廃寺の邂逅
さて、時は郭詠十二年。先の大戦の傷跡未だ癒えぬ当時、他国に先んじて復興を果たした尼ヵ谷、鷺橋の二国は、
山を挟んだ二つの大国。ともすれば相討つ微妙な関係ではあったが、両家頭目をはじめとする家人の尽力により、無法者跋扈する混乱期の
二国の間に聳える山の、その中腹。ひっそりと忘れ去られた廃寺の傍に、傷だらけの
廃寺の破れた障子から、きらきらと朝日が差す。煎餅布団に横たわる少年のまぶたがぴくりと動き、やがて目を覚ました。
ここは、と寝ぼけ眼で思案する。
(そうだ、僕はあの後……。)
ややあって、自分の置かれた身の上を思い出す。昨晩の逃避行、助太刀に現れた少女のこと、どうにかこの廃寺まで逃げ延びたこと。
そうだ、あの御仁は、と思い至って、廃寺の中を見回さんと少年が顔を上げれば、ふにょ、と鼻先に嫌に柔らかいものがあたった。目の前にあるのは、きめ細やかな肌色。浅葱の布地からちらりとのぞく、丸みを帯びたその弾力は。
「え、ええぇっ。」
ぼ、と少年の顔に紅がさす。慌てて体を離さんともがくが、気づけば四肢の上から暖かい感触に抱きすくめられて身動きひとつ取れない。柔らかな腕や足は、そのしなやかさに反して、すさまじい力で少年を捉えていた。
「ちょ、ちょっと、起きてくださいっ。」
どうにかそこから目を放そうと仰ぎ見れば、昨晩のおんな剣士があどけない顔で寝息を立てている。寝ぼけているのか、さらに強い力で胸元に引き寄せられて、少年の顔はますます紅潮した。
「……いやあ、よい塩梅に丸まって寝ておったゆえ、つい、なぁ。」
ようやく目を覚まし、胡坐をかいて起き上がると、わはは、と笑いながらそう言う。抱き枕にされていた少年はというと、やや離れた場所で未だ赤いほほを膨らましながら、困り顔で少女をにらんでいた。
ようやく頬の赤みも引いた頃、少年は正座の形に座りなおすと、丁寧に頭を下げた。
「自己紹介もできず、失礼いたしました。手前、尼ヵ谷の大工
「礼などいいさ。私の信条に従ったまでだ。」
少年――忠松の言葉に、剣士が笑って返す。
「私は飛鳥。故あって、今は諸国漫遊の身だ。」
少女――飛鳥はそう言うとさっと着物を直して、さぁ、朝餉にでもしようか、と忠松に笑いかける。少ないが、と懐から竹皮包みを取り出すと、中には男の握りこぶしほどはあろう大きな握り飯がぎっしりと詰まっていた。
「お気持ちは、ありがたいのですが。」
そう言って遠慮する忠松だが、腹の虫は正直なもの、ぐうぅと大きな音が堂内に響くと、飛鳥はまた笑って、ぐいと握り飯を差し出した。
「遠慮などいらんさ、何をするにも腹ごしらえよ。」
顔を赤らめる忠松であったが、結局は差し出された握り飯を受け取り、もそもそと口に運び出す。昨夜の顛末についても無理に聞き出す気は無いようで、飛鳥もまた黙々と握り飯を頬張っている。
沈黙に耐えかねたか、一つ目の握り飯を食い終えた忠松が、おずおずと声をかけた。
「飛鳥、さんは何故、鷺橋に戻ってこられたのですか。」
「ああ、人と会う約束があってな、もうすぐ来るはずなんだが。」
また一口、握り飯を頬張る。
「昨夜のことも、そいつの話を聞いてからのほうが通りがよいだろう。」
そう言ったきり、二人の間に少々気まずい沈黙が流れる。握り飯を食べ終えた飛鳥は腹八分目、腹八分目とつぶやきながら煙管に火を入れて、くゆりと漂った煙が陽に照らされた。
少しすると、、遠く人里から時を告げる鐘の音が風に運ばれて。
枯葉を踏みしめて廃寺に近づく足音が、微かに聞こえてきた。
「来たか、新発田。」
「久しいな、飛鳥。」
がらりと戸が開いて、一人の男が姿を現す。口調は努めて冷静であったが、飛鳥を見る視線には隠しきれない剣呑さが滲んでいる。詰襟の正装に身を包んだ男――新発田は、堂内を一瞥した新発田は忠松に目を留めた。
「表のでかぶつは、君のものか。」
忠松が首肯で答えると、新発田は得心したとばかりに頷いて、荒れ寺の一角に腰掛けた。
「鷺橋は友井家の塾頭、新発田徳雪と申す。」
「手前は松鶴組の丁稚で、忠松と申します。」
新発田が忠松に軽く頭を下げ、忠松もそれに返す。
松鶴組の名を聞いて、微かに新発田の眉根が動いたのを、忠松と飛鳥の二人は感じ取った。
「相変わらず鼻の利く女だ。」
「お前には適わんさ。一体どんな手を使ったのやら。」
胸元から一通の文を取り出して、飛鳥が笑う。表書きには飛鳥の名が丁寧な筆致で書かれていた。煙管の火を落とすと、飛鳥は姿勢を直して新発田に問いかけた。
「尼ヵ谷で、何が起こっている。」
「……謀反だ。」
飛鳥の眉根に、ぴくりと力が入る。
「半年前、飛曾のご老公が亡くなった事、お前の耳にも届いてあろう。」
「ああ、弔問も出来ず仕舞いだが。」
飛曾の老君主逝去については、忠松も記憶に新しい。葬儀には、松鶴組の親方も参列していたはずだ。跡目を継いだのは、
「となれば、謀反の下手人は屁垂れの
仮にも郷士家の御曹司に対して、飛鳥が気安い口調でののしりの言葉を口にする。
新発田は軽く首肯すると、事の顛末を語りだした。
「ご老公の四十九日が開けてすぐ、家禄分配を不服とした康人が
新発田は懐から地図を広げ、ここだ、と指を刺す。飛鳥と忠松の二人が身を乗り出して、鼻先を突き合わせた。
尼ヵ谷は四方を山に囲まれており、東側の山、中腹のあたりには「尼ヵ谷山城」と飛曾家本城の名が書き混まれている。大して謀反勢力の楼月館……飛曾家家人や客人の控える古い屋敷は、谷底のやや西方に鎮座していた。
「兵の殆どは康人が数年前から集めていたごろつき共だ。やつらは楼月館を押さえた後、陣を張って街道を封鎖している。」
「だが、たかが私兵を相手に尼ヵ谷の本隊が遅れを取るとも思えんが。」
「正面から戦になっていれば、一月も掛からずに康人の首を落とせていたろうさ。」
飛鳥の一声に、新発田は頭が痛いといった風体で、苦々しく返す。
その様子を見て、飛鳥が思い当たったという風に言葉を発した。
「人質か。」
「そうだ。楼月館に詰めていた家人の妻子と留学生が数十名、未だ楼月館にとらわれている。」
大国の慣わしとして、尼ヵ谷や鷺橋では近隣の小国から、郷士の親族や私塾門下の若者――剣を学ぶもの、「剣生」の内、有望な者たちを留学生として迎え入れていた。設備や蔵書の整った大国で家人を育て、また自国へ帰った留学生たちは親大国派として
しかし、此度ばかりはそれが仇となる。他家の家督争いで配下を失ったとなれば、飛曾家と近隣諸国の関係悪化は避けられない。
「……屁垂れめの考えにしては、手際が良すぎるな。」
「康人個人の策ではあるまい。聞けば、数年前から大陸から渡って来たという居士を客人として迎えていたらしい。」
そういいながら、新発田が地図に視線を戻す。
「だが、開き直られれば最期だ。平野の楼月館では守り難いと見て、奴らも居城を移している。」
そういって、今度は谷の西側を指差す。山の中腹には比較的新しい墨で、「柊山城」と書き込まれていた。
「飛鳥、お前は知らんだろうが、ご老公が存命の折から建築中だった出城だ。ここの城大工として詰めていたのが……。」
「……松鶴組です。」
忠松が、おずおずと口を開く。
「そうか、やっとお前の話を聞く番だな。」
飛鳥がそういって、忠松の方へ向き直った。
新発田と飛鳥の会話に、己の立場を改めて認識した忠松の声が、少しばかり上ずっている。
「城の完成直後、康人勢は松鶴組を全員拘束していたはずだ。昨晩、楼月館で騒ぎがあったとは聞いているが。」
「ええ、手前です。」
そう言って、忠松が懐から書状を取りだす。
「親方が見張りに金を握らせて、
新発田が書状を受け取って、中身を改める。眉根の皺が一層深くなるのを見て、飛鳥が視線で促した。
「血判状だ。人質たちの連名で、仁義に殉ずるならば故国に遠慮は無用、だとよ。」
目の前で見知った顔を討たれた無念もあったろう。幼い忠松に託されたそれは、人質たちによる決死の書面であった。
己の役目の成就を見て、忠松が一先ず胸を撫で下ろす。
「その書状が表に出れば、鷺橋の本隊も大義名分を得て康人勢に攻め込めるというわけだ。」
飛鳥が、少しばかり気の重い面持ちでそう告げる。
「そう、だからこそ。」
新発田が面を上げて、忠松に鋭い視線を向ける。その表情には、どこか飛鳥に向けるものとも違う、苦渋の色が含まれていた。
「君を、このまま解放するわけには行かないということだ。」
その一言に、周囲の空気が一変する。新発田が書状を忠松に投げ返すと、廃寺の周りには突然に現れた人の気配に満たされた。
……伏兵だ。
「……徳雪、どういうつもりだ。」
飛鳥が忠松を庇うようにして進み出る。右手を腰の刀に添えて、居合いの構えを取る。
「お前なら分かっていよう。なぜ、おのれが呼び戻されたのか。」
「人質救出のための捨て駒、という訳か。」
苦々しげに飛鳥がはき捨てる。
「……万が一にも、友井家の介入が露見することだけは避けねばならん。一人で、とは言わんさ。康人ほどではないが、いくらか私兵を囲っている。」
「忠松は関係ないだろう。貴様、人質たちの思いを踏みにじる気か。」
飛鳥の言葉に、新発田の顔が翳る。しばしの逡巡の後、迷いを振り払うようにして新発田は飛鳥を睨み付けた。
「貴様にも、無関係とは言わせん。その人質の中には、我が友井家の次期党首がいるのだ。」
その一言に、さっと飛鳥の顔色が変わる。
「ひたき、様……。」
「……決行は三日後、楼月館の人質が出城に移される道中だ。」
新発田はそう言って、踵を返して廃寺の境内に歩いていく。
後には、愕然とする飛鳥と、うろたえる忠松だけが残された。
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