最終章 ショウシツ
十二月十二日 ??時??分
――夢を見ていた。昔の夢だ。
最近ではすっかり見なくなっていた、あの頃の夢。
小学四年の頃にちょっとした切っ掛けから苛められるようになった、あの時の記憶。
その頃の僕は、特に何も考えないで日々を過ごしていた。
ゲームは好きだったけど、それ以外の事に何も興味を持てなかった僕は、友達を積極的に作る様な事はしなかった。
意図的に孤立したりはしないけど、特別に仲の良い人間がクラスに居ない。そんな小学生時代を過ごしていた。
そんなある日。給食係だった僕は、皆の楽しみにしていたカレーを運んでいる時に廊下で転んでしまった。結果、カレーは無残にも廊下にぶちまけられる事に。
当然、クラスメイトからは非難轟々。先生は庇ってくれたけど、味方になる友達も居なかった僕はしばらくその事で非難を受け続けた。
その後も、ドッチボールで球を取れなかったり、クラスでやる合唱が上手く歌えなかったり――そんな些細な失敗でも僕は責め立てられるようになった。
最初は「なにやってんだよ」と言われるくらいだった。
それが次第に手を出されるようになり、蹴られるようになり――僕だけ意図的に輪から外されるようになった。
それだけならまだ良かった。
最初から友達を作る気もあまりなかったので、友達が居ない事には何の苦痛も感じなかった。
だけど更にエスカレートしたクラスメイト達は、僕の上靴を隠したり、教科書をゴミ箱に捨てる様になっていった。
それらの行為は、無視されるよりも断然辛かった。
上靴が無いと教師に怒られるし、教科書が破れていると親に怒られる。
何もしていないのに非難されると言うのは、僕にとっては何よりも辛い事だった。
だから、僕は逃げ出した。
イジメで服が破れてしまったある日、親に説教をされるのが嫌だった僕は、家に帰らずに済む方法を探して逃げていた。
子供の行動範囲なんてたかが知れている。
そんなに遠くに行ける筈なんて無いのに、とにかく遠くに逃げようとして、普段通らない道を通りつつ誰も知らない場所に行こうとしていた。
意図的に狭い道を通ったりしていたから、体感的にはかなり遠くまで来たつもりでいた。だけど実際に辿りついたその場所は、家からもそれほど離れていない位置にある神社の中だった。
後にその神社に頻繁に通うようになるなんて、当時の僕は考えもしなかった。
当時はその場所の存在すら知らなかったので、神秘的な場所に辿りついたと子供ながらにワクワクしていた。
そうして目を輝かせて神社を物色する僕を、後ろから呼び止める声があった。
「キミ、どうしたんだい? こんなところで」
驚きのあまり、僕の体は飛び跳ねた。
突然話しかけられた事実と、その正体が両親なのではないかという恐怖でビクビクしながら後ろを振り返った。
そこに居たのは怒りの感情を顔面に張り付けた両親では無く、見た事のない物腰の柔らかい初老の男性だった。
その人こそが御室神社の神主にして今の僕の恩人、湯布院さんだ。
問い掛けに対して嘘をつく知恵なんて無かった当時の僕は、「お母さんから逃げたくて」と正直に言ってしまう。
結果的には、それが功を奏して湯布院さんに悩みを聞いてもらう事が出来た。
僕が一通り事情を話した後、湯布院さんは白髪交じりの頭を掻きながら「それは困ったねぇ」と言ってくれた。そして、僕の悩みに対して答えを出してくれる。
「イジメを無くすというのはね。凄く難しい事なんだ。いくつもの問題を解決しないと、イジメは無くなってくれない。だからキミにはせめて、心構えを教えてあげよう。イジメを無くすのではなく、イジメに耐えるための心構えを――」
湯布院さんが教えてくれた心構えは、三つ。
一つ、絶対に謝ってはいけない。僕は何も悪い事をしていないのだから、イジメに対してごめんなさいは言わない様にするという事。
二つ、「痛い」と「やめて」は言わないようにする。イジメている側にしてみれば、反応が返ってこないと面白くないのでそれ以上エスカレートしないで済むらしい。
三つ、なるべく笑顔でいる事。
三つ目だけが他の二つと毛色が違ったので、それを聞いた僕は面食らってしまった。
すると、その様子を見た湯布院さんはこう言ってくれた。
「笑顔でいると、物事が楽しく感じるんだ。上靴を隠されても、それを探すゲームをしていると思えば楽しくなるだろ? 自分たちがした事を楽しまれていると知ったら、相手ももう同じ事はしないんじゃないかな。仮にそれでイジメが無くならなくても、常に楽しむ心があれば大抵の事は乗り越えられるはずさ」
その言葉に、衝撃が走った。
僕の中に、そんな考えは全くなかった。
イジメを楽しむなんて、端から見れば異常でしかないだろう。でも湯布院さんは、それを実行すればイジメに耐えられると言う。
なんてすごい人なんだ、と思った。
真面目に相談に乗ってくれた大人が初めてだった事も相まって、当時の僕には湯布院さんが本当に神様か何かに見えた。
神様が言う事なら間違いはないだろう。次の日から、湯布院さんに言われた事は全て実行に移した。
その日から、逃げ出したいほど辛かったイジメに対して、少し前向きに挑んでいけるようになった。
もちろんあの心構えだけでイジメを乗り越えたわけじゃない。その後の湯布院さんの「辛い時はいつでもここに来ていいからね」の言葉が、何よりも心の支えになった。
それからクラス替えまでを何とか乗り切り、イジメが無くなった後も「どうすれば世間ズレしない行動が出来るか」を必死に考えて行動するようになった。
周りに合わせて、普通の行動をしていれば苛められる事は無い。
今となっては当たり前の事だけど、そんな大切な事に気付く事が出来た。
そんな、小学校の思い出の話。
昔はよく夢に見たけど、今になってこの夢を見る事になったのはどうしてだろう。
段々と思考が鈍ってきた。
そろそろ、夢の時間は終わりという事らしい。
……
目を覚ますと、僕は暗がりの中に居た。
日が落ちていたというのもあるけれど、何故か明りの届かない場所に居たらしく、周囲は完全に闇に包まれていた。
「ここは……? ……そうだ。御室神社に逃げ込んで、それで……」
昔の夢を見たせいで意識が混同している。それでも、少しずつ意識が覚醒していくのに合わせて段々今の状況を把握できるようになってきた。
父親から勘当を叩きつけられた後、僕は湯布院さんを頼りに御室神社までやってきた。
残念ながら、神社には誰も居なかった。
買い物にでも出かけていたのかもしれない。勝手に上り込むのも失礼かと思ったけど、他に逃げる場所なんて思いつかなかったので、悪いと思いながらも本殿の軒下に潜り込んで身を潜める事にした。
最初は周囲を警戒してキョロキョロしていたけれど、時間が経つにつれ寝不足と歩き続けた疲労でどんどん眠たくなってきた。
猛烈な眠気に逆らえず、僕は軒下でそのまま眠ってしまったという事らしい。
「いたた……とりあえず、一旦外の様子を見ないと……」
変な体勢で、しかも地べたで寝ていたせいで体のあちこちが痛かった。
でも、目が覚めたからにはまず状況の把握をしなきゃいけない。
そう考えて軒下からずりずりと這い出て顔を上げると、視界に初老の男性の後ろ姿が飛び込んできた。
「うわっ!」
「……真崎君か。よく眠れたかい?」
驚いて声を上げてしまった。相手が警察だったら、そこで捕まって終わりだ。
でも幸運な事に、そこに居たのは湯布院さんだった。
「あ、湯布院さん……ごめんなさい、勝手に入り込んで」
驚いて心臓がバクバク言っている僕とは対照的に、湯布院さんは優しい笑顔で話しかけてくれる。
「いいんだよ別に。買い物から戻ってきたら軒下から寝息が聞こえてきてね。猫か何かかと思って覗き込んだら、真崎君が居たから驚いたよ。でも、気持ち良さそうに寝ていたから起こさないでおいたんだ」
「そうだったんですか……ありがとうございます」
事情も聞かずにそのまま匿ってくれるなんて、やっぱり湯布院さんは優しい人だ。お世話になりっぱなしで本当に申し訳ない。
「あ、そうだ! 湯布院さん、この辺りをパトカーが通ってなかったですか?」
僕はそこで状況の確認のための質問を湯布院さんに投げかける。
まずはそれを確認しておかないと。そしてあわよくば湯布院さんに事情を話して本殿の中にでも匿ってもらおう。
そんな意図を孕んだ質問だったが、湯布院さんの反応は芳しくなかった。
「……何故、パトカーが通ったかなんて訊くんだい?」
いつもと違って暗い声色だったけど、僕は焦りもあってその事に気が付く事が出来なかった。
「いえ、その。細かい事は言えないんですが、今僕は警察に追われていて、それで――」
「――警察に追われている、だと?」
今度は、完全に怒気を孕んだ声だった。普段は絶対に見る事の無い湯布院さんの怒りの感情を目の当たりにして、僕は怯んでしまう。
湯布院さんはそんな僕の胸倉を掴んで、そのまま後ろに投げ飛ばしてきた。
「痛っ! え、なん……」
「警察など冗談じゃない! 奴らは神聖なこの神社に敬意を示すことも無く、己のルールに従って捜査と嘯いて土足で上がり込んでくる様な連中だぞ! そんな奴らを、キミはここに上げると言うのか!? ふざけるな!」
「湯布院、さん? どうして――」
「ええい黙れ黙れ! 早くここから出て行け! キミが居ると警察が来るんだろう!? あんな連中には一歩たりともこの神聖な神社に足を踏み入れさせたくないんだ! 分かったらさっさと……出て行けぇ!」
何も言い返せなかった。湯布院さんの初めて見る姿に圧倒されて、全く口が動いてくれなかった。
湯布院さんがこんな事言う筈が無い。でも、目の前にいる湯布院さんは実際にこうして僕を追い出そうとしている。なんなんだこれは。僕はまだ夢を見ているのだろうか。でもさっき投げ飛ばされた時は普通に痛かった。じゃあこれは現実なのか? 一体、どうしてこんな事になっているんだ?
混乱の渦中にいる僕に、湯布院さんが歩み寄る。
「出て行く気が無いなら……無理やりにでも出て行ってもらおう」
湯布院さんは、動けずに固まっている僕の襟首を掴み、無理やりに引きずって行く。
引きずられながらも僕は現実逃避を続けた。湯布院さんはこんな事しない。湯布院さんはこんな人じゃない。湯布院さんは――
僕はただただ現実逃避をしながら、引きずられて神社の鳥居の下まで連れてこられた。
「じゃあな、真崎君。毎日君の相手をするのは、正直面倒だったよ」
その最後の捨て台詞で、僕は絶望の淵に叩き落された。
「そんな、湯布い――あ、ぐ……ぎゃっ!」
だけどそんな現実に絶望する暇も無く、僕は神社の入り口の石段に突き飛ばされた。
僕の体は無抵抗に投げ出され、石段の上を転がり落ちていく。
転がっている間は頭をなんとか庇うのが精一杯だった。それほど長い階段では無かったけど、まるで何百段も転がっていた様な気分だった。
一番下まで石段を転がり落ちて、アスファルトの上に投げ出される。
体のあちこちに激痛が走った。もしかしてどこかの骨がイカれているかもしれない。
でも体の痛みなんてどうでもよかった。湯布院さんに拒絶された衝撃が大きすぎて、そんな事は気にならなかった。
「ゆ、湯布院さん……」
ここまでされても、僕はまだ湯布院さんの事を信じ続けていた。どんなに傷つけられても、小さい頃に出会った僕の神様を疑う事なんて出来なかった。
無理やり立ち上がり、もう一度階段を上ろうとする。
いきなり神社から転がってきた人間が、立ち上がってもう一度階段を上ろうとしているその光景は端から見れば相当異様な物だっただろう。
でも僕にはそんな周囲の評価なんてどうでも良かった。今はただ、湯布院さんにもう一度会いたくて、会ってその真意を確かめたくて、それ以外の事は考えられなかった。
――だから、あれ程気にしていたパトカーの音が近づいていた事にも全く気が付かなかった。
「そこまでだ、真崎定理!」
男の声が響いた。自分の名前を呼ばれればどんな状態でもさすがに気付く。
ゆっくりと振り返ると、複数の警察が僕を取り囲んでいるのが目に入った。
「随分とボロボロだな。何があったのかは知らんが、そんな姿で逃げ切れるとは思うなよ」
警官の中で一際前に出た男が、僕に語りかける。その男には見覚えがあった。二回も会っているし、一回目はまさにこの場所で会っている。確か、神狩とかいう刑事だ。
「一瀬彩女の伏兵がまだ居た事には驚いたが……流石にもう何も手が残っていないようだな。さぁ、今すぐにお前の携帯を見せろ。その結果、問題ないと判断すればお前には何もしない」
そう言って神狩が僕に近づいてくる。僕の携帯に何かあると確信した言い方だ。
周囲を見渡す。右も左も警官に囲まれていて、逃げ出す隙なんてどこにもなかった。
後方には神社へ続く階段があるけれど、こんなボロボロの体でこいつらよりも早く階段を駆け上がれる自信なんてない。
つまり、状況は完全に詰んでいた。
「……わかりました」
ポケットから携帯を取り出す。
この状況で逃げられるなんて思っていない。
警察なんかの言いなりになるのは癪だったけど、ここは素直に言う事を聞いておいた方が良い。
――普通に考えれば、それはそうなんだろう。
「……どうした? 早くそれを渡せ」
携帯を握りしめたまま止まった僕に、神狩が催促の言葉をかけてくる。
でも、残念ながら僕の決意はとっくの前に固まっていた。
「確か、神狩刑事ですよね? ここで一度僕と会ってる事、覚えてますか?」
「ああ、覚えている。あの時は妙な疑いをかけて済まなかった――と本来なら謝罪するべきなのだろうがな。結果的に間違いでは無かったと今は確信しているよ」
「そうですか。あの時は僕は本当に何もしていなかったんですよ。あんな風に、何の関係も無い一般市民を傷つけるのがあなたたちの仕事なんですよね。大した正義感ですね」
全力で嫌味を込めてそう言った。
お前のしてる事は正義でも何でもない。僕のしている事が間違っている筈が無い。
――僕が、僕だけが。この世界の――正義だ。
「――っ! 何をしている!」
慣れた手つきで携帯を開いた僕に反応して、神狩が掴みかかってくる。
でも残念。メール画面を開いて未送信のメールを送信するだけなら一秒もかからない。
送信ボタンを押してから、数瞬遅れて神狩が僕の腕を捻り上げた。
痛みで思わず携帯を取りこぼしてしまったけど、ここまで来れば僕の勝ちだ。
そう、僕は御室神社に隠れる前に予め次のルールを作成して保存していた。警察から逃れる為だけの、それだけを考えた絶対のルールだ。
余計な条件を付けずにシンプルに、そして最大の効力を発揮するルールを。
『真崎定理に逆らう者は、死ななければならない』
これが、僕が今送信したルール。
友人を無くして、帰る場所を無くして追い詰められた僕が考えた、自分が助かる為だけのルール。
もうごちゃごちゃ考えるのはやめだ。
――僕に逆らうやつは、死ね。
最後に、落とした携帯電話に目をやる。
特に意味は無い。何となくだ。
それなのになぜかそこに表示されていた日付と時間が、妙に目に焼き付いた。
――十二月十三日 午前零時一分。
その後すぐに耳鳴りが鳴り響く。
気が高ぶっているからだろうか。その耳鳴りは普段よりもやけに大きく聞こえた。
大きく、甲高く、そして長く。
「――いっ!! 痛っ、痛い痛い痛い!!」
「暴れるな! 大人しくしろ!」
いつもよりも激しい耳の痛みに、思わず暴れ出す僕を神狩が必死に抑えてきた。
耳鳴りの音量が徐々に大きくなっていく。それだけじゃない。今までは一、二秒で鳴りやんでいた耳鳴りの音が、消えずにずっと鳴り響いている。
「が、ギ、ぎゃあああああああああっ!!」
「おい、どうした! しっかり――」
トン。
そんな小さな音が、耳の中で聞こえた気がした。
その瞬間から、神狩の声が急に聞こえなくなった。
周りの警官が駆けつけてくる。その足音も、何も聞こえない。
そいつらが神狩に向かって何かを喋っている。それも、何も聞こえない。
痛みに悶える自分の声も、全く聞こえない。
自分が声を出しているのかどうかも分からない。
なんだこれ。なんだ。なんなんだ。
自分の声が聞こえないのが不思議で、ひたすら大声を出し続けた。
それでも、僕は自分の声も、周りの音も聞き取る事が出来なかった。
……
――その日から、僕の世界から音が消失した。
警察に担ぎ込まれた病院のベッドで、神狩が不思議そうな顔で僕を覗き込んでいる。
それから紙とペンを取り出して、筆談で僕に対して取り調べを始めた。
聞かれた事に筆談で正直に答えていく。
それに抵抗する気力はもう、僕の中から完全に消えていた。
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