暮れて後、待つ向こう岸
雷藤和太郎
竹屋の渡し
名にしおはば いざ言問わむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしかと
向かう岸の瓦斯灯が、水面にぼんやりと浮かんでいる。
渡し舟が行き交ふたびに、水面に映る瓦斯灯の灯りは、ゆら、と揺れいて、その橙色が隅田の流れに溶け込んでいくやうであった。
「あんた」
女はまだ幼い。
色抜けた羽織りは薄い月明かりに照らされてやけに重たそうである。うつむきがちで地面ばかり見ている女のうなじを隠すように、羽織の襟首は高い。
「あんた」
近くの母屋から声がかかる。
声の太い、恰幅の良い中年の女の声。毎日の接客に長年耐えてきた女の声である。
「いつまで呆けているつもりだい」
幼い女はおもむろに顔を上げ、それから声のする方を見た。
竹屋、と書かれた看板の隣に、女のSilhouetteがあった。くびれのない瓢箪のような姿形が、金柑のような灯りに照らされている。
逆光が、声の太い女の顔色を隠していた。
「まったく、そんな腫れ上がった目でそこにおられちゃあ、商売あがったりなんだよ」
「すいません」
謝るものの、幼い女はそこを一歩も動く気配がない。
「あの舟が出るのを待ってるのかい?」
「ええ」
階段を降りた岸の小さな桟橋に、舟が一艘、止まっている。棹を持った渡しの他に何人かが既に乗り込んでおり、黒々とした影となって舟の動くのを待っている。
「そうかい」
声の太い女の、声色が変わったように感じた。
それまで非難がましいものだった声色が、どこか同情めいたそれに変わっているように感じられて、幼い女はそれで初めて声の太い女の顔を見たような気がした。
「時々な、あんたみたいな女がいるんだ」
看板のある壁に体をもたれかけていた女が、幼い女の方へ近づく。幼い女は両手を胸の辺りで固く握りしめた。
金柑色の灯りから離れると、月明かりの中に声の太い女の姿が照らされた。
人付き合いのよさそうな、庇髪の女性である。
「大方、渡しの前で男と別れたんでしょう」
幼い女が小さく頷く。
「あんた、男と別れて正解だよ」
庇髪の女性はきっぱりと言った。
「あたしは仕事柄、あんたみたいな男女を何人も見てきた。しかし渡しを使って別れようなんて男にはね、ろくな男はいなかったよ。ましてやこんな夜の出立だ、どうせ何かやましいことがあるに決まっているさ」
「やましいこと……」
「そうさね」
庇髪の女性は、十全その女の身を思っての発言である。決して嘘で慰めようとしている訳でも、その場を丸め込ませようとしている訳でもない。
であるにも関わらず、幼い女はその「やましいこと」という言葉に不服そうであった。
「やましいことなんて、ありません」
胸の前で握りしめた両手のように、幼い女は頑なである。
これは相当惚れこんだのだ、と庇髪の女性は耳の後ろを薬指で掻く。こういう手合いには、これ以上の説得が無意味であることも、何人も男女を見てきて知っていた。
「そうかい。その、舟に乗ってる奴さんは、いい男だったのかい」
「……私の兄です」
「なんだい、身内だったのかい。それは見当外れだったねえ。しかし、こんな夜に別れなければならないなんて、何ぞ理由でもあるのか知らん」
「兄はこれから、満州に発つのだそうです」
「ほう、満州かい。それはそれはずいぶんと遠いところに」
身内の別れに涙していたのだと思えば、確かに幼い女の腫れ上がった目元の理由も理解できた。
しかし日暮れて瓦斯灯と月明かりだけが頼りのこんな時刻に、その他親類の姿も無しに物別れになる兄妹は、いささか不自然であるようにも思う。
その理由は何ぞ、とは問わなかった。
満州へ行くということは、きっと何か抜き差しならぬ事情があるに違いない。
それは二人のprivacyに関わることであり、そこに安易に踏み入ってはならない。人には超えてはならぬ一線があることを、この庇髪の女性は仕事柄分かっていた。
「お兄さんは、ここで見送れと」
「はい。これ以上俺に関わるな、と怒られてしまいました。どうしても、と兄の袖に泣きついて、何とかこうして最後の別れができるのです」
「そうかい。じゃあ、最後まで見送ってやんな」
庇髪の女性は、それ以上何も言わなかった。踵を返して母屋へと戻っていくと、金柑色の行燈の中に消えてしまった。
「はい、すいません。ありがとうございます」
幼い女は、それだけ言って水面に向き直り、ただただそこに浮かぶ一艘の舟を見続けていた。
その後まもなくして、隅田の渡し舟は言問橋にとって代わった。
満州では某重大事件が起こり、それから田中義一内閣は総辞職に追い込まれる。
母屋の女将はそれをどこかで聞くと、あの夜の兄妹の別れをふと思い出し、渡しの向こうへと行った兄の行方と、妹の行方とを思うのだった。
暮れて後、待つ向こう岸 雷藤和太郎 @lay_do69
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