早宮ひかりの家事事件簿

@yayoi-motomachi

第1話

「あの、ちょっと犯罪被害の相談したくて」

「どうされました?」

「タランチュラと、あとゲンゴロウ無理矢理食べさせられたんですよ」


 何とも底意地の悪いことをする人がいるものね…


 世の中が連休モードに浮かれる中、私は当番弁護の派遣要請を受けて、板橋警察署の1階ロビーに座っていた。午前11時17分、刑事弁護センターから電話を受けて、すぐに警察署に向かったものの…

「今その被疑者昼食中で。なので、留置の手続をとった後なので、午後1時過ぎころにはご案内できると思うのですが…」

「今取調べを続けているわけではないんですね?」

「はい」

「わかりました、じゃあここで待たせてもらいます」

 

 私は空腹には弱い。ここに来る前に、駅前によって何かしら軽く食べてくるべきだった。


「誰があなたにその、タランチュラを食べさせたんですか?」

 受付の警察官が、被害相談に来た男性に質問する。

「あの、自分、飲食店に勤めてたんですけど、そこの人に、タランチュラ、食えっていわれて」

「勤務先の人が?」

「そうです、自分、たばこは体に悪いと思って、たばこやめるって宣言したんですよ。でも自分その約束守れなくて。そしたら、タランチュラ食えって」


 禁煙の近いを守れなかった制裁にタランチュラ?タランチュラをわざわざ用意したの?その勤務先の人…


「で、タランチュラを食べて、何か健康被害とかありましたか?」

「もう、タランチュラ食べたら、もう下の方からいろいろこみあげてきまして。で、お医者さんに診てもらったんですよ。性病検査で。そしたらクラミジアだって」


 …どういうこと?クラミジア?なんで?


「その、タランチュラを食べて、クラミジアになるっていうのが、よくわからないんだけども」

 本当にそう。そこ聴いて。そこ大事。

「タランチュラ食べて、そしたらたぶん免疫力が下がったんだと思うんですよ」

 そういう理屈?そうくる?

「お医者さんがそういったんですか?」

「自分もともとそういうのじゃなくて。タランチュラとか食べないじゃないですか、だから」

「お医者さんがタランチュラ食べて、それで免疫力下がったっていったの?」


「早宮弁護士、お待たせしました!」

「は、はいっ」

 タランチュラの被害申告に聞き耳を立てていたところに、取調担当の警察官から不意に声をかけられた。

「そこの通路からエレベータで2階です」

「ありがとうございます」

 いけない、今から接見なのに、頭の中がタランチュラでいっぱい…。話の落ちが気になる…


 アクリル板で隔てられた接見室の、真ん中の椅子に座ると、間髪入れず左手のドアが開いた。今日逮捕されたばかりの人がアクリル板の向こう側に入室した。

「はじめまして。私は弁護士の早宮ひかりといいます。当番弁護ということで、弁護士会から派遣されてきました」

「あ、ありがとうございます。お忙しいところ…」

「あ、どうぞどうぞ、おかけになってください。えと、お名前が横田満さんで、生年月日が1981年8月31日で、合ってますか?」

「はい、そうです」

「そしたら、まず、忘れないうちに、大事なこと2つご説明しますね」

「は、はい」

「まず、黙秘権。取調べにあたって、質問に答えたくないときは答えないでOKです。黙ってたからと言って、不利な扱いを受けることはありません」

「わかりました」

「2つ目です。取調べで、横田さんがお話しした内容を、パソコンで、調書という書類にまとめて、それに、署名と指印求められることがあると思うんです。で、これ拒否しても構わないっていう規定が法律にしっかり書かれています。なので、ご自分の認識と違うこと、話していないことが書かれているときは、一切署名、指印押さないでくださいね」

「あ、もうそれやっちゃいました」

「内容的にはどんな調書でした?学歴とか親族構成とかの身上経歴についてものものと…」

「それ1通作りました」

「あと、今回逮捕された事件の内容…」

「それもさっき作りました」

「あ、そうなんですね。ではとりあえず事件の内容ですけど、えーと犯罪収益の移転防止に関する法律違反ということなので…んー、誰かの通帳を受け取るとか、通帳を誰かにあげるとかしました?」

「あ、それですそれです」

 それからしばらく事件内容を聴取する。

 うーん、前科前歴なしで、そこまで悪質そうな案件ではないけれど…

「検察官っていますよね。警察の上の、裁判を担当する人」

「はい」

「その、検察官のところにはいつ行くっていってました?」

「明日だそうです」

「わかりました。もし、検察官が、あなたを釈放するんではなくて、勾留、つまり10日間身柄拘束するっていう決定をしたら、あなたには国選弁護人がつけられます。横田さんが希望するなら、その際に私を国選弁護人にしてくださいって手続きとっておきましょうか?」

「はい、ぜひお願いします」

「では、明日釈放されることを祈ってますが、もし勾留されたら引き続きよろしくお願いしますね」


 面会室を出てエレベータに乗る。

 あーお腹空いた…これ、本当にお腹空いたら、タランチュラでも食べる気になるのかしら。でも、あのビジュアルだと、肢とかのトゲが口の中に刺さるんじゃないかしら…

 エレベータを降りて受付を通り過ぎ、警察署から出ると、左の方から1人の男性が話しかけてきた。

「あの、すみません、弁護士の方ですか」

 タ、タランチュラ…

「ん、違います」

 努めて平静を装って私は彼の横を通りすぎた。

 幸い、彼から追いかけられることもなく、すぐに池袋行のバスに乗り込むことができて、ほっとした。

 

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