第十五章 ユウジョウ  ―真崎 定理―



 十二月十日 午後五時


 ルールを新しくしてからしばらく経った。今の所ルールを破っている人間はどこにもいないし、自殺者も初日よりは少なくなったとはいえ順調に増えていた。この時点で、今のルールには確かな手応えを感じていた。

 ――そう、昨日までは確かにそう思っていた。

 僕は今、目の前で信じられない光景を目撃している。


「離せ! どうせ俺はおかしくなっちまったんだ! もっと殺さないと気が済まねぇ!」


「このっ! 暴れるな! 抵抗しても無駄だ!」


 僕の視界の先に居るのは、ナイフを持って暴れる大男と、それを抑え付ける警官の姿。通常ならこの光景にそこまでの違和感を覚えないだろう。日常風景ではないけれど、有事の際にはこんな事も起こり得る。

 でも、僕はその光景が到底信じられなかった。こんな事は起こる筈が無い。なぜなら僕が傍にいる限り、ここはルールの有効範囲内だからだ。

 警官が取り押さえているのは、暴力には入らないだろう。むしろそれを諌める為の行為だし、傷付けないで取り押さえる方法は警官なら熟知している筈だ。

 大男がそれに抵抗して暴れていても、誰かを傷つけていないならルールに抵触はしていない。いないのだが、そもそもなぜこの男が取り押さえられているのか。そこが問題だ。


「道を開けてください! 怪我人を搬送しています!」


「いたい……いたいよ……」


 警官の捕り物劇から目を離して目線を横に向けると、血を流して倒れた女の人を運ぶ救急隊員の姿が目に入る。

 そう、あの大男が突然暴れだして、ナイフで切りつけた相手――つまり被害者だ。

 それも一人じゃない。無差別にナイフで暴れていたため、怪我人の数は十三人にも上っていた。大男は最後に僕の方にも向かってきていたが、僕が切りつけられる前に警察が駆けつけてくれて、僕自身は切り付けられずに済んだ。


 ――いったい、なにがどうなっているんだろう。

 改めてルールを確認してみても、『治療が必要になる程の怪我を意図的に負わせた者』と間違いなく書いている。ナイフを振り回しておいて「怪我をするとは思わなかった」なんて事は無いだろう。「殺さないと気が済まない」なんて言っているくらいだ。

 もちろん「殺人を犯した者」とも書いている。間違いない、このルールが適用されている状態であの男が暴れられるわけがないんだ。


 そんな事をしたら自殺しなきゃならないんだから。

 自殺なんて誰もしたくない。それならルールに縛られて動けない筈だ。

 わけじゃああるまいし。


 ――いや、待てよ。自殺をしなきゃならないのが前提なら、最初から自殺をするつもりの人間には、この縛りは効かないという事なのか。

 あの男は「どうせおかしくなった」と言っていた。多分、ルールの有効範囲に入った事で発生した自殺衝動の事を言っているんじゃないだろうか。

 何故か分からないけど死ななきゃならない、それなら自分の思いのままに暴れよう。

 そういう考えだったら、あの男の行動にも納得できる。


「――くそっ」


 僕は小さい声で毒づいてから、元来た道を戻って家に帰る事にした。尾行には一応警戒して、不自然にならない様にゆっくりと歩いて家まで帰った。


 ……


「どうすればいい……自殺じゃダメなら、なにをすれば……」


 自室の机でノートを広げて必死に考える。

 自殺でダメなら、自首とかだろうか。いや、それでも同じだ。自首する前に暴れてやる、とか考えられたら何も変わらない。

 自殺に白自首にしろ、自分で行動させるルールじゃダメって事だ。

 自分じゃ、ダメなら――自分じゃなくて、他人に行動させればいいのか?


「――これだ」


 思いついたルールを携帯に打ち込んでいく。内容はこうだ。


『外出する際は護身用の武器を持ち歩かなければならない。また、以下にあげる条件のいずれかを満たした者を目撃者全員で袋叩きにする事。①他者に対して、治療が必要になる程の怪我を意図的に負わせた者、及び殺人を犯した者。②他人の財産を不当に盗み出した者』


 ルールの適用条件は前のルールのままだが、執行内容を変えた。

 自分で行動するからその前に暴れるなどの思考が出来るんだ。周囲から攻撃されるなら、そこにタイムラグは発生しない。即座に私刑リンチが開始される。これでさっきの様な現象は起こらないってわけだ。


 僕はメールを送信し、しっかりと耳鳴りが鳴ったのを確認してから再び外に出た。この時点で時間は夜七時を回っていたが、夜の外出への躊躇よりも、ルールの効果を早々に確認したいという気持ちの方が強かったのだ。

 民家の近くを積極的に通りながら、耳を澄ませて歩いて行く。

 これだけで、上手くいけばルールの確認が出来るはずだ。問題はこの時間に外に出る人をたまたま目撃できるかどうかだ。


 しばらく歩いた所で、タイミング良く一軒家から出て行こうとするサラリーマンの姿を目撃する。玄関で誰かと話していたので、歩く速度を意図的に遅くして聞き耳を立てた。


「なあ、護身用の武器が無いんだが」


「あら、おかしいわね。なんで無いのかしら」


「まあいいや。傘でも持っていくか」


 サラリーマンと、その奥さんらしき人が物騒な会話をしていた。でも、これは全くおかしな会話では無い。ルールの有効範囲に居る限りは、この会話が日常風景という事になっているからだ。

 この会話が聞きたかった。暴力にしろ殺人にしろ、私刑の執行対象の人間なんて今からパトロールをしてすぐに目撃出来るような物では無い。

 だからルールが有効になっているかの確認は、こういう会話を聞くか、実際に武器を持ち歩いている人を目撃するのが一番早いのだ。


 でも、ルールが有効になっているからと言って油断はできない。僕自身が歩き回って、なるべく多くの人間を有効範囲に収めなければ意味は無いんだ。

 自分の次の行動を再確認した僕は、気が収まるまでパトロールを続ける事にした。

 しかし、結論から言うとその先僕の気が収まる事は無かった。

 その理由はパトロールを再開して一時間後の出来事が関係している。


 一時間のパトロールを経て、そろそろあまり通らない道でも通って行こうかと考えていた時、以前にも通った事のある飲み屋街の路地裏を発見した。

 前にルールを無視した人間が居たのもここだし、タイミングも良かったので何となく近づいた時、奥の方から激しい打撃音と雄叫びが聞こえてきた。

 ――明らかに尋常じゃない事態が起こっている。

 僕は以前にボコボコにされた経験を生かして、なるべくばれない様に隠れて覗いてみる事にした。すると、そこでは二人の男が殴り合いの喧嘩をしていた。


「なんで……」


 驚きすぎて、声が出てしまう。折角隠れていたのに台無しだ。だけど、その時の僕はそんな事を考えられない程に驚いていた。

 喧嘩をしていた二人の男は、直ぐに僕の声に気が付いてこちらを振り返った。


「やべっ! 見られたぞ!」


「待てバカ! ……お兄ちゃん、俺らは何もしてないんだ。こいつが酔っぱらって転んで、それを支えようとしたら足がもつれて二人とも転んだだけなんだ。喧嘩とかそんなんじゃない。いいね?」


 喧嘩していた二人のうちの一人が、そんな事を言いながら僕に詰め寄ってきた。どう考えても、誤魔化そうとしている。誤魔化してこの場を逃れようとしている。

 でも僕は今携帯を握っているわけじゃないし、この場で手を出されたらルールを作る前に殴られてしまう。また入院するのだけは御免だ。ここは従順な振りをしてやりすごそう。

 僕はなるべく怯えた振りをして、「……わかりました」と一言だけ言った。


「それならいいんだ。オラ、行くぞ!」


「偉そうにすんな。ったく」


 僕の返事に満足したのか、二人は険悪な様子を隠そうともせずにその場を離れて行った。

 ――なんだったんだ今のは。

 今度の言い訳は幼稚だとかそんなレベルじゃない。あんなものでこのルールは破れるものなのだろうか。

 いや、違う。今のは目撃者が僕一人だったから通用したんだ。目撃者が一人だけなら、ルール通りに襲いかかっても二人に返り討ちにされるだけだ。目撃者が居ない場所でルールを犯せば、制裁する相手も居ない。そういう事か。

 このルールもダメだった。いいルールを閃いたと思って作ってみても、誰かが必ずルールを無視した行動をする。

 こんなの、もうどうしようも無いじゃないか。


「……どうしろって言うんだよ、もう」


 今までに無い無力感と脱力感を感じて、僕はそのまま家に帰る事にした。もうパトロールを続ける意味もないし、何より疲れた。

 この段階で僕の思考は完全に行き詰ってしまっていた。

 自分で動かせるのも他人が動くのもダメだっていうなら――犯罪者を制裁する方法なんて無いじゃないか。


 家に帰ると、リビングの食卓に晩飯が用意されていたので、とりあえず平らげる。両親の姿は無かった。もう寝たのだろうか。

 そんなどうでもいい事を考えながら、ゆっくりとした足取りで部屋に戻る。

 作戦ノートを改めて確認しても、どこにも突破口が見つからない。ここまで来て新しいアイディアなんて早々浮かぶものか。


 もう今日は諦めて寝てしまおうか。

 そう考えた時、相原から電話がかかってきた。無視しようかとも考えたけど、相原には尾行の事を教えてもらった借りがあるので、素直に出てやることにした。


「テーリ、話があるんだ。今から外に出られないか?」


「今からってお前……」


 壁にかけてある時計を確認する。時刻はもう夜の十時を回っていた。こんな時間に連絡してくる様なヤツだっただろうか。

 いずれにしろ今日はもう一歩も動く気になれないし、断っておこう。


「こんな時間から出るわけないだろ。何言ってるんだ」


「こんな時間だよ、テーリ。この時間なら、普段のテーリは外に出ない。そう思われているからこそ、今なら尾行を撒ける」


「尾行を撒く……? そんな事が出来るのか?」


 尾行を撒ける、と言うのは魅力的な提案だった。ここしばらく、尾行をされているというプレッシャーだけでストレスが半端じゃなかった。そんな日々から僕を解放してくれると言うなら、ここで相原の言う事を聞いておくのもいいだろう。


「……わかった。どうすればいい?」


「じゃあ、今から俺の言うとおりに動いてくれ。なるべく家族にも見つからないようにな」


 そんな前置きを入れてから、相原は作戦を指示してくれた。



 まず僕は、なるべく黒い服装で全身を固めた。そして、家の正面玄関の裏側に位置する窓から、音を立てない様にこっそりと抜け出す。警察が容疑者を尾行する際、余程の事が無い限りは基本的に正面玄関側に張っている事が多いからだそうだ。


 そして自宅の塀を登って、慎重に周囲を確認する。すると、すぐ近くまで来ていた相原を見つけた。物陰に隠れて、こっちに来いと手招きで指示してくる。

 ゆっくりと慎重に、なるべく死角が多くなる位置を移動して、相原と合流した。


「この辺りは誰も居ない事を確認した。ここからはもう普通に歩いた方が目立たないだろうから、普通に付いてきてくれ」


「わかった」


 相原がなんとも頼もしい。それもその筈、こいつは元々こういう隠密行動はお手の物なのだ。

 なにせちょっと危ない所にもスクープを求めて駆け回るような奴だ。最後の詰めは甘かったとはいえ、ヤクザの取引を写真に収める事に成功した実績は伊達じゃない。

 大人しく後ろをついてき、夜の街を徘徊する。普通に歩いている様に見えるけど、多分歩くルートを工夫しているんだろう。相原は僕を連れて、人が多い繁華街を中心に一時間ほど歩いて行った。


「……ここだ」


 そう言って相原が立ち止まった先には、誰も居ない廃ビルがあった。

 入り口には何重にも立ち入り禁止のテープが張り巡らされており、割れた窓にも鉄格子が嵌められている。その場所は、ここ最近自殺の名所と化した場所だった。

 僕はこの場所を知っている。なぜなら、何度もここに入って自殺者を見守っていた事があるからだ。

 尾行の事を知ってから近づかない様にはしていたけど、僕にとっては犯罪の証拠の様な場所だ。こんな場所に、相原は何の用があるって言うんだ。


「こんな所で……どうするんだよ?」


 僕は焦りを隠せずにいた。この場所を指定してきたと言う事は、もしかして僕のやってきた事を知っているのだろうか。どこまで知っているのか。ルールの事までバレては居ないだろうか。

 最大限に警戒する僕に対し、相原はこっちを向かずにポツリと言う。


「屋上に用があるんだ」


 相原はそれだけ言ってビルの裏側に回り、鉄格子の外れた窓から中に侵入した。入る場所すら最初から分かっていたかの様な動きだ。

 僕は何も言えずに、後から付いていく事にした。何を考えているか読めない相原に対して、警戒だけは緩めないまま。

 そしてついに屋上に辿りつくと、相原は穴だらけの落下防止用フェンスに寄りかかって、僕の方に振り返った。


「テーリ、なんか懐かしいよな。少し前までこうやって二人で色んな所に言ったもんだ。最近は特に連れなくなったから、今日は本当に久しぶりだ」


 遠い目をしながら話す相原の顔は、僕の事をまるで見ていなかった。どこを見ているんだ、相原。お前は一体、何を話そうとしている。


「夜に出歩いた事も一度だけあったけど、あの時はテーリ本当に眠そうだったもんなぁ。こんなに夜更かししない高校生はテーリくらいだろうぜ、まったく。俺なんて毎日一時まで起きてるっていうのにな?」


 相原は昔話を続ける。何なのだ、一体。そんな話をするためにこんな所まで連れて来たのか。


「それでも、嫌々ながら何度も付き合ってくれた事は本当に嬉しかったんだぜ、テーリ。取材先で酷い目に遭っても、毒付きながらもまだ友達でいてくれた事が。蛇の群れに襲われた時なんて、フツーなら縁を切られてもおかしくないくらいだった。中学の頃はそんな風に、どんどん人が離れて行ったよ」


 そこまで言って、ようやく相原は僕の方を見た。その目は、悲しんでいる様にも、怯えている様にも見えた。少なくとも僕は、こんな相原の顔は見た事無かった。


「俺はさ、正義のジャーナリストを目指してるんだ。悪人の不祥事をバンバン暴いていく様な存在が俺の憧れだ。だから、友達が間違った事をしていたら止められる人間でいたい。改めて聞くぞテーリ。お前は一体――何をしてるんだ?」


 僕の目を真っ直ぐ見ながら、相原が問い掛けてきた。その目は決意に満ちていて、いつもの様な適当な誤魔化しなんて通用しそうになかった。

 でも、だからと言って正直に答えるわけにはいかない。こいつは間違いなく、何かに気付いている。

 本当の事なんて言えるはずもないし、誤魔化しも効かない。

 ――じゃあ、もう仕方ないか。



「相原。お前にはガッカリだ」


「テーリ?」


 小さく呟いた僕の言葉を聞き取れなかったのか、相原が聞き返す。


「ついさっきまでは信じてたよ相原。この廃ビルに来る前は、お前は僕のために行動してくれているんだと思い込んでた。でも、ダメだ。こんなあからさまな場所まで連れてきて、そんな事を聞くような奴は――もうダメだ」


「テーリ、おい。何言ってるんだよ……俺は、ただ……」


「黙れ、もう遅い」


 僕の右手は、ポケットの中で開かれた携帯を握っていて。起動したメール画面にはもう次のルールを打ち終わっていた。


『人の秘密を知ろうとする者は、自殺しなければならない』


 ――送信、完了。耳鳴りが鳴り、ルールの適用を僕に知らせてくれた。

 その瞬間、相原の表情が劇的に変わる。


「そうか……そうだったのか……あの時のヤクザが急に豹変したのは、こういう事だったんだな……」


 青ざめながら何かを言う相原。『死ななければならない』という感情が急に芽生えた事にかなり動揺しているらしい。

 その言葉から察するに、やはり僕があのヤクザを追い込んだ事には気が付いていたわけだ。油断のならない奴め。

 焦点の定まらない目でフラフラしている相原だったが、なかなか自殺を実行に移そうとはしなかった。一丁前に葛藤でもしているのだろうか。

 自分で動き出せないなら、後押ししてやるよ。あの時のヤクザと同じように。


「相原、お前何してんだよ」


「テーリ……。俺は、お前の事を――」



 相原が何か言う前に、決定的な一言をお見舞いする。



「早く死ねよ。クズが。お前はもう友達でも何でもない」


「――――っ!!」


 その瞬間、自分を必死に抑え付けていた相原の心の支えが崩れ去る。

 絶望的な表情になった相原は、フェンスをよじ登って反対側に降り立った。後一歩を踏み出すだけでここから落下して死ぬ事が出来る。

 相原はそこで再び躊躇した様に少し立ち止まっていたが、こちらを振り返り、何かを言った後にそのまま後ろに倒れ込むように落ちて行った。

 その時の相原の言葉は、何故か僕の心に深く突き刺さった。



「ごめんな、テーリ。助けてやれなくて」

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