ドメスティック・バイオレンスと、私

西田彩花

第1話

 あの頃の私は、何かが麻痺していたのだろうか。それとも、正常だったのだろうか。浩己君の愛は、今でも私の中で生きている。


 大学生の頃だった。小学生の頃から学校生活がとても苦手で、いつも一人でいた。一人で平気そうな顔をしている生徒も見たことがあるけれど、私はそうではない。あのキラキラした集団に憧れ、ずっと眺めていた。だけど、もしかしたら、そんな私も「一人で平気そうな顔をしている」ように見えたのかもしれない。


 学校生活が充実していると感じられなかった私は、外に救いを求めた。中学生の頃、街中で男の子に声をかけられたのがきっかけだ。その男の子は当時高校生で、随分大人びて見えた。彼氏という存在は、学校生活でぽっかりと空いた穴を埋めてくれるようだった。それからは、誰かと付き合っては別れて、そんな生活を繰り返した。


 大学でも学校生活に馴染めなかった私は、相変わらず外に救いを求めていた。彼–浩己君–との出会いはバイト先だ。コンビニで品出しをしていた私に、声をかけてくれた人。そこの常連客だった。屈託ない笑顔が可愛い人。


「凪沙さん」


 彼は私よりもひと回りほど歳上だが、私のことをそう呼ぶ。出会った頃に敬称を取ってと何度か頼んだが、結局最後まで「凪沙さん」のままだった。


 彼は今までの男と違った。最初の頃は、特別優しい人なんだと思っていた。だから、いつも通りすぐ別れるだろう、とも。だけど、彼は父のような人だった。悪いことをしたとき、父のように、殴ったり蹴ったりする。そして泣いて謝る私を優しく抱きしめる。「凪沙さんのためにやってるんだよ」「愛してるよ」と。


 あるときひどくお腹を蹴られ、ホテルで吐いてしまったことがある。私は悪い子だと自分を責めた。だけど、彼は怒らなかった。見える場所だと他の人に心配されるからと、主に首から下の部位を殴ったり蹴ったりされた。誤って顔に痣ができたときは、しばらく彼の家に泊めてもらった。


 最初の頃は痛みを感じていた。だけど、次第に痛みが分からなくなっていった。涙を流さなくなった私に、彼はひどく落胆しているようだった。痛みを感じなければと焦燥感に駆られていたが、彼は新しい方法を見つけてくれた。鼻をつまみ、口を塞ぐ。酸素が入らなくなる状態は、苦しい。長い時間続くと、意識が朦朧として目の前に無数の光が見えた。そこから先は快感が襲ってくるのだけれど、そこに至るまでは何度やっても苦しさを感じた。涙も出るし、自分が泡を吹いているのが分かったこともある。たまに失禁すると、彼はひどくお腹を殴った。


 私は毎日彼にスマホを見せなければならなかった。彼は独占欲が強く、他の人と交流してほしくないようだ。私は男友達の電話番号を全て消した。女友達も、限られた人しか連絡を取ることを許可されなかった。


 社会人になってから、会社でやたら声をかけてくる男性に出会った。彼と話していたら浩己君に怒られる。そう思って避けていたけれど、あるとき魔が差した。私が笑顔で会話し始めると、その男性は私を食事に誘った。私は彼氏がいることを告げず、その誘いに乗った。父を思い出した。何度も不倫して母を泣かせていた父。私は父によく似たのかもしれない。


 会社の男性と食事に行った日、そのままホテルに行った。彼は私の体にある痣を見て驚いたようだ。「誰かに暴力でも振るわれてるの?」「警察に行った方が良いんじゃない?」。浩己君との秘密は守らなくてはならなかったので、「これは内緒にしてね」と言い、そのまま情事に及んだ。殴る、蹴る、窒息。これがないと物足りないような気がした。


 浩己君にはスマホを見せなければならない。会社の男性の連絡先は消した。だけど、これがとてもスリリングな面白さに感じてしまったのだ。私は浩己君に黙って、何人かとの男と交わった。そうか、私も浮気性だったのか。


 あるとき出会った男は、私の痣を見てひどく狼狽している様子だった。どんな男も、情事に及べばそれで良いのだと思っていた。痣も黙認してくれるものだと。だけど、彼は私を見て泣いた。ねぇ、私のことそんなに知ってるの?何で知りもしない私の痣を見て泣くの?結局彼は私を抱かず、一晩中私を抱きしめていた。「俺が助けてやる」。そう言った。彼は、昌孝という名だ。


 浩己君と2人でいるとき、昌孝から電話がかかってきた。連絡先は消してあるものの、浩己君が訝しがらないわけがない。私は黙ってスマホを渡した。浩己君は、昌孝に対して紳士的な対応をしていた。「ええ、どうやら家庭に問題があるようで」「今僕が家族から隔離しているので」「心配しなくても大丈夫です」。


 電話を切った後、物凄い形相で私を見た。「何で男から電話がかかってくる?」「何で痣を見せた?」。私は強い恐怖心を覚え、逃げ出そうとした。だけど、逃げられるわけがない。なすがままに、殴られ、蹴られた。ライターで腕を炙られ、私は叫んだ。何度も何度も、痛みの感覚が襲ってきた。痛みの感覚は、麻痺していなかったようだ。


 何時間殴られたのか分からない。浩己君は呼吸を荒げたまま、私から立ち去っていった。


「ねぇお願い捨てないで!!」

「お前が裏切ったんだろ」

「ごめんなさい、本当にごめんなさい」

「浮気したら終わりに決まってるだろ」

「もうしないから、許して、捨てないで、もっと殴って」


 私の声が虚しく響くだけだった。浩己君はしばらく別の部屋に行き、私は泣きながら彼が出てくるのを待った。ドアの音がしたとき、許してくれたのだと期待した。だけど、私は家から投げ捨てられただけだった。鍵の閉まった扉を叩きながら、ずっと泣いていた。近隣の住人が好奇の目を向けていると気づいても、やめられなかった。


 結局浩己君は出てこなかった。着歴にあった昌孝の電話番号を押した。昌孝の声がする。


「大丈夫?さっきの男が言ってたのって本当?凪沙ちゃん、DVされてるんじゃない?」


 …DV。私はDVを受けていたのだろうか。私は浩己君の愛をしっかりと感じていた。だけど、もう浩己君はこっちを向いてくれない。


「うん、大丈夫。今から会いたいな」


 精一杯泣かないようにした。浩己君の穴を埋めなければ。誰でも良いから、早く。


 昌孝と待ち合わせたのは5駅ほど離れた場所だ。ベンチでボーッと座っていると、昌孝が私の名前を呼んだ。昌孝はとても私のことを心配していた。トイレの鏡で何度も確認したはずなのに。


 昌孝の車に乗ると、人工的で不快な香りがした。彼は私を抱き寄せた。腕が触れたとき、思わず悲鳴が出た。彼が袖を捲ると、赤い腫れが無数にあった。浩己君の、証。


 気づいたときには病院にいた。医師から何を聞かれても、私は答えなかった。昌孝が何か説明しているようだが、全て的外れだ。それを否定する気にもなれなかった。


 手当てを受けた後、精神内科を紹介された。紹介状を受け取ったが、絶対に行かないと心に誓った。


 昌孝は優しかった。私を決して殴らなかったし、蹴らなかった。殴るようせがんでも、それは愛の形じゃないと拒否された。何人か、他の男にも頼んでみた。だけど、殴ってくれる人はどこにもいなかった。浩己君は電話番号を変えたようだ。浩己君から連絡が来ることもない。誰も殴ってくれないのなら、この人でも良いかなと思った。ずっと側にいてくれた昌孝と、交際することにした。


 数年交際を続け、入籍した。昌孝の愛は、殴ることではない。それは重々分かった。


 だけど。ときどき懐かしくなる。あの痛みが。浩己君の愛が。


 昌孝を裏切ることはない。彼が私を裏切らない限り。だけど、懐かしくて堪らないのだ。「ドメスティック・バイオレンス」。その単語で検索すると、いろいろな情報が出てきた。「被虐趣味」。その単語に目が止まった。DVがきっかけで、被虐趣味に偏る人も存在するらしい。カテゴライズするならば、私もそれにあたるのか。


 ボーッとネットサーフィンをしていたある日、「仔猫と、僕」というブログを見つけた。そこには、私の写真が載っていた。私が殴られ、半裸でぐったりしている写真。「たまたま見つけた野良猫も、やっと従順になってきた」「猫というタイトルがそぐわないかもしれない(笑)」。私は彼に、飼いならされていたのかもしれない。


 最新のブログは、私が捨てられた日だ。「従順なペットが牙を剥いた」「僕にはふさわしくないペットだった」「新しくペットを探さなくては」。


 彼は今、新しいペットを見つけているのだろうか。そこに私が入ることは、ない。だけど確かに、浩己君の愛は、今でも私の中で生きている。昌孝には言えない。だけど多分、永遠なんだ。

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