見て日々鍛錬して。ついには空を飛ぶに至る。それは努力が夢を現実にした寓話のように聞こえた。

 耳の痛い話だ。

 「なんだか、長年の謎が解けてしまったような感じだな。変な感じだ。いい気分だし寂しさも感じる。どうしてくれるんだ。アキツ」俺に当たられても困る。

 「そもそも、この話を持ち出したのは椿の方だろう」

 「いや、私がこの話をしようと思ったのは、アキツが外を見ているからだ」ああ、それでトンボを見つけたんだったな。

 「俺は気づかなかったな、トンボには」

 「違う。アキツは校庭をみていたんだろ?」痛いところを突かれて「う」となる。

 「まぁ、私がいえた義理じゃないがな。戻るなら早めの方がいいと思うよ。夏が終わってしまう」夏ならもう終わっている。そういおうと思ったが。

「トンボの夢。いいと思うよ。アキツがそんなことを考えた。そこに私は意味があると思う」そんなことを言われてはなにも言い返せないではないか。

 「俺はもうやめたんだ。部活にいてもしんどいだけだしな。ならこうやって暇してる方がましだ」そういうと椿は寂しそうな顔をして「まぁ、私のいえる話ではないな。理想を押しつける話でもない。自分で決めたのならそれがいいんだろう」でも、と椿は続けた。

「トンボは夢を叶えたんだろう?あきらめるにはまだ早いんじゃないのか?」今日はやけに突っかかってくるのが妙だった。いつもは互いにお茶を濁す。なのに今日は俺からある種の答えを引き出そうとしている感じがした。妙だ。

 「私、小説の続き書こうと思うの」胸が痛んだ。彼女がそれを決めたのならもう止めることはできないのだろうけれど、俺はやめてほしかった。

 「いいのか?」

 「うん。楓にも迷惑かけられないし」

 「そうか」

 「だからこんな風に放課後集まれるのも、もうあまり無いと思って」

そこの言葉にわかった。と答えるしかない。のは、わかっては、いる・・・けれど。しかし。

 「このままじゃだめなのか」俺たちは弱い。いや、弱いのは俺だけか。

 現実に打ち負かされて逃げ込んだのがこの放課後だ。それがなくなるということは現実に立ち向かわなければならないことを意味する。俺はおびえていた。

 中学から始めた陸上部を辞めたのはもう半年も前のことだ。

 理由はケガ。ということにしている。

 陸上部では短距離をやっていた。全力で思いっきり走れるところが自分の性に合っていて中学のころまでは楽しく走れていた。あの頃はただ、全力で走れればそれだけで楽しかった。全力で走ることが目的だった。その時に感じる自分の体を自由自在に操っているという万能感、それを得るために練習した。走りきった後の爽快感、練習しているときの充実感、すべて自分で完結していた。他人のタイムなんて気にならなかったし誰かに負けても悔しくなかった。なのに今は・・・

 高校に入ってまだ陸上部に入りたての頃、一年生でタイムを計ったとき、俺は惨敗した。中学の時の俺ならタイムよりもその時気分良く走れたかを重視するはずだったのに、悔しかった。負けたことが、悔しかった。何かで負けることがあんなに悔しいとは思わなかった。自分が無力だと知ることがこんなに恐ろしいことだとは思わなかった。それからだ、楽しかったことが苦痛になり始めたのは。練習のたびに自分の無力を感じる。どんなに頑張っても追いつけないんじゃないか?そんな問いが頭をかすめる。全力でぶつかれば本当の結果が返ってくる。それを見るのが怖くなった。でもそのころはまだ、全力で本気で走れば何か変わるんじゃないかと思っていた。だから練習で手を抜くことはなかったし走るとなれば全力だった。それは辛かったけど、それしか方法を知らなかった。馬鹿みたいにまっすぐ走った。

そしてけがをした。

 一年前の今頃だった。俺は右足を折るけがをした。ケガ自体は大したことはない。一か月で完治した。問題はそのあとだった。

 ケガはきかけだった。全力で走らないで済む都合のいい言い訳。

しばらくは練習を見学していた。そしてけがが治って最初の部活の時、俺は初めて手を抜いた。いや、手を抜いたという意識はなかった。でも、今にして思えばあれがいけなかったのだろうと思う。けがが治ったばかりだったから全力でやるのよくないだろうと思って力を抜いて走った。当然タイムは平均以下だったが、けがしてまだ本調子じゃないからだと自分に言い聞かせた。しかしそれがいけなかった。その時、俺は肩の荷が下りるのを感じたのだ。もう無理しなくていいと。思ってしまった。そして手を抜くことを覚えた。ケガを言い訳にして。速く走れないのはケガのせい。全力で走れないのもケガのせい。速い人と張り合うことが出来ないのもケガで無理ができないから。そう思うと心が軽くなった。そう、心から大事な何かがこぼれだして、どんどん空っぽになっていった。そしてある日気が付いた。自分には何もないこと。走る理由。走る意義。走る楽しみ。そういうものが一切ない中でどうして走るのだろうか?それに気づいたらもう、そこにはいられなかった。俺は逃げるようにして部活を辞めた。それが半年前のこと。

 椿はまた俺を走らせようとしているのだろうか?

 自分も走り出すから、と。

 一緒にがんばろう、と。

 椿が走り出すのは結構なことだが、俺が走り出す理由にはならない。

 俺はもうやめたんだ。

 全力で走ってももうなにも楽しくない。

 自分の限界を誰かと比べる苦しさを味わいたくない。

 現実から目を背けていたかった。

 負けることが。

 届かないことが。

 こんなにも苦しいことだとは思わなかった。

 それなのに。

 また、そこに行けというのか?

 その場所になにがあるというんだ?

 「椿は怖くないのか」俺の問いに椿は迷いなく即答した。

 「怖いよ」その瞳はまっすぐ俺を見つめていた。そんな椿に俺は臆した。だから絞り出すような声でしか聞けなかった。

 「小説なんて自分の分身みたいなもんだろ?それが否定されたり価値がないと言われたり、そんなのに耐えられるのかよ」

 「わからない。でも」椿はまっすぐ俺をみていった。

 「書きたいんだ。怖いし嫌なこともたくさんあるだろうけど、書きたい。これだけは変わらなかった。だから」俺はそこまでして走りたいのだろうか?

 「アキツが苦しいのは走りたいからだよ」

 「何でそうなるんだよ。走るのが心底嫌になった俺が」

 「走るのが好きだから。走るのが楽しいから。走りたいから。だから苦しんだ。だから届かないことが怖いんだ」

 「だったら!」とつい声が大きくなってしまった。俺はトーンを下げて聞きなおした。

 「だったら・・・どうすればいいんだよ。逃げる以外に。なにが。出来るって」俺の苛立ちに椿はあくまで静かだった。

 「アキツ。アキツにとって走るってことは、もう、ただ好きでいられるようなもんじゃなくなったんだと思うんだ」

 「どういうことだ」

 「一つ上の段階に進んだ。と言えばいいのかな。誰かと比べて自分の力のなさを自覚する。これも成長なんだよ」

 「どこがだよ。俺はそれが嫌で」

 「自分の力量を正しく認識できない奴は成長しないよ。だから、アキツにとってもう走ることはただ好きではいられないものになったんだ」

 「成長?はっだったら、俺は成長を拒否したんだな」

 「そうなるね。でもまだ」

 「未練ならあるさ。そうでなきゃ放課後残ってたりしない。夜にランニングなんかしない。でも怖いんだ。誰にも届かないかもしれないってことが。自分がなんにもできないんじゃないかってことが」

 「それはみんな同じだよ」

 「それ俺が一番嫌いな言葉だ。なにがみんな同じだ、だ。俺の苦しみは俺だけのものだ。同じだから逃げるなってことかよ」

 「違うよアキツ。これはそういう意味じゃない。仲間がいるってことだ。同じ悩みを抱える仲間がいる。

 みんな同じなんだ。

 仲間がいる、そういうことを私は言いたいんだ。アキツは一人じゃない」椿の仲間がいるという言葉が俺の胸の内にある凍ったところを少しだけ溶かしたような気がした。一人じゃない。みんな同じような悩みの中でもがきながら前進している。なら。俺の逃避は・・・

 「まぁ。私の言いたいことはとりあえず言ったかな。後はアキツ自身が決めるといい」そういうと椿は席を立った。そして鞄を持って教室のドアの前まで行って思い出したように立ち止まると振り返り言った。

「私もこの放課後、嫌いじゃなかったよ。でも、長い休日はもう終わりだ思うんだ」そのままドアを開けて出て行ってしまいそうだったから俺は思わず呼び止めた。

 「一つ聞いていいか?」俺は絞り出すような声で聞いた。「なに?」という椿と目が合う。俺は弱弱しく何とか言葉を作った。

 「何一つ思い通りに行かなくて、どこにも届かなくて、自分が何の価値もない存在だと思うようなことがあっても。椿。おまえなら進めるのか?進めるとしたらそれを支えているものは何だ?」椿は少しも悩む様子もなくはっきりと答えた。

 「楽しかった時の記憶があるから」

 「楽しかった時の記憶?」

 「私も怖いよ。正直さ。小説書く側に回ってみて思ったもん。自分よりうまい人がたくさんいて、自分の下手さ加減に嫌気がさすことばっかりで。書いても書いても追いつけない表現しきれてないうまくならない。そう思うことばっかり。でもさ」なぜか椿は目をそらして窓の外遠くを見ていった。

 「楽しかった時の記憶があるから。小説を書き始めたときあった書いていてた楽しかった時の記憶があるから。前に進める。それがこの道の先にもきっとあるって信じられるから。だから書ける。アキツにもあるでしょ。だからさ」といったん切って。

 「大丈夫だよ」と言った。そして続ける。

「走ったとき。気分が良かったときのことを思い出して。この道の先にそれがあるってことを信じて。楽しかったときの記憶があれば、人は前に進める」私はそう思うよ。そういうと今度こそ彼女は立ち去った。

 一人取り残された俺は。

 校庭から聞こえる野球部のかけ声を聞きながら考えていた。

 楽しかったときの記憶があれば頑張れる・・・か。

 俺も飛ぶべきなのか。

 水面から空を見上げていたヤゴのように。

 背中をふるわせて。

 夢を現実にするために。

 部活をやめてからも基礎練習はやっていた。未練だ。と自嘲したが、本当は怖かっただけだ。走ることは俺にとっては生活の一部だった。それを失うのは怖いことだった。戻る気はなかったのに、全力で走る魅力に俺はまだ魅了されている。それを手放すのが怖かった。だから誰もいない時間に密かに練習する。

 走り出すべきか。

 部活に出て誰かと比べあって。

 自分の無力さを知って。そうやって成長する。

 できるだろうか。

 一度逃げた俺に。

でも椿の言うとおり、俺は楽しさを知っている。走る楽しさを楽しかった時の記憶を持っている。椿は楽しさが苦しさの先に待っているといった。俺もそう信じたい。けれどまだ迷っていた。もう少しだけ時間がほしかった。

トンボは空を飛ぶ楽しさを知ってる。空を満喫してるんだ。だからヤゴたちは空を目指すんだ。飛ぶ事が楽しいって知ってるから。誰に聞かせるでもなく心の中でつぶやく。

 空に止まっていたトンボたちは不意にどこかに行ってしまった。彼らは自由に思うままに翅を羽ばたかせて散って行った。おれもトンボのように飛べるだろうか。楽しさを糧に走り続けられるだろうか。誰も答えをくれない。それを知っているのは自分だけなのだ。

 トンボの夢を叶えるのはいつだって自分自身なのだ。


■了■


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