1-7 「こっちだ!」

ひらめきが当たり、失敗かと思われた任務が無事に完了したことに浮かれたから、というわけではない。部屋を出る前にもしっかり聞き耳を立て、階下を歩く見回り騎士の所在を把握した。真っ暗闇の中を、来た道をたどって戻り始めたとき、それに気づかなかったのは仕方がない。


エリスが角を曲がり、階段へと向かおうとしたその瞬間、


「何者だ!」


と、背中から叫び声がした。エリスはとっさに右手に飛び退きながら、体を反転させて振り返る。闇が深くて見えないが、確かに何かが立っている。輪郭の太さと高さからすれば、相当な巨体の持ち主だ。第三親衛隊の怪力男にも負けていない。


毛が逆立つような驚きを抑え、飛び出しそうな心臓もなだめた。夜中の城内で、明かりもつけずに潜むのは、泥棒か暗殺者だけだと思い込んでいた。


闇が揺れ、一歩踏み込んできたことを察した。金属鎧がきしむ音が聞こえた。エリスは向き直り、退路を一目散に駆けだした。相手が何者かはわからないが、少なくとも追いつかれることはない。あの体格で、重装鎧で身を固めているなら、エリスに追いつけるはずがなかった。


階段を走り降りる。すでに見回り兵のランプが目の前に迫っている。


「起きろ! くせ者だ! 鐘を鳴らせ!」


怒鳴り声を上げる騎士の前を直角に曲がり、侵入口に使った厨房へ向かう。その通路にはいくつかの部屋があったが、おおかた召使いの部屋だろう。侍女が立ちふさがることはないはず。自分を棚に上げて、勝手にそう決めつけた。


明らかにエリスの方が身軽であり、鬼ごっこならば負けそうにない。しかし奇妙なことは、大男がエリスにさほど引き離されもせずに追いかけてくることだ。


厨房のドアを開き、身を滑り込ませる。暗くても、出口の扉の位置は覚えている。だが、逃げ出す前にドアを閉め、鍵をかけた。これで、城の別な出口に回り込むまでの時間が稼げる。あとは迎えの者の手を借りて、入ったときと同じところから抜け出せばいい。


その一呼吸のロスがエリスの脱出を遅らせた。出口に向かったエリスの背後から、はじき飛ばされた扉とともに大男が突っ込んできた。背後の音に危険を察し、エリスは飛び退きたかったが、場所がない。左右は棚と台所に挟まれ、逃げ場がなかった。かろうじて前進し、衝突の衝撃を和らげたが、右肩を痛めてしまう。


それでも出口を開け、退路を確保した。扉をぶち抜いた戦士は、しかし自前の明かりを手にしていない。エリスの姿を見失い、もう一人の騎士のランプの光を待つしかなかった。エリスはすでに庭に出ていたが、壁をよじ登るだけの時間は稼げていなかった。


「おかしらぁ!」


異変を察した配下が、杭の壁の上で手招きをした。身分を隠すべき時は、「隊長」ではなく、「お頭」と呼ぶことになっている。


右肩だけではなく右半身が自由にならず、すぐ後ろに敵が迫っているエリスはそれには答えず、壁沿いに走り出す。正門のある方に向けて。エリスを待っていた隊員も事情を察し、ひとまず壁から降りて戦場を脱した。こちらも壁沿いに走り、壁一枚を隔ててエリスの側を維持した。


第三親衛隊は、すでに正門を制圧していた。最初の叫び声の後、すぐに兵士たちは色めき立ち、巡回兵と門番が正門を封鎖した。だが、その視線が城に張り付いている隙に、忍び込んだ密偵たちが、兵士を縛り上げた。現段階では、殺害は最小限にとどめる必要がある。


庭の方で動きがあったことで、正門の部隊も頭に呼びかける。エリスは一瞬ためらったが、「こっちだ!」と応答した。大将が女であることが知られると、第三親衛隊も疑われることになるが、この場合は仕方がない。


声を頼りにエリスとの合流を図ったが、簡単には通してもらえなかった。すでに鐘は鳴らされ、騎士が立ちはだかっている。鎧を身につけず、武器だけを手にしているのが大半だが、突破するのは容易なことではない。


いつも通り、ルキウスが口火を切る。カンテラを腰に下げた騎士に向かい、一人で喧嘩を売りに行った。なぜ三人四人といて、一人を仕留められないのかわからぬままに、彼らの時間は吸い取られていく。


守備兵の多くは弓を手にしていた。防具がない心細さからか、射撃戦を選んだようだ。マリーが先頭に立ち、制圧射撃を試みる。城内に身を隠してやり過ごす騎士たち。しかしマリーとしては、敵からの射撃が軽減できればそれで十分だった。第三親衛隊の目的は城の調査であって、陥落ではない。


ルキウスを取り囲もうとする兵士たちの行く手は、親衛隊の前衛部隊が妨害する。一時的に戦線は膠着し、第三親衛隊の勢力圏と呼べるものが完成した。あとは、その輪の中にエリスを収容できればいい。


大男と騎士に追いかけられているエリスを迎えに行ったのは、第三親衛隊が誇る巨漢。怪力自慢の大男だった。胸当てくらいしか防具を身につけず、鉄製の棍棒を振り回す荒削りな戦い方をする男だったが、生半可な騎士では相対することすらかなわなかった。


エリスと追っ手の間に割って入ると、棍棒を振り回して威嚇した。相当な重量のある得物を軽々と振り回す姿に、二人の足が止まる。だが、相手の大男もハンマーを手にして殴りかかってきた。


重量級の武器を打ち付け合う音が響き、大男同士が交錯する姿は、熊の決闘のようでもあった。鎧が役に立たなそうな一撃に怖じ気づき、騎士はただランプで戦場を照らすことしかできない。


エリスがルキウスの後ろを走り抜け、部隊の作戦目標は達成された。エリスはマリーの傍らに立ち、身振りで部隊の撤収を指示する。戦闘中、カンテラを腰に下げているのがマリーだけだったからだ。戦闘時間を引き延ばしたい親衛隊は、できるだけ明かりを携帯しない。


マリーだけが光源になるのは、そこに射手がいることを教えるためだった。マリーが率いる射撃部隊は散開し、後方に配置されている。敵としても、どこに射撃陣地があるのか正確にはわからない。だが、矢は飛んでくる。どうにかその発射点を押さえ込みたい。そう考えるのが自然だ。だから、わざとマリーの位置だけ教えておく。そこに敵の矢が集中するから。


シルフの力を最大限に活用した、非人道的な作戦だった。本当にマリーにそんな不思議な力があるのか、誰も確かめたことはない。だがこれまでのところ、確かにマリーは生き残ってきた。


後衛が後ろから順に離脱する。ルキウスも少しずつ門まで下がり、怪力男もルキウスの横を抑えた。防御陣を少しずつしぼませていき、最後は一斉に撤退する。そのはずだった。


だが、突如として一角が食い破られた。


第三親衛隊が誇る、最前線部隊のツートップ。騎士複数を一人で無力化するルキウスと、怪力無双のベルナルド。これまで何度も後列を保護してきた布陣だったが、破られるときが来た。ハンマーを持ったあの大男の体当たりを、怪力を以てしても支えきれなかったのだ。


後は隊列を縮小するだけ。前線を下げつつあった時期、最前列の直後に位置していたのは、射撃班の中でもっとも前進配置となっているマリーだった。マリーはまだ、敵弓兵の制圧を担当していた。


信頼の置ける前衛と、どうせ自分に矢は当たらないという自信。それが、マリーを長く戦場に留まらせてきた。だが、巨体がはねのけられる音にふと横を向くと、すでにハンマーの射程距離に敵が迫っていた。


「あ」


マリーは気の抜けた声をこぼした。決してマリーも足の遅い方ではなく、むしろ隊内でも有数の機敏さを誇るが、これは無理だと直感した。踏み込みの深い男の一撃は、かわすことができない。受け止められるような力でもなく、死神の鎌がマリーの首をはねることは避けようがなかった。


ルキウスが追いかけてきてはいるが、どう見ても間に合わない。


マリーのカンテラの光が男の顔を照らし、それがだいたい四十過ぎくらいに見えた。太り気味の、脂ぎった頬。ゆっくりと流れる時間の中で、そっかー、自分を殺すのはこういう男かーと、死に際にのんびりしたことが頭をよぎったマリーだったが、なぜか予期した出来事が起こらない。


ルキウスがマリーの前に立ちはだかり、撤退を促す。すぐ脇では、吹き飛ばされ、倒れたばかりのベルナルドが立ち上がろうとしている。


珍しくエリスはベルナルドを先に脱出させ、マリーとともに馬車に飛び乗った。先に撤収していた射撃班は準備完了しており、最後に残った前衛部隊を追いかけてくる敵に対する足止めを完遂した。


馬に言葉があるならば、「重量オーバーです! 誰か降りてください!」と叫びたいところだろうが、鞭を入れられひた走りにさせられる。


町外れでもう一台の馬車と合流し、貴重な情報を手に、第三親衛隊は本部へ帰還した。

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