第26話

 玄関を出ると、思わず両手を拡げて春の新しい空気を胸の奥に取り込んだ。そしてゆっくりと吐き出すようにすると、家の前の道を右のほうに向かって歩き出した。

 緩傾斜な道のアスファルトが春の光をはじいて白く光っているように見える。

 通勤の道すがら毎日眺めてはいる光景なのだが、こうして歩を緩めながら周囲の風景を見廻すと、どこもはじめて見る景色のようで浮き立つほどの新鮮さが自分めがけて跳び込んでくるのだった。

 いつも通る空き地の前までくると、弓削は一瞬足を停めた。立ち停まってじっくりと見るのはこれがはじめて。空き地はまだ手がつけられそうにもなく、ただ荒れ果てたままになっている。これまで目一杯黄色い花を拡げて春の陽光を思いっきり受け止めていたタンポポもすっかり色を落とし、殺風景な空間に様変わりしていた。

 弓削はそれがいつそうなったのか思い返してみる。毎日ここを通りながら小さくて鮮やかな花があったことを記憶している。しかし、それがいつひねて灰色の綿帽子を被ったのかはまったく気がついていない。そうして考えると、いかに自分自身の生活に不用な物に対して盲目であるか痛感せざるを得なかった。

 弓削はその場を離れていつもの道ではない方向に足を向けた。春の陽射しが辺り一面に依怙贔屓することなく降りそそいでいる。うきうきとしながらしばらく歩いていると、右手に小さな公園を見つけた。自然と足がそちらに向いた。ペンキの剥げたベンチに腰を降ろしておもむろに胸のポケットから煙草を取り出した。

 公園は、道路に面した部分に銀杏の樹が三本、右の奥には桜の樹が一本、左の奥に檪と楢の樹がそれぞれ一本ずつ、周りの生垣には手入れの行き届いたツツジが整然と植えられていた。

 どこからか梢を渡って小鳥の鳴き声が聞こえてくる。久しぶりに聞く鳥の声は気持を和ませてくれた。真正面に見える砂場で、まだ幼稚園に上がらないくらいの小さな女の子が、母親と一緒にプラスチックのスコップを片手に遊んでいる。

 この公園には弓削の他にその母子しかいなかった。

 煙草の烟を吐き出しながらのんびりと母子が戯れる姿を眺めながら、色褪せかけた子供と遊んだ頃のことを想い出した。しかし、仕事を口実にしてあまり友一と遊んでやることがなかった。このところ友一と顔を合わせても親子の会話といった和やかなものがまったくない。考えてみると、それもこれもそのときのツケがいまになって廻ってきたに違いない。

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