8
幸福の――断罪までの時間は短かった。
ルクスはエヴァリを腕の中に置いたまま微睡んでいた。エヴァリはこれ以上なく穏やかで満ち足りた幸福というものを噛み締めながら、彼の青銀の髪や、滑らかな肌や優しい翼に触れていた。傷が痛まないのは、彼の纏う聖気のおかげだろうか。恐れるものは何もなかった。
腕と共に包み込んでいる翼が日射しを柔らかくする。そうして陽の光も弱まり夜が訪れようとする頃、ふと彼が身体を起こした。
「……どうかしたのですか」
ルクスの横顔がきつくなったのでエヴァリの声も慎重になった。
「呼ばれている。誰か来た」
誰か、とは。エヴァリには何の音も聞こえない。
ルクスは素早く身支度を調え、エヴァリにも来るよう言った。置いてはいけないというのが理由だった。顔色が変わっていたのが分かったのだろう。エヴァリもその方が安心出来た。もう離れられなかった。
エヴァリを抱き抱えて、ルクスは低く飛んだ。遅くまで外に出ている村人がいたが、天使の力のおかげで二人の姿は誰にも見る事が出来ないようだった。
村の外れは夜空の星々がうっすらと見え始める場所だったが、空と大地以外何もなく不安を煽った。ルクスはそこに降りる。地面に足が付いた途端、彼が支える力がいっそう強くなった。
ルクスが注視する荒野に、すうっと滲むように人が現れた。エヴァリは息を呑んだ。白い翼。天使が、もう一人。
「ルクスリード……」
巻き毛の美しい女天使が彼を呼ぶ声は、堪えがたい痛みをたたえていて、今のエヴァリには直感的にその感情を理解出来てしまった。
「あなた、自分のした事が分かっているの」
エヴァリは口元を押さえた。ルクスの纏う気が恐ろしい色に膨れあがった。
「どういう意味だ、アリアル」
「その女の事よ!」
敵意がはっきりと向けられてエヴァリは震えた。
こんな、こんなにも早く。
「あなたを堕落させて、のうのうとあなたに抱かれているその女は何!?」
「俺が愛する娘だ」
アリアルと呼ばれた天使の顔色が変わった。目元が吊り上がり、怒りで震え、荒げる声を抑えている低い声で言う。
「……あなたは同情しているだけだわ。鞭打たれる者を哀れむのは、天使の性よ。どうせ『愛している』と言われたんでしょう。いつも天の主に向けられている愛を自分に向けられて、一瞬の夢に溺れているだけ。それも天使の性よ。私たちはそういうものなんだから」
咄嗟に見たルクスの顔はきつく、エヴァリを見てはいなかったが、込められた腕の力にルクスの心があるように思った。けれど、エヴァリには分からなくなっていた。
ルクスはアリアルを見ている。感情を押し殺そうとする彼女を瓦解させるだけの力をルクスは持っていた。
「それでも良い。俺はエヴァリを愛している」
愛している。
青銀の髪と紺碧の瞳に美しい天使は、腕の中に娘を抱き、腕は力強くも慈しみに溢れ、決して離さないという意志が込められていた。抱かれているのは矮小で折れそうに細く、ただの痩せぎすの小娘でしかなかった。
二人の光景を目にし、一瞬にしてアリアルの殺気が膨れあがった。
「その女が……!」
アリアルは中空に手を伸ばし現れた剣を掴む。その切っ先をエヴァリへ振り下ろそうとした。
武器を持たず、ただ抱かれているだけのエヴァリはきつく眼を閉じた。アリアルの告げた天使の性という事実は目の前に真実を突き付けて、エヴァリを怯えさせた。剣よりも先に深く心を抉った。
嗚呼それでも。
私には真実なのです。これしか持つものが何もない。それが私の罪なのです。
強く、祈った。
――主よ、憐れみ給うな。
「……くっ……」
ルクスの声に目を開けた。
足元に白い羽根が散り、血に濡れて、荒野の風に巻き上げられていく。
「……あ、あぁ……」
エヴァリはまた罪を犯した事を知った。
血に濡れた翼。
エヴァリに向けられたはずの剣はルクスの背中、右肩から真っ直ぐに振り下ろされ、その純白の翼を根元少し残して切り落としていた。
その衝撃はアリアルにもあった。
「どうして――どうしてなの、ルクスリード……!」
ルクスは、アリアルには答えずエヴァリに答えた。
「お前が受けていた痛みを、俺にも」
微笑み。
「ルクス……!」
身体が崩れかけてもルクスのエヴァリを抱く腕は緩まなかった。
「こんな、こんな人間の女に……」
よろよろとアリアルは後退る。
「ルクス、しっかりして下さい!」
膝を付くルクスの身体を支えた。彼の身体に触れ、愛称を呼ぶエヴァリに、アリアルは再び感情を爆発させた。
「悪魔!」
エヴァリは頬を叩かれたように顔を上げた。美しい女天使が髪を振り乱し、憎悪を持ってそこにいた。
「悪魔! 天使を堕落させた、お前は悪魔だ!」
憎しみに顔を歪めていても、アリアルの翼は汚れる事なく清らかだった。その点背に醜い傷を負う自分は悪魔と罵られるべきだった。けれどそんな事は。
「知っています。そんな事最初から」
ルクスリードという天使が降りた時、心奪われた時から罪は始まっていた。乱暴な口調を聞いた時に育ち、彼の鼓動を聞いてそれは甘くなり、触れられて望みとなり、口づけで新しく生まれた。そして今も育ち生まれ続けるものだ。この何よりも美しい罪の形。
静かに見つめるエヴァリに気圧されたのか、アリアルは引きつった顔で後ろへ蹌踉めいたかと思うとぼんやりと姿を揺らめかせて消えた。
暮れた空の下に二人が残された。ルクスが身体を起こそうとするのを、慌てて押さえた。
「ルクス、怪我は」
「大丈夫だ……もう治りかけてる」
ルクスは背を見せた。切り裂かれた聖衣から覗く肌は、盛り上がって薄い桃色になっているところがあった。傷跡らしいものはそれだけしかなく、切り落とされた片翼だけが現実的だった。
「これが天使だ」
呆然とするエヴァリに行こうと声を掛けた。一度だけ、切り落とされて羽根を散らす翼を振り返る。
「一度、お前を抱いて天高く飛ぼうと思っていたのにな」
呟いて、エヴァリの顔に気付いて微笑んだ。
「そんな顔をするな。どうせなら両方とも切り落としてくれれば良かったのに。そうすれば普通の、人間になれた」
エヴァリが手を伸ばすとルクスはエヴァリを腕の中に収めた。彼の囁きは決意の宣言のようだった。優しく強い為に、エヴァリは罪が重い事を思い知らねばならなかった。
「お前はただの人間だ。髪も瞳も肌も全て美しく輝く女だ。そして俺も、ただの男だ」
切り落とされた片翼は無数の羽根を風に運ばれていく。どこかへと。誰の許しも得ずに行く事が出来るのだった。
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