第2話

どうしてこんなことになったんだ。


晶は走っていた。

その速度は早歩きと変わらない程度なのに、晶は身体中から滝のように汗を滴らせていた。

雲ひとつない空から降り注ぐ日差しが容赦なく晶の生白い肌を焼いていく。

太陽公園。

皮肉にもそう名付けられたこの自然公園は季節に応じた様々な花が美しい場所だ。

広い芝生には親子連れやカップルがピクニックを楽しむ様子が見られ、公園中を通る舗装された道は格好のランニングコースになっていた。

晶よりもふた回りは上の男性達が、談笑しながら軽快に晶の横を走り去っていく。

普段運動をしない晶は、ほんの五十メートルほど走っただけで足がもつれ、肺に新しい空気を送り込むことが困難になっていた。

ひゅうひゅうと息継ぎにもならない空気が漏れている。

朦朧とする頭の片隅には今朝の出来事が浮かんでいた。



晶はバーでバイトし、朝方に帰宅する。

バイトがない日はそれがバンドの練習に変わるだけで、毎日朝から夕方に至るまで眠りこけている。

今朝もそのはずだった。

晶は家に帰るなりギターを置くと、服も着替えずにベッドに潜り込んだ。

すぐに意識が薄れていった。

眠りについたのも束の間、突然瞼に眩い光が差し込まれた。


「眩しっ……。カーテン閉めてなかったっけ……?」


眉間に皺を寄せ、頭上のカーテンに向かって手を伸ばした。

しかしその手首を強い力で掴まれ、ベッドから引きずり出された。


「いだだだっ!!何?!」


痛みの方へ視線を向けると、昨日の男が無表情に立っていた。


「朝ですよ。起きなさい。」


男は手を離すと、キッチンに向かった。


晶は赤く腫れた手首をさすりながら、ぼんやりと男を眺めていた。


「俺、夕方からしか用事ねーから朝に起きなくてもいいんだけど。

それにさ、常識とかさ、あるじゃん。もうやってること強盗じゃん。」


八畳ほどのワンルーム片隅、男は何か作業をしている。

晶の方には振り返りもしない。


「私はヒトではありませんので。常識などと仰られても困りますね。

それに、人間の好む金品には興味ありませんし、そんなものこの家には無いでしょう?」


晶は頭を掻いた。


「確かにねーな、金品。」


自分のことながら情けない。


「いつまでもベッドに座ってないで、早く顔を洗ってきなさい。あまりグズグズしてると捻りますよ。」


「捻るってどこをだよ?!」


晶は赤い手首を見て溜息をつき、渋々洗面台に向かった。

冷たい水が幾分晶の意識を覚醒させる。

鏡に映った晶の顔は、寝不足で大きなクマができていた。


部屋に戻ると、部屋の中央に置かれたローテーブルの上に朝食が用意されていた。

コーヒーにトースト、ヨーグルト。

ベーコンと目玉焼きにサラダまでついている。


「これは?」


「見て分かりませんか?朝食です。」


男の分はコーヒーだけのようだ。

ほかほかと湯気の立つコーヒーを啜っている。


「早く食べなさい。食べたら太陽公園に行きますよ。」


「公園?あんなとこでピクニックでもすんの?」


「ランニングです。無論貴方が。」


「俺かよ?!なんでランニング?!嫌なんだけど。」


男は晶を一瞥した。


「貴方は向こう三年私の言うことに従う契約です。どうせ死ぬのなら安らかに死にたいでしょう?」


「死ぬためにランニングとか、意味わかんねぇよ。」


晶は席に着くと、パンを齧った。


「健全な精神は健全な肉体に宿る、という言葉を聞いたことは?魂も然りですよ。」


「とりあえず、その言葉はしらねぇっすわ。

あ、いただきますね。」


晶は飢えているかのように朝食をかきこんだ。


「貴方に素養を求めた私が愚かでした。」


その後、食事を終えた晶に有無を言わせず着替えを促し、公園まで引っ張り現在に至るのだった。



走った距離が一キロを越えたところで晶は膝をついた。


「俺の、ハァ、この、ハァ、流され、やすい性、格、ハァ、どうにか、ハァ、しねぇと、なぁ」


男は真っ黒な日傘をさしてベンチに座っていたが、おもむろに肩で息をする晶の方に近づいた。


「脆い人間だとは思っていましたが、想像以上ですね。これから全て是正します。

さ、帰りますよ。」


男は晶の首根っこを捕まえて引きずっていく。

晶には抵抗するだけの気力も体力も失われていた。


公園には晶の引き摺られた足の跡だけが虚しく残っていた。

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