第3話

男が現れてから一年と半年が過ぎた。


晶は毎日のように朝食(世間では昼食の時間帯ではあるが)をとり、ランニングをさせられていた。

いつの間にか目のクマは消え、肌には赤みがさし、艶がでた。

ランニングの成果も芳しく、最初は一キロ足らずで這々の体だったのが、今では五キロ程度なら軽くこなせる体になっていた。

「悪魔」が現れてからというもの、晶は一年半後に死のうというのに確実に健康で強靭な体になっていた。

体が健康になっていくにつれ、晶は死にたいと考えることが少なくなっていた。

格別生きたいと思うこともなかったのだが。


男の「是正」は多岐に及んだ。

運動と食事の健康管理から始まり、運動を終えた後はテーブルマナーや古典文学などの教養を教え込まれた。

時には、ギターの手解きまで行われた。


「なんか、こうしてると学生だった頃思い出すわ。生活に時間割があるみてー。」


晶はギターを玩びながら呟いた。


「時間割はありますよ。三年の間にどれだけ貴方の魂を磨けるかが私の腕の見せどころですし、それには計画性がなければいけません。」


男はキッチンに立ち、手元で何かを結んでいた。


「もうすぐライブがあるのでしょう?

お弁当を持って行きなさい。」


男は晶にタッパーを布で包んだものを渡した。


「弁当?!なんでわざわざそんなの……。」


「貴方は私が管理しない時間帯、どうやら不健康なものばかり食べているようですので。」


「いや、飲みとか付き合いもあるじゃんか。」


「お弁当を食べておけば、不健康な摂取を減らすことはできるでしょう。」


「……はぁ。ありがたくいただきます。」


「よろしい。棄てたら分かりますので、そのおつもりで。」


晶はまじまじと男を見つめた。


「マジで母親みたいっすね、アンタ。」


男は不器用な笑みを浮かべた。




キャパシティが五十人程度のライブハウスの中は熱気に包まれていた。

晶達が出るのは複数のロックバンドが出るイベントだ。

どのバンドも無名に近いが、それぞれにコアなファンがついている。

目当てのバンドが出れば、そのバンドのファンは我れ先にと最前列に詰めかける。

楽器の轟音と客の嬌声はハウス全体を揺らしていた。


出番前の晶は、楽屋の隅に腰掛け、男に渡されたタッパーを開いていた。

中にはプチトマトにレタス、唐揚げ、ウインナーにおにぎりがぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。

晶はくすりと笑った。


「遠足かよ。」


突然晶の背後からにゅうっと手が伸びてくるやいなや、唐揚げをひとつかっさらっていった。

驚き振り返ると、髪をピンクに染めた青年が立っていた。黒のライダースにボロボロのジーンズ。派手なシルバーのアクセサリーをいくつもぶら下げた彼は晶をバンド活動に巻き込んだ張本人であった。


「翔也。勝手に人の飯取ってんじゃねーよ。」


翔也と呼ばれた彼はまだ形の大きそうな唐揚げをごくんと飲み込み、へらへらと笑った。


「カタイこと言うなって!彼女のお手製か?美味いじゃん、コレ。」


晶は男の能面のような顔を思い出し、苦々しい顔をした。


「彼女なんかいねーよ。」


「え、じゃあお前ワザワザ自分で?!似合わねー!」


晶は目の前で大笑いしている友人に対して、本当のことを言う気にはなれなかった。

しかし、「手作り弁当をライブに持参するバンドマン」というレッテルも納得いかなかった。


「……親戚の兄さんが来てんだよ。うちに泊めるかわりに飯作ってくれてんだけど、健康が心配だからって弁当まで作ってくれたんだよ。」


「ほーん……。確かに最近お前顔色いいもんな。」


翔也は晶の言うことを信じていないニヤニヤ笑いを浮かべている。


「顔色、いいか?」


晶は自分の頬を撫でる。


「顔色どころじゃねぇよ。ライブも涼しい顔してこなすようになってっし。作ってくる曲や詩も、なんつーの?段違いに良くなってんだよ。」


翔也は大きく手を振りながら主張する。

オーバーな動作に晶は困惑した。


「そんなに変わったか?確かに体力はついたような気はするけど。」


「お前が自分で気付いてねーだけだよ。

それにさ、お前が変わってから、うちの動員確実に増えてるからな。この後ステージから見てみろよ。自覚ねーならビックリすんぜ。」


晶の背中をバシンと叩くと、翔也は楽屋を出ていった。


何を大袈裟な。


晶は残りの弁当を食べながら思っていた。


動員もなにも、他のバンドが主に集客してて、うちなんて毎回五人程度が最前列にいるだけだ。

うちがやってる時は他のバンドのファンが、うちのファンと一列ほど隙間を空けてたむろしている。

曲なんて聴いているのかいないのかも分かったもんじゃない。

「最前列争い」どころか、最前列が埋まったところさえ見たことがない。


翔也はいつも大袈裟だ。

学生時代だって、世の中の可愛い子全員彼女にする!だの、マンソンみたいな孤高のカリスマになる!だの。

翔也の顔は確かに良いし、実際可愛い彼女を取っ替え引っ替えしていた。独特の雰囲気を持っていて、バンドを始める前からファンもいたようだ。

けれど、毎回その規模は翔也の言葉の何十倍も小さいもののように思えた。


気がつけばタッパーの中は空になっていた。




なんだ、これ?


ステージに上がった晶は驚いていた。

埋まっている。

最前列が、人で溢れている。

それどころか、フロアの真ん中辺りまで、少しでも晶達に近付こうと人がぎゅうぎゅうに詰まっている。

晶はさっき食べたタッパーの中身を連想していた。


「お前ら、準備出来てんだろーなぁ?!」


翔也の掛け声一つに人の塊が大きく躍動する。

足元の方を見れば、晶に向かって大きく手を振ったり、指でハートを作ってアピールしている女の子までいる。

背後からドラムのカウントが聞こえ、晶は我に返り、ギターを握りしめた。

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