「エヴァリ」

 名を呼ばれた。悪魔、ではなく、誰も滅多に呼ばない名前を。

 目を開けるとルクスの顔があった。美貌が、心配そうに揺れている。

「ルクス……」

「倒れたんだ。気分はどうだ」

「だいじょうぶ……なんともない、ですよ」

「嘘を吐け。熱がある」

 エヴァリはぼんやりとした頭で周囲を確認した。寝かされているベッド。窓が一つとテーブルセット。置棚が二つ。それらの位置はルクスが滞在している部屋のものだった。

「……礼拝は、どうなりましたか」

 ルクスの顔が厳しく歪んだ。

「さあな。もう終わってるんじゃないか。悪魔がどうこう言うから、黙らせてお前を運んだ。それを利用して邪気を払うからと言って追い払った。誰も近付くなとも言って、今に至る」

「まあ……」

 村長たちの苦い顔が見えるようだった。くすくすと笑うと少し気分が楽になった。

 エヴァリは飲み物を飲もうと身体を起こす。ルクスが支えたが、背中に触れられて大きく痛みが走った。眩暈もまた。声を噛み殺した。きつく眉を寄せたが気付かれなかったらしく、水を持たせてくれたので口に含む。すぐ熱となったが、それでも喉を潤すには十分だった。

 再び寝かされる。エヴァリから手を離したルクスの顔が、自らの手の平を見て急に強ばった。

「エヴァリ」

「はい……?」

「背中を見せてみろ」

 エヴァリは凍り付いた。

「エヴァリ」

 首を振るエヴァリを絡め取るように冷静に名を呼び、ルクスは手を伸ばした。抵抗するも熱と痛みの所為で押し返す力は弱々しく、エヴァリは言葉でも抵抗を試みた。

「何でもないから……!」

「エヴァリ」

 びくりと身体が震えた。その隙にあっという間に背中を向けさせられ、血が滲んだ服を脱がされる。布と包帯がずらされる感覚に、エヴァリは醜い背中が彼の前に晒された事を知った。

「お願い――見ないで」

 願いは虚しく、背を見て絶句する気配があった。

 重苦しい沈黙が満ちる。エヴァリはルクスの顔を見る事が出来なかった。

 恐ろしく低い声で「誰が、こんな事を」とルクスが言った。

「古い傷が開いただけです」

「馬鹿を言えっ! こんな……」

 何も言えずに口を閉ざした。ルクスから見るエヴァリは華奢で小さく、背中は傷だらけだった。新しい傷と古い傷があるが、目立つのは幾つもの赤黒い鞭の跡。赤い血が滲んでいる。火傷の跡もあり、ただれていた。見る人が見ればそれは翼の跡のように思えたかもしれなかった。

「……すまなかった」

 ルクスはようやくその言葉を絞り出すと、エヴァリに上掛けを優しく被せた。上掛けは肩布だった。神言が縫い取られた幅広の布。エヴァリは慌てて向き直った。

「ルクス、これは、」

「構うな」

 鋭さすら感じさせる声で言うと、エヴァリの側で項垂れた。

「俺が信頼していると示せばと思ったんだが、無意味だったみたいだな」

 続くすまないと言う声は弱々しかった。

「寧ろ助長させる。いくら謝っても謝りきれない」

「良いのです。良いのです」

 エヴァリの声は泣き声に近かった。そこから続く言葉が何であるかは当てられないが、聞きたい言葉であるはずがなかった。

「お前は、もうここに来ない方が、」

 予想通りエヴァリの最も聞きたくない言葉が発せられようとした。

 彼に会えなくなる。二度と近付けさせてもらえなくなる。その思いがエヴァリの引き金を引いた。

「いやです!」

 痛みに顔が引きつったが、エヴァリは手を伸ばした。

 届く。

 縋り付いた。

「――好きです」

 ――なんて恐ろしい事を。

 エヴァリは自分の罪深さで息が出来なくなった。

 許されない。許されない。

 人間が、天使に恋をするなど。あまつさえその思いを告白するなどと。

 常軌を逸している。あってはならない事だ。

 エヴァリは耐えきれずに顔を覆った。涙が出て来た。

 触れる事も許されないはずの人。なのにこの胸の鼓動はなんだろう。この涙の意味は。

 許されない。

 許されない。

 けれどどうか。

「……エヴァリ」

 低い声が耳朶を打つ。ああ、なんて美しい声。眼を閉じ顔を覆っている今でも、その暗闇の中にきちんと姿を描く事が出来る。

「エヴァリ。何故、顔を隠す」

「醜いからです。背中の傷よりも、何よりも罪深く、憎まれるべきものだからです」

 このまま消えてしまいたい。消えて、誰からも悪意を向けられず、罪にもならない空の色になりたい。

「エヴァリ」

 手を退けろと天使は言う。エヴァリはいやいやと首を振った。

 ルクスが手首を掴む。掴まれた場所から熱を持っていく。力強く握る指と手の平の熱さに、抵抗する気力が奪われて消えていった。

 ルクスはゆっくりとエヴァリの顔を露わにさせた。潤んだ瞳が新しい涙を零す。目尻から流れ落ちていく。切なげに寄せられた眉と色付いた唇は、必死に涙を堪えようとする証だった。

 エヴァリの目前が影になった。青銀の髪が落ちかかってくる。夜の瞳が近付く。ルクスは抵抗があればそれを受け入れようとしていた。だがエヴァリはそうしなかった。彼を待ち、二人はゆっくりと距離を縮める。最初に温かい吐息が唇に触れて、そしてついにふたつが重なった。エヴァリは眼を閉じその甘さと熱に酔った。

 唇を重ねるだけの優しい口づけはしばらく続いて、ルクスが離れた。そして手でエヴァリの髪を額からなぞって掻き上げる。その額にも口づけを落とした。

 ルクスは微笑んでいる。これ以上なく美しく清浄な顔で。けれどその清らかさは全てをなかった事にしそうで、エヴァリは答えを掴み損ねたような不安を感じ、もう一度罪深い言葉を口にした。

「……好き」

 思いが溢れた。

「好き。好きです、好き。あなたを――愛しています」

 ルクスは天使の微笑みを浮かべたままでいる。許されると思い上がったエヴァリは更に言葉を重ねた。

「側にいて下さい。私だけの側にいて下さい。ずっと、ずっと。永遠に」

 天使に恋をし、口づけまで交わした。堕落者。悪魔。誰かの罵り声が聞こえる。

 けれど今世界は素晴らしく美しかった。

「許そう」

 ルクスが力強い声で言った。

「俺がそうしたいからだ」

 手が伸ばされ、エヴァリはルクスの腕に抱かれた。

「愛している」

 囁かれた言葉に胸が迫り、再び涙が溢れた。彼はそれを口づけで拭った。

 この世でたった一つ確かなものを、愛するという罪が心と体に刻まれた事を知った。

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