5
「お前、いつまでそうしているつもりだ?」
「はい? なんでございましょう」
夕食を給仕するエヴァリに天使はフォークの先を突き付けて「その言葉遣いだ」と言った。
エヴァリは少し考えた。天使に敬意を払っているつもりだが、気に食わないのだろうか。
「面倒だ。止めろ」
面倒とは。面倒なのはエヴァリの方なのか、天使の方なのか。
そこでぽんと手を打った。
「ご自分が天使らしくないとご存じなのですね。自分が私の言葉遣いに値しないと思われている。ご自分は今も多少猫を被っておられるから、だから面倒」
すらすらと正直な言葉を発したエヴァリを、天使は食事の手を止めて睨んだ。
「もう今更ですよ」
エヴァリはからりと言った。
「私はこれがほとんど地です。ただ、そうですね、天使様と呼ばれるのがお嫌なら、お名前をお教え下さい。そうすれば少しは普通の言葉遣いが出来ます」
天使は黙っていたが、エヴァリは顔を覗き込んで笑顔で圧した。彼は溜め息を吐いた。
「……ルクスリード」
思わず顔が輝いたのをエヴァリは隠せなかった。声が弾んだ。
「ルクスですね。私はエヴァリです」
天使――ルクスリードは苦笑した。何の躊躇いもなく愛称を呼んだ娘に見せる、好意の笑み。
「……エヴァリ、水をくれ」
「はい」
彼が初めて名を呼んでくれた事に胸をときめかせながら、水を注いで杯を手渡した。指先が触れた。痺れるような衝撃が走ったように思い、高ぶっていた気持ちが切なく甘い方へ揺れる。慌てて杯をテーブルに置こうとしたが、ルクスの手が杯をエヴァリの手ごと掴んだ。
エヴァリは身を引きかけた。だが力強い目に気圧されて動けなくなった。青の深い深い色。そこに何かの光が灯り、焔のように揺らめいている。その夜とも火とも付かない瞳が、エヴァリを掴んで離さない。
傾いた杯の中で水が震えていた。水が縁に寄せられ零れそうになる。それはルクスが目の光を弱め、手の力を緩めた事によって元の位置に戻っていった。エヴァリは水を零さずに杯を置く事が出来た。
今のは。弾かれるように手を引き、何でもないふりをして立ち、騒ぐ鼓動を聞きながら考えた。ルクスは平然と食事を続けている。
何だったのだろう。何か情熱的な駆け引きをしたように思えた。何にしても幸福な夢のようだった。
夜が来るまで、それを思っていられた。
夜の挨拶をして教会を出ると、影に溶けていた村長からの使いが現れた。エヴァリの身体が強ばったが、逆らう事は当然出来るはずがなかった。
黙って後に付き、村長の家に入るとぴったりと扉が閉じられ、外にその村人が見張りに立つ気配がした。いつも通りだった。
「天使様のご様子はどうだ。我々が行っても留守にされているようだが」
「……はい、あの」
少し口籠もると、ぴしりと張り詰めた音が鳴った。次はお前の身体に振り下ろすぞという鞭の音。慎重に口を開いた。
「……本日は、村とその周辺を見回っておいででした。天使様は、この土地は何もない土地だと言って、お憐れみ下さいました」
そこまで言うと一息吐いた。緊張から言葉が掠れる。
罵られるのは良い。ただ傷は、醜く残ってしまう。
彼に見られたら。
「天使様は、ご自分のお力ではこの地を守護する事しか出来ないのだと申されました」
「悪魔の子がいるからか」
びしっと鋭い鞭が床を叩き、エヴァリは言葉を続けられなくなった。
「悪魔の子がいるから守護以上の事が出来ないと申されるんだ。この、不幸を呼ぶ悪魔め!」
強い音と共に腕に熱いものが走った。悲鳴を上げる代わりに思わず膝を折った。
「背中を向けろ、悪魔」
愉悦が混じった声。虐げて喜びを感じる歪んだ声。
「天使様は私に、代わりにお前を罰せられるように御命じになった」
嘘だ、と思った。嘘に決まっていた。あの人は私に、ただの人間だと言ってくれた。乱暴な言葉遣いで偽らないでくれた。触れてくれて、名前を読んでくれた。
「天使様はお前を罰する機会をお待ちなのだ」
背中を向けずにいると腹部を蹴られた。呻き声が洩れた。
背に鞭が振り下ろされる。何度も何度も。火を押し当てられているようだった。治りかけていた傷から血が流れるのを感じた。
痛みを感じながら天使の――ルクスの微笑を思い出した。声を思い出した。何か言いたげな、こちらを捕らえる瞳。温もりを。
あなたたちは知らないでしょう。彼の本当の姿を。彼自身がどれだけ優しいかを。
思わず微笑むと、虚ろに映ったのか、打つ強さが激しくなった。
「この、悪魔! 私たちから清浄さを奪う奴め!」
村長の罵り声と鞭が振り下ろされる痛み。悲鳴も上げなかった。もう慣れている。
天使が降りた地でこのような行いを止めないのは、余程恐ろしいのだ。実りの少ない土地。荒れ果てた救いのない土地。こんな貧しい土地で気が荒まないはずがない。負の感情は内側へ内側へと向けられ、言いようのない空白を生み出し、それが恐ろしく、それを潰す為に攻撃的になる。誰も彼もが自分たちを蝕む空虚の理由を欲しがっている。そういう土地だった。
気が済むまで打つと、村長は言い含める事を忘れなかった。
「天使様に気付かれたら、これは古い傷が開いただけだと言うんだぞ。分かったな」
外に立っていた村人が現れて、横たわるエヴァリを外へ放り出した。身体をごみを放るようにした後、強く蹴飛ばしていった。疲れ果てて呻き声も出なかった。
ずっと顔だけは庇っていた。目に付くので向こうも避けてくれた。背中は傷だらけだったが、ルクスの前に安心して顔を出せる事に、エヴァリは喜びを感じて微笑んだ。
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