6
朝が来た。背中がじくじくと痛んで眠れなかった。観念して起き上がった瞬間、激痛が走り、息を吸い込んだ。身体がだるくて重く熱っぽかったが、教会に行く事は止めようとは思わなかった。
このままではすぐに血が滲むと思ったので、包帯を巻いてその上から更に布を巻いてから服を着た。腕にも跡になっていたので手当をして服の袖で隠して出掛けた。気付かれない事を祈った。
教会に入るとルクスの姿は礼拝堂にあった。段上で十字架を見上げている。翼と聖衣がきらきらと輝いていた。天使が見上げる十字架というのは、芸術家たちがテーマにしたがるのではないだろうか、とよくも知らないのに考えた。
明かり取りの窓から射す光が、埃できらめく筋を作り、床にも十字を作っている。中に踏み入ると古い床がぎしりと軋んで、はっとしたように天使が振り返った。視線を交わして、彼が微笑んだ。
「おはよう、エヴァリ」
一瞬、背中の痛みを忘れた。
「おはようございます、ルクス」
自然と笑みが浮かんで、ぎしりぎしりと床を鳴らしながら彼の隣に立った。
「きちんと起きたんですね」
「今日は礼拝だからな」
エヴァリは頷いた。司教はいないが、礼拝はきちんと行われている。欠席する者は誰もいない。エヴァリは欠かした事がなかった。
「お前、天の主を信じるか」
十字架を見上げてルクスが尋ねる。
「分かりません」
正直にエヴァリは答える。偽る事はしたくなかったので、天使を目の前にしてもそう言った。
「悪魔の子だと言われてきたから、そんな事はないとみんなに示す為に礼拝にも毎週欠かさず来ましたし、家には天の主の小さな像もあってそれにも祈っていましたけれど、天の主様は私を、悪魔の子と否定も肯定もしてくれなかった」
心から信じていなかった私にお気付きだったのかもしれませんねと、エヴァリは立てられた十字架を見た。
「でも今は少しだけ、信じる方に傾いているかもしれません。天使様は確かにいたのだと知ったから」
ルクスが見ていた。エヴァリは目を合わせた。
この人が、ここにいる。
「あなたに会えたから」
笑顔が心から滲んだ。この気持ちが分かるだろうか。この胸の高鳴りを。喜びを。あなたに会える事の素晴らしさを。
空虚が消える。温かいものが満ちるのだ。その時、初めて自分を信じていられる。
何故か息を呑んだルクスが口を開く。言葉の前に教会の扉が開き、はっとして二人は振り返った。
入ってきた村人は、二人の姿に一瞬立ち尽くした。
「おはようございます。良い天気ですね」
一瞬ぎこちなく強ばった空気をルクスが笑顔と明るい声音で払う。村人は夢を追い払うかのように頭を振ると、ほっと安心したように挨拶を返した。ルクスがその村人に優しく声を掛けていると、村長が現れた。
「おお、天使様! おはようございます」
エヴァリは無意識に一歩退いた。ふらりと身体が揺れる。背中の傷が引きつった。
「天使様。この村は如何ですか」
ルクスは深く頷いて、言葉を紡いだ。
「寂しい土地です。しかしその土地で生きる人々は強いと実感しています。私の力のなんと微々たるものか……」
「まさか! 天使様が来られたおかげで感じるもの全てが違います。皆もそう言っております」
天使は優しく微笑んだ。
「本心からそう感じるあなた方を尊いと天の主はお思いになるでしょう」
そして尋ねた。
「ところで、この村には司教がいないと言っていましたね。いつも礼拝の司教役は誰が?」
「基本的にはわたくしが行っております」
そうですか、と頷くと、ルクスはエヴァリを振り返った。不安を呼び起こす完璧な微笑みだった。
「どうでしょう。今日の聖書朗読は彼女にお願いするというのは」
え、と戸惑いの声を上げたのはエヴァリだけではなかった。
「彼女はとても敬虔で、清らかな心の持ち主です。私は彼女の朗読を聞いてみたい」
視線を注がれてエヴァリはたじろいだ。村長や村人の目が、どうやって取り入ったのだと詰問してくる。
ルクスが視線を戻すと、村長たちはすぐにその様子を消して口籠もった。
「いや、しかし……」
「ああ、無理を言ったようですね。お許しを」
「あ、いや、そうですな……」
引き下がった天使に、村長は考え込んでいたが、エヴァリに眼を向けた。笑っていたが、本当にそうではなかった。
「分かりました。エヴァリ、良いな」
エヴァリは喉の奥に詰まるものを感じ、背中の焼け付く痛みを思い出したが「はい」と声を絞り出した。
時間が経つにつれて村の人々が集まりだし、近場から聞きつけた人々が集まって教会はいっぱいになった。話題はもっぱら天使の事で、ルクスは姿を消しているらしくエヴァリの隣にいるのに、天使様はどこだと問い合う声が聞こえていた。
その内ルクスはふわりと宙に浮かんだ。上から人々の様子を確かめているらしかった。もしかしたら礼拝の最中に効果的に姿を現す為かもしれなかった。
礼拝の時間となり、村長が段上に立ったところで皆が口を閉ざした。村長が儀式を進める。朝の挨拶から始まり、讃美歌を斉唱し、聖書の朗読になった。先週の続きのさわりを司教役の村長が説明し、場がエヴァリに譲られた。
エヴァリが壇に立つと、エヴァリを知る人々のきつい視線が向けられた。口には出さないが、悪魔の子が何故、と嫌悪感を露わにしている者もいた。
光の下に出たエヴァリの唇が震える。口を開くと熱を持った息が吐き出された。全身が熱い。背中が。
「『一人の女があった……』」
それでも声を絞り出した。息を吸い込んだだけで痛みが走った。
「『……幼子を抱きて我が元へ……』」
祝福された者の章。幼子を天の主たちが祝福する、聖人の話。
ならばこの背中の痛みは、断罪の炎のようだ。悪魔を裁く火。聖なる書の言葉をひとつひとつ口にする度に、炎は勢いを増していく。
「『祝福を与えられたのは……』」
上級の天使たち。中級、下級の天使たちもそれぞれ祝福した。そして天の主も御言葉を与えられた。こう呼び掛ける。
『愛すべき、憐れみの子よ』
だがその言葉を読む声は出せなかった。
目の前が暗くなって意識がふっと遠くなり、エヴァリは膝から崩れ落ちた。聖書が手から離れて床に落ち、倒れかかった祭壇ががたつく音が不協和音のように大きく響き渡る。
「エヴァリ!」
人々のざわめき。ルクスが呼ぶ声が揺らいだと思った時には、エヴァリは完全に意識を失っていた。
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