2-7 「そんなみっともない死に方も生き方もごめんだよ」

四人は、夕暮れまでには別動隊の所在を突き止めた。現在地と進軍方向から考えて、途中の村落で休息を取ると思われる。


エリス、マリー、ルキウスの三人は林に馬を隠して身を潜め、千里眼の異名を持つ猟師が敵の行動を監視していた。ベルナルドは新兵の訓練指導に残してあった。教官として優秀だから、というわけではない。あの巨体を背負っては、馬も速くは走れない。敵の伝令と追いかけっこをするのには不向きだから置いてきた。


予想通り、敵は村で野営の準備を始める。大きな騒動が起きている様子はない。これは内乱だ。同国民同士の戦いである以上、度を過ぎた略奪は行われないはずだ。指揮官の性格次第ではあるが。


おそらく伝令は、南側から街道沿いに上がってくるだろう。別動隊の進軍経路からいって、それが一番確実に部隊を発見しやすい。正確にどこで野営をするかまで決めてあるとは思えない。


エリス達は、通りかかる伝令を包囲可能で、もっとも距離を詰められそうな地点に移動した。太陽が沈み、しばらくした頃、千里眼が合図を送った。全員突入準備に入る。姿を現した騎兵を取り囲み、下馬を命じる。当然、伝令はそんな指示には従わず、走り抜けようとするのを、エリスとマリーの弓で馬を撃ち抜く。


倒れた男をルキウスが取り押さえ、千里眼が革鎧の止め紐をほどき、胴鎧をずらした。エリスが長衣の懐をあらためると、暗号で書かれた文書が見つかった。間違いない。反乱軍が使っている暗号だ。


エリスは腰からナイフを引き抜くと、軽やかに回して逆手に持つ。左手を柄に添え、もがく男に向けて忠告を発した。


「動かないで。楽に死ねないよ」


手元が狂うと、背後にいるルキウスを傷つけてしまう。慎重に、だが勢いよく、伝令の心臓に突き立てた。ルキウスが立ち上がり、エリスは死体を傾け、自分に血がかからないようにしてからナイフを引き抜いた。


偽の伝令は男の首筋にでも差し込んでおく。どうせ、偽伝令であることは明らかなのだから、本物っぽく装う必要もない。


四人は馬に乗り、都へ戻る。一瞬だけ、エリスは逃げ去っていく馬を見やった。あの傷で、何日生きられるだろうか、と。


無事に帰還した工作部隊は、第二親衛隊の兵舎に向かう。一時的に、第三親衛隊の本部を移したからだ。用意された一室に集まり、参謀達に任務の完了を報告した。実際に敵が最短ルートを外れてくれるかどうかは、朝になってみないと分からない。


できることはやった。あとは夜が明けるのを待ち、敵が攻勢をためらってくれることを祈るばかりだ。戦いに備えて体を休め、眠りに落ちた。しかし、長くは寝ていられなかった。真夜中、接近中の援軍から使者が到着し、火急の知らせが届いたからだ。


隊長達が集まる部屋は、重い空気が満ちていた。誰もが、深刻な面持ちでうつむいている。参謀も額を手のひらで掴み、肩を落としている。


使者の報告によれば、敵の妨害を受け、到着が遅れるということだった。到着予定が昼から、夕方に延びた。アルステイルの想定によれば、王宮での防衛も、夕方まで持ちこたえられるかは不明。できたとしても、すでに籠城部隊は疲弊し、援軍と協調して攻勢に出られる状態にはないだろう。


王宮は孤立し、敵は援軍に対する防衛線を張り、王宮にだけ攻撃を集中させればいい。一面攻勢、一面防御戦術で相手の勝ちだった。


すでに、第二親衛隊の隊長達、衛兵隊長は覚悟を決めている。敵前逃亡、という選択肢ははじめからないようだった。最悪の場合、皇帝一家だけを脱出させることもあり得るが、それは都を放棄するのと同義だ。


皇帝の護衛に騎兵が必要となるが、それができるのはエルンストから送られてきた六百騎だけ。全部を割り当てるわけではないにしても、主力の戦線離脱は痛すぎる。勝つことをあきらめ、どう負けるかを選ぶ段階で出てくるべき話だった。


第二親衛隊は、貴族の集まりだったが、貴族なら誰でも入れたわけではない。各地から人物の情報を集め、見所のある若者だけを揃えた部隊だ。徹底した能力主義者であるアルベルトが認めた戦士達。自分たちのなすべきことを見失いはしなかった。


それはアルステイルも同様だ。最初に参謀の才を見いだしたのは魔王ではなかったが、彼もまた師によって知謀を認められた人物だ。最後まで、自分の役割を忘れはしない。


知者などと呼ばれていても、たいていの人間は偽物だ。うまく行っているときは誰でも口を出せる。特に、どうやってもある程度いい結果が出そうなときは、気軽に何でも言えるものだ。大切なのは、困難なとき。一手のミスも許されないような時にこそ、知将の出番と心得よ。そう教わってきた。


そして、戦略とは神がかりな手品ではなく、当たり前のことを当たり前に成功させることを言う。己の目的を、果たされるべくして果たす。成るべくして成す。作戦の九割は正攻法からなるものだ。いま、参謀が手にしているカードでも、やれることはまだあるはずだった。


だから、エリスが突然作戦の変更を言い出したときも、悪い考え方ではないと直感した。


「みんな覚悟を決めてるところ悪いんだけどさ、どうせ守れないんでしょ? じゃぁ、打って出ようよ」


隊長達が驚き、互いに顔を見合わせる。


「いえ、しかし、籠城して守り切れないならば野戦を挑んでも勝てませんが」

「籠城しても守れない。なら、守れる可能性があるのは野戦でしょ」


エリスはそれほど深く考えているわけではない。大局的な作戦を考えるのは苦手だ。王宮で防ぐ作戦を認めたのは、それならば守れると聞いたからだ。だが、援軍が遅れてしまうのであれば、持ちこたえきれない。それでは話が違う。ならば、どうして王宮まで下がる必要があるのだろうか。


部外者のいる手前、口にはしなかったが、エリスはそもそも気に入らなかった。自分は皇帝に借りなどない。どうして皇帝だけ守れればいい、みたいな作戦をとらねばならないのかと。都を守ることに異存はないが、ならば壁の外で戦い、街が焼かれないようにするべきだ。


籠城しても野戦を挑んでも、どうせ負けるなら、どちらでも一緒。だが、籠城すれば確実に街に火の手が上がるのに対し、野戦で勝てれば市民を守ることができる。結局まぐれに期待するならこっちの方がましではないか、というわけだ。


だが、市民を守ることにはさほど注意を払っていない貴族達は、より確実に皇帝を守れる作戦を譲る気はなかった。


「野戦の方が勝ちにくいのは間違いありません。せめて皇帝だけでもお守りできる可能性が高い戦法をとるべきです」


そこに、アルステイルが別な視点からエリスを援護した。


「いえ、野戦を挑むのも、そう悪いものではないかもしれません。まず、現状をいくつか整理して考えてみましょう。私たちの持っている情報と、彼らの持っている私たちについての情報は、だいぶ違うはずです」


確かに援軍の到着遅延は致命的だ。しかし、それを敵も察知しているだろうか。察知している可能性がないわけではない。だが、援軍は西におり、アルフォンソは東にいる。西で起きた出来事を、まっすぐに伝達できるわけではない。その経路はこちらの支配下にある。


アルフォンソはまだ、こちらの援軍到着を昼頃と推定しているはずだ。つまり、攻撃を急ぐ必要を感じている。


守備兵をどの程度と見積もっているかは分からないが、いくらかを募兵している可能性くらい頭にあるはずだ。三千ほどの兵力が陣を布いて待ち構えていても、驚きはしないだろう。だが、すぐに開戦するかは悩むはず。


別動隊が夜明け前に着陣していれば、九千の戦力で一斉に攻撃を仕掛けてくるのは間違いない。だが、まだ到着していなかったら? 四千の手勢だけで三千を粉砕できる確信が持てるだろうか?


三千対四千なら、まだ勝算はある。この場合は籠城するより出撃しておいた方がいい。籠城となれば、敵の攻城準備を見逃すことになる。そして別動隊の到着後に、準備万端整った敵が攻めてくる。これは負けだ。


ということは、別動隊の遅延作戦が成功した場合は、野戦の方が得だ。それほど不利ではない、少なくとも、九千を相手にするよりましな戦いができるか、あるいは開戦を遅らせられるか、だ。


「それはそうですが・・・本当に敵の別動隊は遠回りをしてくれるのでしょうか」

「まさか苦し紛れの工作が命綱になるとは思いませんでしたが、失敗していれば負けです。失敗を前提にすると勝ち目がないなら、成功を前提に考えるしかないでしょう」


詭弁ではないか、と中隊長達はいぶかしんだ。それでも、皇帝の安全性に注目するなら、籠城の方が確実なはず。


「また、新兵の統率、士気の上では野戦の方がいくらかましとも言えます」

「そんなことはありません。数と練度で勝る敵に対して、雑兵が戦い続けるのがどれだけ難しいことか、後方勤務のあなたはお分かりないのです」


城壁の上から矢を射かけ、石を落とすだけの方が楽に決まっている。敵の攻撃に晒されながら戦列を維持するより、だいぶ簡単だろう。


「しかし、彼らは都の住民です。アルベルト閣下の政策の支持者であり、貴族統治の時代に逆戻りすることを拒む者達でもあるでしょうが、いまここで暮らしている人々です。ならば、自分たちの街が見捨てられ、放棄されることに何を思うでしょうか」


エリスの目に映る参謀は、とても珍しい人種だった。本当に市民の安全や、暮らしを心配しているわけではないだろう。アルステイルの言葉の端々からは、他者の痛みや苦しみに対する思いやりは感じられない。だが、傷つくことを恐れる気持ち、生活を守りたい思いがあるという事実は、正確に認識しているようだった。本心では全く気にもとめていない人々の都合も、作戦の成功のためならば自在に操る人間だった。


隊長達も、それについては言葉を濁す。ほかに職場があり、皇帝さえ守り通せればあとで恩賞にあずかれるだろう兵士達と、戦場になれば職場も住処も失うことになる市民とでは立場が違う。認識の違いが士気、統制を乱さない保証はなかった。その点では、野戦は義勇兵に戦う意味を与えてやれる。


都を守るために馳せ参じた者達に、都をあきらめろと指示したとき、果たして彼らは戦い続けるのか。


最初に折れたのは、衛兵隊長だった。日頃から街を見回り、市民とふれあっているからだろうか。平民達が貴族を嫌う一番の理由は、横暴で高慢で、他者を自分の道具として使い捨てることを当たり前だと思っていることだ。そのことを、衛兵は知っている。


「分かりました。自分も野戦を支持します」


第二親衛隊の隊長達は言葉を交わし、最終的には出撃を受け入れた。


「しかし、別動隊が夜明け前に到着していた場合、外で九千を支えることは不可能です。この場合は、会戦を取りやめて頂きたい」


参謀はエリスに頷いてみせる。エリスはその提案を受諾した。


「それでは隊長殿、騎兵部隊に伝令を飛ばし、新たな命令を与えたいと思いますがよろしいでしょうか」


エルンストの騎兵隊は南の平原で農民の攪乱を続けていた。戦闘前には都に戻り、防衛戦に参加する手はずとなっている。


「いいけど?」


特に作戦の変更が必要とは思われなかったが、参謀がやりたいというのだからやらせておこう。


「使者にベルナルドを送りたいのですが、かまいませんか」

「え、怪力君を? 戻ってこられるならかまわないけど。伝令ならほかの兵士でもいいんじゃないの」

「いえ。ベルナルドには別な仕事を与えたいと思います。ほかの人物でも不可能ではありませんが、あの人の名声が役に立つはずです」


隊列を維持して戦うとなれば、ベルナルドの怪力もそれほど特殊な働きをするわけではない。数の中では、個人の才能は薄まってしまう。それでも、いないよりいた方が心強いのは確かだが、何か考えがあるのだろうと許可を出した。


「それでは私はもう一つ、最後の細工に取りかかります。皆様はもうしばしお休みください」


アルステイルは部屋を出て行った。まだ真夜中だ、夜明けには間がある。体を休ませておいた方がいいのは確かだが、それほど眠いわけでもなく、高揚した気分では寝ていられない。それでも各自部屋に戻り、布団にくるまったが、目をつぶって時が過ぎるのを待つことしかできなかった。


声をかけるのをためらっていたマリーが、エリスに話しかけた。


「何かあった?」

「援軍の到着が遅れるって」

「それで?」

「籠城しても守れそうにないから、打って出ることにした。ただし、別動隊の遅延工作がうまく行っていた場合はね。だめだったら仕方ないから籠城して、あとはあのクソオヤジに化けて出てやるくらいかな」


ルキウスがむくっと、上半身を起こした。


「じゃあ、エリスの鎧が必要になるな。籠城なら、戦うにしても射手としてだからいつもの革鎧でいいが、戦陣に立つなら重装備が必要だ。出るんだろう? 戦場に」

「出陣を主張した将軍が一人でお留守番なんて、そんなみっともない死に方も生き方もごめんだよ」

「よしじゃあ、倉庫でおまえに合う鎧を探してこよう」


ルキウスのあとに、二人が続く。千里眼はあえて後を追わなかった。あの三人が、古い仲間であることは知っている。こういうときは、気心の知れた者達だけでいたいだろう。


しかし、なかなかエリスの体格に合うような金属鎧が見つからない。一番小さいものですら隙間が大きすぎる。それでも着ないわけにはいかないということで、とりあえず身につけさせてみたのだが。


「お・・・重い・・・」


一歩一歩、たどたどしく歩くことしかできない。


「いや、これ無理だから」

「気合いでなんとかしろ」

「無理」

「大丈夫でしょ。エリスは立ってるだけでいいんだから」

「戦場までたどり着けない」

「馬で行けばいいじゃないか」

「馬に乗れない。というか降りられない」


何をしているのかと、第二親衛隊の隊長達も様子を見に来ていた。これから決死の戦いを挑む者達とは思えないやりとりに、半ばあきれている。


「第三、意外と緩いですね」

「そうだな・・・」


噂に聞く魔女の部隊とは思えないものがある。魔女自身、威厳もあり、気むずかしくもあるが、残虐を趣味にしているようには見えなかった。


最後の仕込みを終えたアルステイルも、何か様子がおかしいということで立ち寄った。一目見て、何をしているのかを解した参謀は、中隊長に注文を付けた。


「若年騎士の、儀礼用の甲冑はありませんか?」

「将軍に?」

「はい」

「あるはずです。今、お持ちします」


貴族の子弟達が何かしらの功績により、幼くして騎士叙勲を受けることがあった。エリスと同年代、あるいは少し若いくらいの少年達が身につけた鎧なら、エリスでも着られるだろう。


戦場に出ることを想定していない、要所しか装甲として働かないデザインではあるが、重くて着られないよりはましだ。記念品ということもあり手入れは行き届き、表面はよく磨かれて、鏡のようにランプの光を反射している。


届けられたそれをエリスはのぞき込み、ゆがんだ形で自分の顔を映し出しているのに驚いた。


「私、これ着るの?」

「これならだいぶ軽いはずですよ。どれだけ役に立つかは分かりませんが」

「まぁ、私はどうせ立ってるだけだから、それはどうでもいいけど」


洗練された鎧に戸惑っているようだ。


「どうしたの?」


マリーが声をかける。


「いや、なんかこれ、綺麗すぎない?」

「貴族の鎧だからでしょ?」

「こんなの着てる人見たことないけど」

「儀礼用ですから。本来戦場で使うものではありませんので」


参謀の説明で、事情は飲み込めたようだ。恥ずかしがっている場合ではないと、ルキウスとマリーで鎧を着けさせてしまう。


「これは・・・」


早くに目が覚めてしまった第二親衛隊の一般兵達も見守る中、女神が降臨した。意匠を凝らした兜からこぼれる金色の髪。貴族を毛嫌いし、遠ざけようとはするが、自身もまた貴族的な細身で、気品のある頬の線。意志の強そうな青いまなざしは、しかし邪心や横暴さを感じさせず、むしろ孤高の、一人でも死にゆく覚悟を現していた。


神話に出てくる、戦場の空で戦士達の死を見守る女神が実在するのなら、このような姿なのではないか。


「馬子にも衣装ってこのことだな」


ルキウスが正直な感想をもらした。


「は? エリスはしゃべらなければ王女様で通るって言ったでしょ」


マリーとしては、周りの意外そうな表情が不満のようだった。どこからどう見ても、王女か公女、悪くてもどこかの貴族にしか見えないエリスが、どうして風来坊をしていたのか不思議に思っていたくらいだ。


当のエリスはというと、視線に対して背中を向けて堪えていた。馬子とか、しゃべらなければとか、ツッコミどころがあるのは分かっていたが、それどころではなかった。


「こ、これ、目立ちすぎじゃない? 大将って目立っちゃだめだよね?」


後ろ向きに話しかけた。


「いいんです。今日は」

「最初に大将が討ち取られたら困るでしょ?」

「討ち取らせはしません。そのために兵がいるのですから」

「でも、もっとほかに軽い鎧あるでしょ? そもそも、私戦わないんだから、革鎧でもよくない?」

「いけません。そのお姿で指揮を執ってください。本当に、これなら勝てるかもしれません」


実利主義者の参謀としては、珍しい感想だ。指揮官が天女なら戦闘に勝てるだなんて、本当に信じているとも思えない。が、そのくらいの微妙な士気すら勝敗を分かつほど、難しい状況ということだろう。


「そっちのさぁ、第二の隊長達もなんか言ってやってよ! 儀礼用の鎧で戦場に立つとかおかしいでしょ」

「いえ。エリス将軍には、ぜひそのまま出陣して頂きたく存じます」

「あとで殺す」


エリスに味方はいなかった。


「最後くらいおめかししてもいいんじゃない?」

「どうせ死ぬなら立派な鎧着て死ねよ」


満場一致では、エリスも異の唱えようがなかった。だが、どうしてもこのピカピカした感じが辛い、ということだったので、参謀が助けを出した。


「では、いつものマントを羽織って頂きましょう。黒マントに銀の鎧ならそれはそれで映えるかと」


そうして、立ち並んだ義勇兵達の前に立ったエリスは、白銀に身を包んだ女神として、黒マントを羽織った魔女として迎えられた。


内心では、エリスはまだ照れを抑えきれずにいた。だが自分が将軍であり、これから彼らを死地に連れていくことは自覚している。恥ずかしがっている場合ではない。だから、エリスが姿を現したとたん集会場がどよめいたことにも、表面上は動じていない振りをした。


夜明け前。敵の前進の報が入るより少し前、総勢二千九百の兵士は壁の外に集められ、出陣前の訓示を受けることになった。まずは第二親衛隊が、前日の訓練を思い出し、持ち場を離れず仲間を最後まで信じることを言いつけた。貴族である彼らもまた、一兵卒として武器を持って戦場に立つのだからと。


そしてエリスの番。ただそこに立っただけで、兵士の士気が高まるのが分かった。両手で兜を外し、頭を振って髪を払う。わずかな仕草にも、人々の視線が集まる。一つ大きく呼吸をして、心臓を落ち着かせる。潜入作戦中に発見されることよりも緊張が高まった。


「エリスだ。私のことは、知っているだろう」


帝国で一番の有名人が魔王なら、魔女はその次だった。帝都の住民が、魔女を知らないわけがない。


「私は普段、演説というものをしない。だからこれは、最初で最後の私の長話かもしれない。だから退屈でも、どうか聞いてほしい」


将軍として、できるだけの声を張った。怒鳴るというほどでもなく、といって、優しく語りかけるのでは後ろまでは聞こえない。


「すでに聞いたとおり、我々はこれより、優勢な敵と会戦に応じる。見ての通り、正規兵はわずかばかりだ。主力は諸君ら、義勇兵となる。難しい戦い方、個々の戦闘技術については多くを求めない。昨日兵士となったばかりの人間に、熟練兵と対等に渡り合えというのは無理な相談だ」


市民兵を見下して言っているのではない。それは、誰にでも分かる。


「では、敵はどうか。アルフォンソは王族であり、その重臣達は確かに戦いの心得はあるだろう。だが全員ではない。野盗崩れも多く、その統制、練度の点では決して我々を大きく上回りはしない。諸君らに毛が生えた程度の者達を多数抱え、数でごまかしているのが実情だ。まして装備では諸君らの方が恵まれている。敵には、鎧すらない者も多いのだから」


一度言葉を切り、兵士を見回す。形だけなら確かに重装歩兵が整列しているように見える。


「それでも諸君らは、戦いが始まれば恐怖に襲われ、逃げ出したくなるだろう。それが戦闘だからだ。逃げたいと思うことは恥ではない。私ですら、この道に進み始めた最初は足が竦んだのだから」


両親を失ったのが四年前。十一歳のエリスは、初めて人を殺した。


「だが、持ち場を離れないでもらいたい。私が諸君らに求めるのはそれだけだ。下がるべき時が来れば下がらせる。そのときが来るまでは、戦い抜いてくれ。諸君らが崩れれば、それで私も死ぬことになる。私が陣の中央だ。私は戦場を離れはしない。私の運命は、諸君らに委ねられている」


行軍指揮は参謀がとることになっている。エリスは文字通り、全軍の旗印として戦場に立つだけでよかった。


「そして忘れるな。これが魔王の望んだ世であることを。貴族の命運を握るのは諸君らだ。正確には、私は貴族ではないのだが、諸君らからすれば同じようなものだろう。諸君らが戦いの趨勢を決し、諸君らが国家の未来を決する。諸君らがここで逃げ出してしまえば、諸君らを国家の柱石に据えようとする魔王の意図は挫かれる。諸君ら自身が、諸君らの卑劣さを証明してしまうのだから」


兜を左脇に抱えたエリスは、右手で腰の剣を引き抜いた。


「これは不利な戦いである。諸君らを勝利者にする約束はできない。だがこれだけは約束しよう。私と、我々帝国軍の戦士達は、勝者となれずとも卑怯者にはならない。諸君らよりも先に、敵に背を見せることはない。剣を抜け! そして帝国と、己の神に誓うがよい!」


エリスが右手を掲げると、兵士達が銘々に武器をかざした。エリス自身の指示により、その一部は剣ではなく、鈍器になっていたりもするが、そんなことは些細な問題だ。


「己の血も流せぬ者達が、他人には血を流させようとする時代に戻したくないのなら、今おまえ達がここで死んでみせると!」


三千ほどの怒号が轟き、ここに精鋭の新兵が誕生した。エリスは剣を収め、兜をかぶり直し、先頭に立って平原を進んでいった。すぐに退却できるよう、城門から近い地点。東から接近する敵を遠目に発見できる、わずかに盛り上がった丘。


朝日が差している。エリスの肩当てがオレンジ色の光を返す。エリスは立ち止まり、後ろに続く部隊も、マントの背後で停止した。魔女の視線の先には、すでにアルフォンソの隊列が見えている。まだ前進中のようだ。


参謀がエリスに耳打ちした。


「およそ四千ほどです。別動隊五千はまだ到着していないようです」


エリスは頷き、右手を払う。


「戦闘準備」


前日の訓練通り、隊列を組み、敵を待ち構えた。最前列には槍を並べ、可能な限り白兵戦の突入を遅らせる。敵の騎兵は百程度と報告されている。隊列さえ維持していれば、騎兵の突撃を恐れる必要はない。


第二親衛隊の一個中隊が義勇兵を統率する。一人あたり二十五人を配下に持つことになる。おそらく、負傷も疲労も周期が速く、こまめに部隊を入れ替えてやらねばならないだろう。適宜休息を入れ、体力と精神の疲弊を取り除いてやる必要がある。一塊の部隊は、少人数の方が都合がよかった。


しかしそれだけに、戦闘幅を長く取ることはできなかった。五かける五の小隊が百個しかない。三列の厚みを作ろうとすれば、横に並べられるのは三十三個だけ。最前列の兵士は、百六十五人ということになる。


特に激しい攻撃に晒されるだろう両脇は、第二親衛隊と衛兵達が担当する。彼ら三百名がさらに四十人分、戦闘幅を伸ばした。


しかし、敵がこの二百人程度の戦列につきあってくれる保証はない。兵力に勝る敵は、こちらと同じ厚みでも、さらに幅を広げることができる。それを抑え、牽制するはずの騎兵達が、まだ到着していなかった。参謀からの伝令はとっくに届いただろう。当然、会戦には間に合うように動くはずなので、そろそろ姿を見せてもいい頃だ。


それでもエリス達にとって有利な点は、アルフォンソが率いる熟練兵は三千だけ。残りの千人は少しばかりの装備を与えられた農民だ。彼らが相手ならば、優位は逆転する。少しばかりの経験は劣っても、装備では圧倒していた。


勝負は一点。敵の主力歩兵を、新兵達で支えきれるかどうか。


エリスは約束通り、兵士達の中央に出た。側には伝令もいない。ただマリーだけが、友人として傍らに立っている。指揮は丘に残ったアルステイルが取り、伝令もそこに集められていた。将軍との連絡にすら伝令を必要とするが、エリスに逃げる意思がないことを示すには仕方がない。


アルフォンソ隊は進軍を停止した。守備隊の出陣は予期していただろうか。籠城するのが自然なところ、どうして野戦に応じたのか、訝しむのは当然だ。指揮官はエリス。第三親衛隊の魔女、ということくらいはアルフォンソも承知している。だが、密偵部隊のリーダーが、そのまま軍を率いられるとは限らない。実際の統率は参謀か、あるいは第二親衛隊が担当すると予想していた。


一糸乱れぬ隊列と、その落ち着き。もしや、すでに西からの援軍が到着してしまったのかとも思ったが、そのような報告は受けていない。すると、あれが急造の徴兵部隊ということになる。


このとき、僭主アルフォンソは時代の移り変わりを意識した。兵士というのは、実戦を経験させ、勝利の味を覚えさせ、そうしてやっと使い物になる。集めたばかりの雑兵は、戦い方以前に、戦う意思すら持たない。誰が勝っても自分たちの暮らしに関係ない。自分たちを搾取する相手が変わるだけ。年貢を納める相手がどっちでも、それが彼らにとって何だというのか。


それが今、確かに魔王の下で平民が団結を始めている。誰が権力者になるかで、自分たちの未来が変わることを理解している。どちらが自分にとって得なのか。それを平民に考えさせた為政者は、アルベルトが初めてだった。政治を司る者は皆、その逆をいってきた。平民から考える力を奪い、ただ黙って言うことを聞く羊でいさせたいと思うのが常だった。


アルフォンソの性には合わない。誇りを持たず、名誉を重んじず、ただ利益でばかり動く者に国家を委ねることは。だが、これが新時代の幕開けなら、それも一つの帝国の形だということは理解した。もしこの戦いに負けるなら、それは時代の要請だろう。王が、公が、貴族が、生まれにあぐらをかき、自らを律することを忘れたつけを払うときが来たのだ。


すでに到着しているはずの部隊が遅れていることは、報告が届いていた。わずかばかりの遅延だが、昼までに大勢を決しなければならない彼らにとっては致命傷にもなり得た。


いかに士気の高い新兵とはいえ、所詮は新兵だ。アルフォンソの主力を止めきれるわけはない。が、打ち破るのにどれだけの時間がかかるか。どのくらいの被害が出るか。戦闘を継続し、攻城戦までする体力が温存できるか。


まだ姿の見えていない騎兵にも警戒が必要だ。数百の騎兵によって、西側の友軍が追い込まれている知らせを受けた。出現方向は西か、南か。


アルフォンソは部隊を前進させ、敵と向かい合わせた。一キロ先で停止し、主力部隊を前面に出して威圧した。だが、魔女の軍勢はじっと鳴りを潜め、かといって怯えている様子もない。


方法は二つ。増援の到着を待って会戦を挑むか、増援の到着前に敵を追い払って攻城準備を終えておくか。


第一の方法をとることはできなかった。それでは、守備側の援軍が間に合ってしまう。すると残されているのは、この四千だけで戦い、速やかに敵を排除すること。


アルフォンソ隊の攻撃が遅れたのは、ただの優柔不断ではなかった。勝利に確信が持てなかったため、折衷案を選んだ。援軍の到着を待つ時間がない。さりとて、援軍なしでは戦闘力に不安が残る。だから、戦闘中に援軍が到着する形にした。敵が疲労の限界に達したときに、後続部隊で敵を包囲して殲滅する。これが一番、戦力と時間を無駄にせずにすむだろうと。


だから、戦闘開始の直前にエルンストの騎兵隊が着陣してしまったことは、アルフォンソにとっては敗因となった。にらみ合っていたその間だけ、エリス達の最精鋭部隊が戦場の外にいたのだから。


精鋭騎兵六百の参加は、アルフォンソ隊の機動を大幅に制限した。騎兵隊も、自分から突撃をかけることはできない。常に長槍が防御に回れる位置にいる。だが、戦列を伸ばせば伸ばすほど、槍の移動が間に合いにくくなる。騎兵を牽制し続けるためには、戦線を縮小し、エリス達の戦闘幅に合わせるほかなくなった。


夜はとっくに明けた。十月半ばの早朝。太陽の日差しは優しく、鎧を身につけた戦士達も、汗にまみれずにすんでいる。だがそれもここまで。ここからは汗だけでなく、血も涙も流し続けなければいられない。


アルフォンソ隊が前進を開始した。それが開戦の合図であることは、アルステイルも直ちに察する。こちらも全軍がゆっくりと歩みを始め、お互いにわずかばかりの射手が挨拶を交わすと、残り三百メートルで疾走を始めた。


アルフォンソは熟練兵を出し惜しみしなかった。農民兵を先に出して消耗させては、全軍の士気に関わる。雑魚共は、攻城戦での消耗役に過ぎない。


参謀は戦場を見守り、騎兵を待機させた。敵の槍が健在であるうちは動かせない。突入の隙を待ち、もしその機会がなくとも、退却の際には追っ手を防ぐ役割がある。必ず出番はあるのだからと、騎兵隊長を諭した。


がっちりと戦列が組み合ってしまえば、もはや指揮官の仕事も残っていなかった。あとはただ黙って形勢を見守るだけ。現場の士官はよくやっている。すぐに傷つき、交代が速すぎる列に入り込み、小隊の消耗を分散した。さすがは親衛隊のエリート達だ。ルキウスは特によく働き、不慣れな集団戦であっても、やはり驚異的な戦闘力を見せつけた。新兵とは比較にならない持久力を見せ、その勇姿によって鼓舞した。


怪我人は後方に移され、簡易な手当を施される。小隊の損耗がかさむ前に、隊列を入れ替える。限界まで戦わせることなく、しばしの休息でまた戦列に復帰できるように気を使った。


だが、それでも支えきれる時間には、限りがあった。


戦闘幅は制限し、新兵達には十分な交代要員を用意した。将軍自ら死地に立ち、戦場の女神として旗印となっている。装備は揃い、確かに雑な一撃でも、メイスは敵に打撃を与えていた。


士気、装備、統制の点では、やれるだけのことはした。それでも練度の差が圧倒的だった。新兵はよく耐えた。昨日兵士になったばかりの者達がよくここまで耐えたと、勝者となった敵にすら讃えられただろう。


エリスが約束を守ったように、義勇兵も約束を守った。誰一人逃げ出すことなく、何度でも敵に立ち向かっていった。エリスも、それで満足した。形勢は不利で、勝てそうにない。逃げればある程度帰り着けるだろうが、増援を得た敵を城で支えられるはずもない。ならば、ここで終わりにしてもいいだろう、と。


そして、いよいよその後続部隊が姿を現した。到着は遅らせたが、ついに効果が切れたのだ。


意外なことは、ほぼ同時に南からも数千人の部隊が出現したことだった。その方向の敵は、騎兵に攪乱されて活動を停止していたはずだった。


状況の変化は、エリスにも報告が成された。ただ頷いて、伝令は丘に帰っていく。退却は打診されていない。参謀も、このまま玉砕するつもりのようだ。参謀自身は危なくなったら逃げるんだろう。丘にいる騎乗兵くらいは逃げられる。騎兵共々引き返せば、せめて皇帝とその一族くらいは脱出させられるはずだ。


戦場に現れた二つの部隊はともに会戦場に直進していく。どちらも、あまり装備の整っていない、農民達の集団だ。それでも、守備軍の両側と背後を塞ぐくらいは造作もない。それで完勝。エリスの軍は壊滅し、同時に帝都の陥落も決定する。


が、違った。今こそ、アルステイルの工作が実を結ぶときだった。


再びエリスの下に伝令がたどり着く。千里眼だった。


「姉御! 南の連中! 率いてるのはベルナルドの旦那ですぜ!」


エリスは振り返り、慌てて持ち場を離れ、その部隊を視界に収める。指さす先はまだ遠くて、人の顔までは見えない。


「あれ? 本当に?」


確かに、先頭に立っているのは大男だが、それがベルナルドかどうか。だが、千里眼がそう言うのだからそうなんだろう。


「間違いねえって! 参謀も、騎兵隊長も、そのために旦那を残してきたって言ってたぜ!」


エリスの心臓が高鳴った。ずっと興奮しっぱなしだったが、それに輪をかけて、動悸が速くなる。ますます顔が熱くなるのを感じ、振り向くと、全軍に下知を下した。


「耐えろ! あきらめるな! 味方だ! 南の部隊は味方だぞ!」


敵が増えた。いよいよ自分たちも最後なんだなと、それでも、あのいけ好かない貴族達が最後まで踏みとどまるなら仕方ない、約束くらい守ってやろうと覚悟を決めていた兵士達が、ときの声を上げた。


魔女の軍勢に突然活が入ったことで、アルフォンソの部隊にも動揺が走った。何かが起きたことを直感した。状況は勝ちを示している。あきらめていた西側の友軍すら到着したのだから、あとは時間との勝負だ。


しかし、事情が異なることを認識するまでに、それほど時間はかからなかった。友軍との連携のために送った使者が帰ってこない。その部隊はどう見ても、まっすぐにアルフォンソ隊を目指していた。


アルフォンソの兵士も疲労が限界に達しつつある。ここで側面から数千人の攻撃を受けては防げない。挟み撃ちになれば勝敗は明らかだった。せめて到着部隊同士でぶつかってくれれば、その決着がつく前にエリス達を崩せそうだったが、それもかなわなかった。


参謀はここで騎兵を動かした。後続部隊が接近する前に、その動きを止めるためだ。槍を回す時間はなく、あったとしても、数百人を離脱させられるような余裕はない。騎兵が別動隊を拘束している間に、エリスとベルナルドの隊がアルフォンソを潰走に追い込んだ。


歩兵が算を乱して逃げ出す中、馬上のアルフォンソはもう少し敵を見ようと前進した。追撃のために散開しており、白銀にきらめく将軍の姿が視認できた。


口元をゆがませ、大笑いしてから馬を走らせる。


「負けた負けた! 戦女神が相手では勝てんわ!」


まさか儀礼用の甲冑を身につけた敵将に負けるとは、もう笑うしかなかった。これが新しい時代への分岐点なら、戦争はもう、自分の知っているものではなくなるのだろう。生き恥をさらし続けた自分に、最後にいいものを見せてくれた。


アルフォンソは敗残兵をまとめ、ペンロッドへの帰途を急いだ。

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