030:火遊び。

 

「あははは! 名誉挽回のチャンスがこんなにもはやく来るなんて! ツイてる! ツイてますね私は! さて、どうしましょう。うーん。普通に殺しては面白くありませんよね。ここはマスターに私の価値を証明する貴重な機会。生半可ではいけません。どうしましょう、迷います。うーん……」


 ……まともな感性、常識、教養がある者なら誰しもが理解するだろう。

 今、我々の目の前にいる存在は生物としての格が違うのだと。

 生身の人間が勝てる存在では決してないのだと。


「た、隊長……」


「……あぁ」


 撤退すべきだ。

 それもなりふり構わずの全力の撤退を。

 目の前にいるのは慈愛の天使などではなかった。

 天使の皮を被った悪魔だったのだ。



 ───絶望は加速する。



「あっそうだ! 燃やしましょう! 私、生き物を燃やすの好きなんです! なぜだかずっと見ていられるんですよね!」


 いつまでも見ていられる、いや見ていたい。

 心からそう思えるほど美しく妖艶な笑みで天使様はそう言った。

 無邪気にはしゃぐ子供のように呟かれた、そのどこまでも恐ろしい言葉とは裏腹に。


 何を……言っているんだ。


 燃やす。


 燃やすと言ったのか?


 何を……何を燃やすというのだろう……?


「お、お待ちいただきたい!!」


 隊長が声をあげた。

 その声にほんの少しだけ平静を取り戻した。

 さすがはルゼフ隊長。

 この全身にはりつく凍えるような死の恐怖のなか、声をあげただけでも大いに尊敬に値する。


「ここを貴方様のダンジョンだとは知らず踏み入ったことを心から謝罪したい!! 当然、お望みのだけの謝礼をお支払い───」


「えーっと。───《魔場掌握》《性状変換:遊天ノ炎》」


 無慈悲に囁かれたその短い言葉。 

 次の瞬間には……ルゼフ隊長はどこからともなく現れた炎に身を灼かていた。


「グギャァァァアアァァアアア!!!!」


 なんだ。


 なんなんだ。


 なんなんだこれは…………。


「ひぃっ」


「う、うわぁぁああああ!!」


「いやだぁぁああ!!」


「おぼぉおお!!」


「たすけてくれぇぇえええ!!」



 ───それからは地獄だった。



 訓練したことなど容易く頭から消え失せた。

 まさしく砂上の楼閣だ。

 撤退時の心得、隊列、手順。

 そんなものは現場を知らない者が唱えた机上の空論に過ぎないことを思い知った。



「あははああははっはっはあはははぁあああははは!! たぁぁあああのしぃぃいいい!!」



 響き渡る阿鼻叫喚。

 そして悪魔の哄笑。

 ……ははっ。

 天使の姿をした悪魔とは……なんとも皮肉だ。


 どういう原理なのか全く分からない。

 人の理を無視したまさしく超常。

 果たして魔法……なのだろうか。

 なんの前触れも予備動作も詠唱もなく人を燃やし尽くす魔法。

 もはや笑えてくる。


 逃げ惑う仲間が次々と悪戯に燃やされていく。

 指を差す。

 ただのそれだけで。


「あはっははっはぁぁぁああははは!!」


 かくいう私は腰が抜けてしまい動けない。

 どうやら失禁もしてしまっているようだ。

 なんとも情けない。

 人が焼きただれ、それから放たれるなんとも表現し難い吐き気を催す匂いを嗅ぎながらただ震えるしかないのだから。


 不意に私は空を舞う天使に目を向けた。

 耳元まで裂けたようなその笑みはどこまでもおぞましく邪悪であり、そして無垢な子供のようでもあった。


 ───それでも尚、美しい。


 死の間際にしてそう思ってしまうのは、男の性なのだろうか。

 あまりにも整いすぎたその端整な顔立ちにはどこか不自然さを感じるほどだ。

 まるで超一級の芸術家の手によって作り上げられた渾身の作品であるかのように。


 私は……ここで死ぬ。


 それだけが唯一確かな事実。

 もはや抗う気力はなかった。

 心から願うのはできるだけ安らかに死ねること。


 また1人、また1人。

 私を含め後3人。

 絶望を容易く通り越し白く染った私の心。

 今はとても凪いでいる。


「あはっははっはぁぁぁ! 燃えてますねぇぇぇええええ! きれいですねぇぇぇえええ! 熱いですかぁぁああああ? あはははぁぁああはは!」


 その時、丸焦げとなった死体と目が合った。

 全てを呪うかのような目だ。

 ……なんの運命の悪戯だろう。

 焼け残った襟元の家紋からその死体は───我が友アイヴァンであると分かった。



 あぁ友よ。

 もうすぐ私も───



 ───ジャラン。



 自らの首にさがるアクセサリーが小さく揺れた。

 肌身離さず常に持ち歩いていたものだ。

 むしろなぜ、今の今まで忘れていたのか。

 これは我が家に代々伝わる家宝。



『転移系魔道具』



 絶望に染った心に一筋の光が指した。

 助かる可能性がある。

 そう思った途端、どうしようもなく生にしがみつきたくなった。


 死にたくない。死にたくない。死にたくない。

 思考がその一点のみに集中した。


 問題となるのは発動までに要する時間───10秒。


 本来ならなんの問題にもならない。

 それどころか、その程度の代償で“転移”という大魔法を一度きりとはいえ発動できるのだからこの魔道具の力は絶大だ。

 だが今回に限って言えばそのたかが10秒が永遠にすら思える。


 それでも私に……他の選択肢などない。


『帰還』


 風の音に掻き消されてしまいそうなほどの小さな声で、私はそのキーとなる言葉を呟いた。



 ───残り10秒。



 それと同時に、私以外の人間がすべて焼死体へと変わってしまったらしい。



「……名残惜しいですね」



 ───残り9秒。



 頼む……頼むから早く時間よ過ぎてくれ。



 ───残り8秒。



「でもしょうがないです」



 ───残り7秒。



「じゃあさよならです」



 ───残り6秒。



 生を受け、今この瞬間ほど脳を働かせたことは無い。

 血管が焼き切れんばかりに巡る思考。

 思考が引き伸ばされ、僅か数秒を稼ぐために全てが注がれる。

 高速で流れる過去の記憶。

 これが走馬燈であるというのならなんの疑いもなく信じられる。


 そしてたどり着いた。


『マスター』そして『名誉挽回』という言葉に。


「俺は益のある情報を持っている!!」



 ───残り5秒。



 気づけばそう叫んでいた。


「……え?」



 ───残り4秒。



 そしてそれは実を結んだ。

 気を引くことに成功したらしい。

 だから私はそれをより確実なものにするためにさらに続ける。



「お前のマスターに関しての情報だ!!」



 ───残り3秒。



 目を見開き、驚愕を顕にする残忍な天使の表情が私を高揚させる。

 助かる。

 助かるかもしれない。

 まだだ、気を抜くな。

 最後の最後までほんの僅かの油断もあってはならない。

 冷たい汗がやたらゆっくりと額を垂れた。



 ───残り2秒。



「お前、マスターを知っているのですか?」



 やはり。

 やはりそうだ。

 想像できないし、したくもないがこのはるか高みの存在にはさらなる上位存在がいる。

 なんということだ。

 この情報は……この情報だけはなんとしても王国に持ち帰らなければならない。

 さもなくば、王国は滅ぶ。



 ───残り1秒。



「あぁ、知っているとも」


 ただの虚勢。

 はったりでしかない。

 だが私は生き残ることに成功した。

 そう確信した。

 私の周囲に魔法陣が展開される。

 自然と笑みと涙が零れた。




 そして───




 “ぷぎゃら”




 私が最後に聴いたのは、鈍く重い叩打音と突如この空間に響いたどこか滑稽な甲高い悲鳴。




 私が最後に感じたのは、首筋に鋭く伝わる“熱い”という感覚、肌を切り裂く暴風、そして低く

 なる視界。




 私が最後に見たのは、あの天使とは似ても似つかない純黒の翼を持つ男だった。

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