第2話

 施術は約一時間半。

 ドクター・アムは細い腕をしていたので、普通のセムタムにするよりは短い時間で完了した。

 ただ腕を支える骨自体が細く、筋肉の張りも弱かったので、彫る手が緊張したのは否めない。

 ドクター・アムはよく耐えた。

 薬草を束ねたものを口に咥えていたとはいえ、悲鳴も少なく、痛みに体が跳ね上がりそうになるのを意志で抑え込んでいたのが、ジプの指先にも伝わっている。

 オルフを彫るとき、その刻む刃となるものは、オルフと因縁のあるものだ。

 つまり今回はサメの牙である。

 かえしのついたギザギザの牙で引っかかれるのは激しい痛みを伴う。

 だがその痛みは、セムタムがサメに与えた痛みでもあると、ジプは師匠から教わっている。

 セムタムだって泣き叫ぶような時間を、本質的にはこの世界の外から来たドクター・アムが耐えきれるとは思わなかった。

「よく我慢された」

「すごく痛かったです。でも、セムタム族の痛みと同じものが体験できるんだって思ったので、少し嬉しかったくらいで」

「ほほう?」

「変態って言われるんですけど」

「あっ」

「あなたたちの言葉か。どういう意味なのかな」

「ええとその」

 ドクター・アムは深く深く悩み、うんうん唸った後にようやく、

「その、私が知っている言葉で説明すれば、変わり者って意味が一番近いです」

「なるほど。ならばあなたは、とてもだろうな」

「ええ、友人からはよく言われます」

 何とも言えない表情で、ドクター・アムは頷いた。

 彫り終わった腕には薬草茶を染み込ませた清潔な布をぐるぐる巻き付ける。

 こうすることで直射日光を避け、失血を防ぎ、着色をよくするのだ。

 色をつける絵のオルファは、レプアという木の樹液を練ったものに、いくつかの顔料を加え、最後に清い水で溶いて作る。

 水も重要であった。

 混じりけがなく、天から降ったばかりの(つまり天の龍王たるアララファルの力がそのまま入った)雨水が一番良い。

 ジプの作業場は尾ノ山の高いところにあり、朝霧の水を触媒にすることもできる。

 霧というのは島々を慰撫する龍王アラチョファルの呼吸であるから、それもまた祝福された水であった。

 依頼者の信仰によって調合は変えていく。

 ドクター・アムは<黄金の王>アララファルとの繋がりが深いので、雨水のみで溶いた。

 常には黒、陽が当たるとその線の中に美しい金色が、腕に絡みつくように浮かび上がることだろう。

 願わくば我がオルフが彼女を善く護らんことを。

「さて、できた」

ありがとうございますエポー・ロー

「そんなに固く苦しくする必要はないよ。今日はあまり動かさないように。熱を持ったように感じたら、ほら、この薬草を煎じて飲めば治まる」

 籠に盛った薬草を渡すとドクター・アムは嬉しそうに手に取り、その続き、詳しい薬効なんかを聞こうとした様子だったが、はっと目を泳がせて、

「トゥトゥを呼んできます」

 強いて自制したのではとジプは思った。

 遠慮する必要などないのに。

「ああ、頼む。あのわんぱくはどこに行くかわからんからな」



「誰がわんぱくだ?」

 憎まれ口とともに、作業場の入り口に長い影が差す。

 ジプの予想以上に早かった。

 もしかしたら、ドクター・アムのことを心配していたのかもしれない。

 いっぱしの友人として、あるいは男として。

「さっさとやれよ」

 苦虫を噛み潰したような顔をしているトゥトゥに、ジプはにやりと笑いかけた。

「ドクター・アムには遠くに行ってもらったのか?」

「くそったれが」

「相変わらず口が悪い。ヌーナさんに怒られただろう」

「ババアの話は無しだ」

 どすどすと歩いて行ったトゥトゥは、自主的に施術台の上に腕を置いた。

「さっさとやれ、ジプ」

「わかったわかった」

 ジプは薬草茶で喉を潤し、サメの牙を手に取った。

 図案は同じだが、トゥトゥの染料の調合はドクター・アムのものとは異なる。

 サメの頭、つまり致命傷となる部位にまず銛を撃ち込んだのはトゥトゥだというから、海水を漉したものと雨水を混合したもので溶いた。

 色味は金が強めに出るようにしてある。

 この染料は非常に貴重なものだ。

 何故ならば、この世界で本物の金はただひとつ。

 <黄金の王>アララファルそのひとの鱗から取るしかない。

 染料の金はまがい物ではなく、この鱗の粉末が混ぜられているのだ。

 龍王の鱗を手に入れられるのは、途方もない幸運と、途方もない悪運の双方に恵まれなくてはならない。

 トゥトゥとドクター・アムはその運を得たのである。

 ジプはトゥトゥの腕を、薬草茶に浸した布で拭いた。

「緊張するなよ、トゥトゥ」

「してねえよ」

 筋肉が張り詰めて、やや震えている。

 ジプは少々、からかってやろうかと思った。

 この跳ねっ返り気味の青年が、実は怖がっているのだということを。

 だが、やめた。

 トゥトゥがその気になれば、ジプの首を折るのは赤子の手をひねるようなものであろう。

「いっ」

 サメの歯を軽く当てて線を引いただけで、トゥトゥの口から短い叫びが漏れた。

 ジプはちらりとその顔を伺ったが、ぷいと横を向かれる。

 薬草の束を噛みしめるミシミシという音が静かに響いた。

 図像の枠にするために上下各二本、計四本の線をぐるりと腕周りに彫らねばならない。

 ジプの指先は青年の筋肉の上をなぞり、引き締まった二の腕の下をくぐる。

 トゥトゥの口からは絶え間なく押し殺した悲鳴が漏れ、額からは脂汗がぼたぼたと垂れていた。

 囚われ神話の獣にオルフを施しているような気分になる。

 その昔、<黄金の王>アララファルは屈服させた神獣キナンの背に手ずからオルフを彫ったという。

「少し休憩を入れた方がよさそうだな。薬草茶を飲め」

「要らん」

「飲むんだ。体から水が失われると、それだけオルフが馴染まなくなる」

 ジプの差し出した椀を受け取り、トゥトゥはいっきにそれをあおった。

 その短い間にも、ジプはトゥトゥの右手が細かく震えているのをはっきりと視認する。

「お前はどれだけ殴られても、どれだけ大きな龍が相手でも怖気ないというのに、オルフだけは駄目なんだな」

「……ふん」

 ちらりとトゥトゥの首筋に、ジプは視線を走らせた。

 長い髪の結び目に隠された部分。

 トゥトゥのうなじの辺りには、ジプも今までいちども見たことのない、不思議なオルフが彫り込まれているのだった。

「首のオルフと関係があるのかもしれんな。赤子の頃に植え付けられた恐怖」

「俺が知るかよ」

「そうだな」

 再び彫刻作業が始まった。

 死したサメの念に苛まれているとでもいうように、歯の文様を刻む段になると、トゥトゥの悲鳴はほとんど咆哮と言っていいようなものに変化する。

 波打つ筋肉がその刃を押し戻そうとするが、ジプはそれでも手を止めない。

「トゥトゥ」

 正気と狂気の狭間にいるような目が、ぐり、と動いてジプを見た。

「ドクター・アムは悲鳴すら上げなかったのだぞ。頑張れ」

 その名を引き合いに出したことで、トゥトゥの声量が一段階下がる。

 アララファルの雷紋を彫り始めたころ、申し合せたように作業場の外で雷が鳴った。

 スコールの前触れだろう。

 トゥトゥの痛みと共鳴しているのかもしれない。

 考えすぎであろうか?

 ジプは神鳴る雷の音に耳を澄ませながら、アララファルを称える紋を刻む。

 ぱたぱたと足音がして、

「ジプさん、トゥトゥ、雨宿りしても大丈夫でしょうか?」

 作業場の軒先でドクター・アムの声がした。

「いいか?」

 ジプが問いかけると、トゥトゥは、

「ドクは体が貧弱だからすぐ風邪をひく」

 それを了承だと受け取って、ジプはドクター・アムに返答する。

 トゥトゥは汗がびっしり浮いた背を震わせた。

 どおっ、と音を立てて雨が作業場の屋根に落ちてくる。

 この雨水はとても良い溶媒になるだろう。

「さあ、最後の仕上げだぞ、トゥトゥ」

「わざと痛くしてんじゃねえだろうな」

「そんな訳あるか」

 最後の雷紋を刻む時、トゥトゥはすさまじい苦悶の声を上げた。

 それは作業場の外で荒れ狂う雷の音と混ざり合い、ジプの耳を叩いていった。

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