9
二人は一度村に戻った。人間のエヴァリはその身一つというわけにはいかない。村を出て行くには準備が必要だった。
ルクスの力は二人を隠し、エヴァリは気付かれずに自分の家に戻る事が出来た。
「待っていて下さい。必要な物を取ってきます」
「俺はこっちで食料を詰めておく」
エヴァリは隣の部屋に消え、ルクスは戸棚や床下から日持ちする物を選んで詰めていった。最低限の食料しかなく、袋詰めはすぐに終わった。
ふと、棚の上に天の主の小さな像が、この家で一番上等だろう布の上に置かれてあるのに目を止めた。壁には神言と紋章の壁掛け。その前に跪いて祈っている華奢な姿をすぐに思い描く事が出来た。
「お待たせしました」
エヴァリが戻ってくるとルクスは暗い顔をしていた。彼は呟いた。
「何故こんなに早く知られたのか……」
ルクスは不思議でならなかったようだが、エヴァリはそうでもなかった。
「天の主は全てご存じなのでしょう。天使は天の主の眷属ですから」
「お前を救おうとしなかった天の主などくそくらえだ」
吐き捨てると乱暴に息を吐いた。首を振る。じっと見つめるエヴァリに触れて、密やかに問い掛けた。
「全てを捨てる覚悟は……?」
エヴァリは晴れやかに笑った。
「最初から何も持っていません。今唯一あるのはあなたの事だけです」
「俺も、唯一あるのはお前だけだ」
ルクスに抱き締められながら、エヴァリは心の中をなぞった。幸福と呼ぶにはざらついていて、歪な形をしている何かがあるのを、目を逸らして見ない振りをして胸に顔を埋めた。
私にはあなたしかいない……。
二人は家を出た。母がいたという事実がある家に何の未練も沸いてこなかった。それが何故か恐ろしく、この場にあるルクスの腕にしがみついていたエヴァリに、息を呑む気配が伝わった。
呆然とするルクス。視線を辿って、エヴァリは絶句した。
あの一点が明るいのは、それが燃えているからだ。激しい炎を上げ、空を覆うように黒煙が立ち上る。風が熱とにおいを吹き付ける。炎に包まれ焼け崩れる轟音を上げているのは、信仰の拠り所、村で唯一の教会。
「――探せ」
声が聞こえる。
「――探せ、悪魔を」
「――堕天使を」
「――穢れを焼き払え」
「――裁け」
知られたのだ。ふたりの事が。誰かが見ていたのだ。
「教会が……」
十字架が焼ける。ルクスはエヴァリを強く抱き抱えた。
「行こう」
天使の力で見咎められずに出て行けた。夜の荒野の風は冷たく、聖気で周囲だけぼんやりと明るかったが、野も囲う山も見えない程、世界は恐ろしいほどの暗闇に覆われていた。
自分がどんどん闇に踏み入っている事を感じた。後戻りしようとは思わなかった。深みにはまる事は、彼への感情が強くなる事を示す。強く強く、自分の心に刻みつける事を表すから。
闇の荒野は果てしなく感じられ、空には月の加護すらなく、風に乗って煙のにおいがし、お前たちは罪人だと思い知らせるようだった。
愛する事が罪というのなら、いくつの焼き鏝を押されても、耐えてみせよう。私には、この痛みしかないのだから。彼の腕を強く握った。まるで縋り付くようだったかもしれない。
自分は本当に行けるのだろうか。この閉じられた世界から出て、本当に生きていけるのだろうか。この荒野の果てにあるものをエヴァリは知らなかった。次々と断罪者が現れて、処刑場へ追い込んでいくのではないか。そんな想像を持った。
その時声が響いた。
「ルクスリード」
彼を呼ぶ男の声。姿を現したのは背が高く、金色の髪で額輪をした男の天使だった。
「戻れ。ルクスリード」
「ヤウィス……お前が来たのか……」
ルクスの声が苦いものになった。誰ですかと小声で問うと、上級天使の一人だという答えが返ってきた。額輪に神言、肩から掛けた布には神言の他に紋章が金糸で縫い取られているのに気付いて、また彼の貫禄はルクスの言葉通り上級天使の格を感じさせた。
「アリアルは処罰された。天界は、お前から天使の位を剥奪し追放する事を決定しようとしている」
ヤウィスは痛ましげな表情になった。
「今すぐ戻れ、ルクスリード。お前は優秀な天使だった。今戻れば間に合う。その切り落とされた片翼も再生されよう」
「いやだ」
ルクスはエヴァリを抱いた。
「俺が優秀だったのはこの姿形をおかげだろう。俺は何もした事がない。ただこの顔で微笑み丁寧な言葉遣いでもっともらしい事を言えば、誰もが信じた。天の主の御遣いを、天の主を、誰も疑わなかった」
天の主はどこにいる、とルクスはきつく問い掛けた。
「他人から耐え難い痛みを与えられる孤独を生きながら『持つものは何もない』と言う者を救えない。天の主はどこにいる。天の主とはなんだ!」
ヤウィスは答えない。ただ哀れむような表情で聞いている。
ルクスの声が穏やかでいて深いものに変わった。
「ヤウィス。お前も誰かを愛せば分かる」
彼もまた相手を哀れんでいた。胸元で握り締めるように拳を作る。
「この罪は重い。海よりも深く空よりも高い。何よりも重く、何よりも美しい。俺はそれを手に入れてようやく分かった」
ヤウィスは聞いていられないと言いたげに首を振った。
「……お前は天使の性に基づいて哀れんでいるだけ。愛を告げられて魅入られているのだ。そんなものは幻想。悪魔の誘惑に過ぎない」
「聞き飽きた。同じ事しか言えないんだ、天使というやつは」
ヤウィスの顔が不愉快そうに歪んだ。ルクスは静かに、誇るように立っている。
このままではルクスは剣を持って相手を傷付けながら進むだろう。彼が血に濡れる事だけはと思い、お互いに譲らない二人の間の張り詰めた空気を感じながら、エヴァリは勇気を出して口を開いた。
「どうか――どうか、ヤウィス様」
二人の視線が向き、ルクスが強く抱え込もうとする。抱き込んで全てから覆い隠そうとする彼に抗って、身を乗り出してエヴァリは訴えた。
「誰に許されなくとも私たち……いえ私は、もうなくてはいられないのです。そういう思いがこの世にある事を、ご存じであって下さいませ」
上級天使の目には小さく弱い罪人が映っていた。エヴァリはその目を真っ直ぐに見返した。それがエヴァリの思いの真実の証明だった。
例え――天使たちの言葉通りルクスの感情が哀れみと、一時の感情に溺れているだけだとしても。水面に浮かび上がろうとする彼を再び沈めるだけの、罪を犯す覚悟があった。
目を逸らしたのはヤウィスの方だった。
「……天界はこの地を浄化する事を決めた」
ヤウィスは羽ばたきを始める。
「魔物の大群がこの地を襲う。人は恐らく僅かばかりも残らぬだろう。そうして影で汚れたこの地に数人の天使が降り、浄化の儀式を行う」
「魔物……」
「浄化の儀式? 魔物ごと人間や村を焼き払うのか!」
エヴァリは青ざめ息を呑み、ヤウィスは違うと首を振った。
「生きたまま人間を焼き払うのではない。魔と、魔に殺され汚れたものを浄化するだけだ」
同じ事だとルクスは強く責めた。
「お前の口調ではまるで予定されている事のようだな。何故魔物が襲うと分かる」
「……それが我が天の主と闇の地の主が交わした契約だからだ」
契約、とルクスが反芻する。
「光と闇は沿い合う世界の担い手。天の主も地の主もそれをご存じだ。天使があれば悪魔があり、一方が豊かであればもう一方で貧しいところがある。神はそのようにお創りなされた」
まさか、と愕然とした声がルクスから洩れた。
「主たちが結託しているのか。敵対しているのも、全て嘘なのか」
「嘘ではない!」
怒りすら感じられる厳しい否定の声。
「敵対するのもまた世界の『在る』かたちなのだ。在るべくして在る、要素なのだ。そうでなければ世界は続かない」
「敵対も、協力も、全て必然だと?」
「そうだ」
「そうしてこの地を、人々を生贄にする事を、何とも思わないのか!」
「私も哀れだとは思う……」
僅かに目を伏せた。そこには本当の哀れみがあった。だが目を上げて強く言った。
「だがそう決まったのだ。堕天使が生まれ、悪魔が生まれた地を人が許すはずもない」
告げられた罪から身を守るように固くなった二人に、何の感慨もない表情で向けて、ヤウィスは大きく羽ばたいて飛び去った。
「……その罪は許されない……永遠に誰からも……」
天の御遣いの声は呪いのように降り注いだ。声は余韻を残して消えたけれど、深く傷となってこだました。
永遠に誰からも許されない。
隣にいる罪人が、声を振り払うように全身に力を込めたのが伝わった。
「……エヴァリ。行くぞ」
手を取り前へ進むルクスだったが、動けなかった。
エヴァリはその場に立ち尽くし、地面の一点を虚ろに見つめ、首を振った。
「行けない……」
エヴァリは恐怖感に囚われて震えていた。
「この地を、魔物が襲うのでしょう?」
「そうだ。だから早く離れないと……」
「村の人々はどうなります! 早く知らせないと、このままでは死んでしまう……」
ルクスは驚愕を露わにして言葉を無くした。エヴァリの表情が真剣と見て取ると、肩を掴んで慎重な声で言い聞かせた。
「エヴァリ、いいか、もう村には戻れない。誰も俺とお前の言葉なんか聞きやしない。戻っても残虐な方法で殺される」
それに。ルクスはひどく悪意のある感情で顔を歪めた。
「あんな奴ら、死んでしまえばいい」
それはエヴァリの言葉だった。鞭打たれ、蹴られ殴られるたびに思うべき自分の言葉だと、エヴァリはようやく知る事が出来た。けれどエヴァリは子供のように、行こうとするルクスに抵抗して首を振った。
「見殺しにすれば私は本当に悪魔になってしまう」
村長や村人と同じ事をしようとしている。他者に手を下してもらおうとする事。あの人々と同じになる事、それだけが恐ろしかった。愛も殺意も罪も自分のものだったが、自分で手を下さないだけ殺意は醜く邪だった。
ルクスは唇を噛んだ。
「……お前一人を行かせるわけにはいかない」
「ルクス」
「お前に危害があるようであれば、魔物が襲う前にあいつらを容赦なく殺す」
ルクスの瞳は夜の中でも分かるほどぎらついていた。エヴァリは彼の表情に恐怖を感じ、か細く息を吸い込んだ。
「――はい」
例え彼が狂気の果てにあっても、自分が罪悪を感じなくても。
戻れぬところまで来たのだ。その先に進むのも、同じ事だと思った。
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