第八章 ケッカン ―真崎 定理―
九月十五日 午前七時三十分
今日は朝から気分が悪い。そりゃあ、目の前で人が死んで気分が悪くならない奴は居ないだろう。だけど、僕はそれとは別の理由も相まって最悪の気分になっていた。
理由その1。僕の隣には今、相原が寝ている。昨日はとある事情でこいつと同じ部屋で寝ることになったのだが、目を覚ますとこいつの足が僕の腹の上に乗っていたのだ。
あんな事件があったせいで僕はふざけた気分になんてなれないのだけど、こいつの寝相にはそんな事は関係ないらしい。
僕はため息をついてからその足をどけて、ゆっくりと起き上がった。
周りを見渡すと、見知らぬ光景が広がっている。というか昨日見ているから全く知らないというわけじゃないんだけど、とにかく普段の朝とは全く違う光景を見ている。それが気分が悪い理由その2だ。
理由その2。ここが、彩女の家だって事だ。
……。
ちょっとまって欲しい。
確かに「女性の家に上がっている」という表現からは、なにか特別な印象を抱くかもしれない。
そんな人のために説明しよう。彩女の家は、超が付く程の金持ちなのだ。
今僕達が居るこの部屋も、彩女のお母さんに「急だったからこんな部屋しか無くて……」とか言われた割に広すぎるし、家具やら何やらから高級感が漂いまくっていて全然落ち着かない。「自分の家だと思って寛いでいって」の台詞がこれほど似合わない部屋も珍しいだろう。
そんな部屋の、しかもこれまた高級そうなベッドの上で目が覚めた状況じゃあ、落ち着けと言われても無理だ。昨日は色々ありすぎて何も考えられなかったけど、一晩寝て少し冷静さを取り戻すと改めてこの状況が異常だという事に気が付いた。
とりあえず相原でも起こそうかと思い、肩を揺すろうとした瞬間、部屋のドアが勢い良く開いた。
「おっはよう定理君! 昨夜はよく眠れたかな? 何!? 相原君が中々寝かせてくれなかった!? あ、それは失礼しました。今からでも続きをご堪能ください」
「いや、そんなわけないだろ! 話を何段階飛躍させる気だ!」
本当に気を使った風に部屋を出て行こうとした彩女を、僕はツッコミで静止した。
「にゃはは、相変わらずツッコミが冴えてるねぇ定理君。その分なら、少しは元気も戻ったのかな?」
「まぁ……少しは、ね」
これは嘘だ。はっきり言って僕は昨日の出来事をまだ引きずっている。
なにせ、昨日僕は自殺の現場を目撃したんだ。
ニュースで「人が死んだ」と報道されるよりも、更に生々しい形で僕は死を目の当たりにした。しかも、そこまで追い詰めた原因は僕にあるんだ。あの後彩女に助けられなければ、僕と相原は朝まであの港で呆然としていたかもしれない。
そういえば、彩女はなんであんな所に居たんだろう?
気になったので聞いてみることにした。
「そういえば、彩女はなんであんな所に居たんだ? しかも、親御さんと一緒に」
「……ちょっとお父さんが仕事の関係で、あの辺の視察をしてたの。なんか久しぶりに外に出たくなった私がわがままで乗せてもらって、ついでに定理君まで発見しちゃったってわけ」
なんだか返答に間があったような気がする。まぁ、僕は人の心情を読めるようなスキルは無いので、気のせいだと言う事で片付けた。
そう、僕達はあの後、近くを偶然通りかかったらしい車に救助された。それが彩女のお父さんの車だったのだけど……こんな偶然もあるもんだな。
なんだか彩女には小さい頃から助けられっ放しだ。そういう意味も込めて、もう一度ちゃんと礼を言っておく事にした。
「ありがとう、彩女」
「いえいえどういたしまして。定理君が困った時はいつでも助けたげるよ。まっかせなさい!」
なんというか、本当に頼もしい奴だ。
そんなやり取りをしているうちに目を覚ましていたらしい相原が、開口一番とんでもない事を言い出した。
「なんか、ラブラブって感じだなテーリ」
「んなっ!?」
「えええ!?」
僕と彩女のリアクションは同時だった。
「な、何言ってんだ相原! 僕らは決してそういうアレではなくて――」
「そうだよ相原君! 滅多な事言うもんじゃないよ!? 口は災いの元だよ!?」
「言い訳まで息が合ってるし……、これは怪しい。『あの根暗系男子、真崎定理に熱愛発覚!? お相手はなんとお金持ちのお嬢様!』ってとこか」
相原はなにやらメモを取りながら不審な事を言っていた。
「何スクープみたいに言ってんだよ! 頼むから妙な噂を立てるなよ!?」
――っていうかそもそも根暗系ってなんだコラ。
「私からもお願いだよ! 本っ当にやめて!」
彩女が手を合わせながら相原に懇願する。いや、なんかそこまで嫌がられるとそれはそれで傷つくんだけど……ってお互い様か。
「そのお願い。聞いてもいいけど、一つお願いがあります一瀬サン」
「な、何? えっちな事はだめ、だよ?」
この状況でその冗談は寒いぞ彩女。
白い目で彩女を見る僕に対し、「そんな事言いませんて」と軽く流した相原は、居住まいを正してからこう言った。
「朝ごはんをください」
「…………」
「…………」
確かに、腹が減ったな。だけど相原よ。そのために今の流れが必要だったと言うのならお前を恨むぞ。少しは振り回された方の身にもなってくれ。
「そ、そうだね! そろそろ朝ごはんにしようか!」
場を繕う様に努めて明るく言った彩女の言葉を皮切りに、朝の一騒動は終結した。
後になって気が付いたけど、僕の気は随分楽になっていた。もしかしたらこの二人は、僕に気を使ってふざけた態度をとっていたのかもしれない。改めて友人の大切さを噛み締めた瞬間だった。
その後僕達は、彩女の家で高そうな食事を頂いてから学校へ向かった。僕達の親には連絡が行ってるらしく、とりあえずその日は平日だったのでそのまま学校へ向かう事になったのだ。
彩女は学校が違うので途中で分かれたが、別れ際に見せた寂しそうな顔が印象的だった。
なぜ彩女はあんな顔をしていたのか、僕には分からない。
相原が彩女の表情に気づいていたのかは分からないけど、その後の話題は初めて食べた豪華な朝食の話で持ちきりだったので、彩女のその表情については考えるのも忘れてしまっていた。
そして学校に着き、いつもの様に授業を受けた。僕は授業を真面目に聞かないでゲームの事を考えるのが日課になっていたので、授業となるとつい他の事を考えてしまうので困っていた。それは最悪な事に、昨日の凄惨な光景を思い出してしまう結果になったからだ。
でも、散々落ち込んだ後に気が付いた事がある。僕が助かるために作ったルールは、『人間は暴力を振るってはいけない』というものだ。
――このルールは、案外良い物なんじゃないか?
世界に存在する「絶対に悪い事だと主張できるような行為」を考えたとして、真っ先に思いつくのはやはり暴力だ。窃盗とか詐欺とか色々な犯罪はあるけど、僕の知る限り一番重い罪も殺人だと思う。殺人は、暴力行為が無ければ成り立たない。それなら、暴力を禁止した世界ってのは、結構良い物になるんじゃないだろうか。
それなら、このルールでしばらく様子を見てみるのも悪くない。上手くいけば最終的なルールもこのままでいいかもしれない。
そう考えたまではいいが、やはり昨日の出来事は頭から離れなかった。もしかしたら結局このルールでまた他の人間も殺してしまう事になるのではないか、とか余計な事を考えてしまう。
その結果、僕は放課後にパトロールをすることに決めた。パトロールと言っても、行ける範囲で街の人達の様子を見回るだけだ。それでも、この罪悪感を払拭するためにはちょうど良い気休めにだった。
放課後になり、相変わらずの相原が(あんな事があって変わらないのも凄い神経だと思う)僕に怪しい誘いを持ちかけてきたけど、それを突き放して僕は一人街に繰り出した。
最初は、商店街を見て回った。最初から暴力に何の関係も無さそうな所を選ぶあたり、僕はかなりの臆病者だと思う。人もそれなりに多くて色んな人間を見れたけど、当然ながらおかしな様子の人は居なかった。僕は少し安心して、普段行かないようなところも見回る事にした。オフィス街だとか、居酒屋がたくさん並んでいる所とか、とにかく見境無く見回った。
見たところ異常は無し。途中ガラの悪い奴等を何人か見たけど、特に絡まれたりはしなかった。
その後夜までパトロールを続けても、特に街中で事件は起こらなかった。まぁ、そんな毎日事件が起こるような物騒な街でもないから偶然って事もあるだろうけど。
納得がいくまでパトロールを続けて、ようやく家に帰ろうと決心した頃には、もう辺りはすっかり暗くなっていた。神経を張りすぎて疲れた体を引きずって家に帰ると、案の定母親に小言を言われた。
「定理、こんな時間までどこほっつき歩いてたの! 門限くらい守りなさい! それに、昨日泊まったって言う一瀬さんにしっかりお礼は言ったの!? いきなり押し掛けるなんて迷惑でしょう! 大体アンタはいつも――」
うるさい。僕は自分が殺されるかもしれない状況で必死に頑張ってるのに、この母親はどうでもいい事をグチグチと言いやがる。
そんな事を考えながら適当に小言を聞き流していると、リビングから父親が顔を出した。
この男に限って母親を止めに来たというわけでもないだろうが、何の用だ?
「定理、お前まさかまた神社に行ったのか」
そんな一言が、父親の口から発せられた。
おい、冗談じゃないぞ。母親の小言は、百歩譲って僕を心配しての物だと考えてもいい。
でも、こいつの言葉はどうなんだ? どこに息子を心配する様子が見てとれるっていうんだ? あるものはただ、自分の意地を通したいだけの自己満足じゃないか。
――僕の中で、何かが切れる音がした。
「うるさいなぁ」
――僕はもう、我慢の限界だった。
「え?」
「定理、今なんと言った?」
二人とも驚いた顔をしている。僕が直接的に反抗する事はおそらくこれが初めてだからだろう。
丁度いい、この際全部ぶちまけてやる。
「うるさいって言ったんだよ! なんなんだよアンタら! 息子の事なんて考えないで自分の都合ばっかり押し付けて! 僕がどんな目に遭っているかも知らないくせに! もう放っといてくれよ!!」
「えっ……?」
「…………」
二人ともすっかり黙ってしまった。母親はまだ何か言いたい様子だったけど、呆気に取られて言葉が返せないみたいだ。一方、父親のリアクションは普通じゃなかった。
同じ黙っているにしても、この男の表情は「呆れて物も言えない」という感情が前面に出ていたのだ。事実呆れていたようで、父親はため息をついてからリビングに引き返して行った。
「……ちっ! もういい!!」
僕はそのリアクションが更に気に食わなかったので、聞こえるように舌打ちをしてから母親を押しのけ、自分の部屋に上がっていった。
そしてその日を境に、僕は家の中で腫れ物扱いされる事になった。
父親が話さないのはいつもの事なのでどうでもいいけど、母親の小言が無くなったのは僕にしてみればかなり良い事だった。何か話しかけるのでも慎重に言葉を選んでいる様子だし、正直に言うと少し気分が良かった。別に母親と会話する必要なんてないし、学校に行けば相原と喋っているので特に不自由はしなかった。
もう一つ、その日から変わったことがあった。
空いている時間を利用して、パトロールを行なうのが僕の日課になったのだ。いつか何か起こるんじゃないかと思うと、居ても立っても居られなかった。「案外良いルールじゃないか」なんて考えても、今までの経験からどうしても事件が起こってないか心配になってしまうのだ。
幸い親は口うるさくなくなったので、気の済むまで街を徘徊出来たのだけど、しかしこの気の済むまでと言うのが曲者で、この不安を取り除くにはいくら歩き回っても足りなかった。
しかも二回目のパトロールを行なったのは土曜日だったので、「夜遅くなったからもう帰ろう」という区切りが無いために一日中街を歩き回っていた。当然足は疲れ切っていたけど、次の日曜日も構わずパトロールを続けた。
そして日曜日の夜、運動とは無縁の生活をしていた僕の足はついに限界を向かえ、両足が同時につるという最悪な事態に見舞われた。どうもこういうのは気を緩めた瞬間に来るみたいだ。次の日は祝日だったので休みだったけど、さすがに大事をとってパトロールはしなかった。その間も僕は不安で押しつぶされそうになり、次の日は学校が終わったら絶対にパトロールをしようと心に誓った。
そうして平日も学校が終わってから毎日パトロールを敢行する事になり、そろそろ誘いを断り続けてきた相原にも怪しまれてきたんじゃないかという頃、僕は事件に遭遇した。
日付にして九月二十六日。あの港での出来事から十一日が経過した日の事だ。
その日はいつもの様に学校が終わってからパトロールをしていたのだけど、いつも最後の方に回している居酒屋が並んでいる通りを歩いていた時、裏路地の方から女の人の悲鳴が聞こえてきた。
助けを求めるような声だったが、周りを見回しても僕以外に人は居なかった。警察に通報しても到着まで時間がかかるだろう。これなら僕が行くしかないじゃないか。
そもそもこのパトロールの目的は、ルールによって被害を被った人がいない事を確認する事だ。ならば見に行く以外の選択肢は無い。
大丈夫、万が一の事があってもルールによって暴力だけは振るえない筈だ。
そう考えて、僕は悲鳴が聞こえた方に近づいていった。最初は少しだけ顔を覗かせて様子を伺ってみた。すると、とんでもない光景が目に飛び込んできた。
「いやぁ! やめてください! どうしてこんな事をするんですか!」
「うるせぇ! 大人しくしろ! 脱がせにくいじゃねぇか!」
柄の悪い男が、女の人に乱暴を働いていたのだ。
おかしい……ルールは間違いなく適用されているのに。
それともこれは暴力じゃないって事か? 本人が「暴力を振るっている」という自覚が無ければ適用されないという事なんだろうか?
――それなら、自覚させてやるまでだ。
僕は隠れていた壁から飛び出して、その男に向かって叫んだ。
「やめろ! 暴力を振るうなんて、それでも人間か!」
言ってから、少し強気に出すぎてしまったかと後悔したが、それでも問題は無い。前例通りならこれであいつは手を止めるはずだ。その後は、また自殺なんてされないように慎重に説得すればいい。
しかし、男からは意外な言葉が返ってきた。
「ああ!? うるせぇ! 俺はもう人間なんてやめてるんだよ! 邪魔すんじゃねぇこのガキ!」
そのまま男はこっちに向かってきて、僕を殴り倒した。
受け身も取れずに後ろに吹き飛ばされたので、殴られた顔面と背中が尋常じゃなく痛い。
でも、待て。それどころじゃない。どういう事なんだ。人間をやめてるって、どっから見てもお前は人間じゃないか。
「おらぁ! このクソガキが!」
そんな事を考えてるうちに男は倒れている僕を蹴ってきた。僕には抵抗する隙も力も無く、ただ黙って蹴られてるしかなかった。
そんな折に見えた男の目は、心なしか正気を失っているように見えた。
喩えるなら、そう。
――それは、まるで獣の目だった。
「そこのお前! 何をやっている!」
誰かが通報でもしたんだろうか。警察官が数人駆けつけて来て、あっという間に男を取り押さえた。
「放せぇ!! まだ暴れ足りねぇ! こんなもんじゃ全然足りねぇんだよぉ!!」
男は必死に抵抗した。しかし、いくらなんでも相手が多すぎる。男は体を揺するように動かす事しか出来なかった。
そんな中、手の空いている警官が僕と女の人にそれぞれ話しかけてきた。
「君、大丈夫かい? うわっ! これは酷くやられたね……。今救急車呼ぶから」
そう言って警官は無線を取り出した。
しかし、残念ながら僕の意識は救急車が到着するまで保たず、そこで途切れてしまった。
目を覚ますと、僕は病院のベッドに横たわっていた。少し体を動かすだけで痛みが走り、まともに動かせるのは無意識に庇っていたらしい右腕だけだった。
僕が苦しそうにうめき声を上げると、ベッドの横で僕を看てくれていたらしい看護師が話しかけてきた。
「お目覚めですか? 今先生を呼んできますから、少し待っていて下さいね」
僕は短く「はい」とだけ答えて、病室から出て行く看護師をなんとなく眺めていた。別に他意があったわけでもなく、単に頭がボーっとして何も考えられなかっただけだ。
ドアが閉まる音が聞こえて部屋の中に静寂が訪れると、ぼやけていた頭が少しずつ働き始めた。そしてさっき体験した出来事を思い出す。振るわれた暴力よりも、男の表情よりも、なによりも怖いものが僕にはあった。
――あれは、どういう事だったんだろう?
僕が気にしているのは、あいつにルールが通用しなかった事だ。
あいつは言った。「人間なんてやめている」と。
なんだそりゃ。そんな子供じみた言い訳で覆るようなものなのかこのルールは?
……考えてみれば、前にも似たような事はあった。『朝は喋ってはいけない』の時だ。柴山先生が教室に入ってから、急に皆が解放されたように喋り出した。
あの時は「皆の中ではここまでが朝なんだろう」なんて適当に解釈したけど、良く考えてみればそこで気付くべきだった。それはつまり、ルールは個人の解釈次第でいくらでも破る事が出来るという事じゃないか。
そう言えば先生なんかも、職員室で全く喋らなければ仕事にならないだろう。それならば、例えば「職員会議中は喋ってもいい」とか「仕事に関する事なら大丈夫」とか、そういう理屈をつけて喋っていたはずなんだ。
まさか、ルールにこんな欠陥があったなんて思いもしなかった。
じゃあ、一体どうすればいいんだ? これならば、犯罪を抑制するルールを作ったとしても、犯罪者は自分の解釈で勝手に犯罪を犯してしまうじゃないか。結局犯罪を抑制する事なんて不可能なんじゃないだろうか。
僕は分からなくなってしまった。これからどういうルールを作ればいいのか、どうすればいいのか。
僕が頭を抱えていると、さっきの看護師に呼ばれた医者が病室に入って来た。
「真崎定理くんだよね。僕は君の担当医の
「あ……どうも」
さっきまで考え事をしていたせいで上手く思考がまとまらず、適当な返事しか返せなかった。
「酷い目にあったみたいだね。まずは君の容態だが、幸いにも骨や内臓に異常は無いから安心していいよ。ただ、あちこち打撲や内出血が酷いから、あまり無理は出来ない状態だと理解しておいてくれ。ああ、でもやられたのは主に上半身だから、トイレに行くくらいは普通に出来るよ。それに――」
白久保先生は丁寧に説明してくれた。要するに普通に動き回るのはいいが、少し無理をすると痛みが走るから安静にしておけ、という話らしい。
これから三週間、入院生活との事だ。昔「入院すれば学校行かなくてもいいから楽」とか考えてた事もあるが、今はそんな気分にはとてもなれなかった。
僕が目を伏せていると、白久保先生は「あ、そうそう」と言って話題を切り替えた。
「君と一緒にいた女性に聞いたんだが、とんでもない奴に絡まれたそうじゃないか。しかし君は勇敢にも女性を庇って男に立ち向かったんだとか」
「そんな……。僕なんて、何も……」
「何も出来なかった? そんな事は無い。少なくとも、一緒にいた女性は君のおかげで無傷で済んだよ。自分の身を省みないで人を助けるなんて、そう出来るもんじゃあない」
「そんな事……」
そんな事は――全く無い。
僕は自分が傷つくなんて微塵も思ってなかった。ルールに守られているから大丈夫だと思って、強気になっていたに過ぎない。
ルールの存在が無ければ、僕は絶対にあの女性を助けようとは思わなかっただろう。それどころか、見て見ぬ振りをしたかもしれない。
それに、あれはあの女性を助けようとしたんじゃなく、ルールの効力を実際に見て安心したかっただけだ。安心して日々を送りたかっただけだ。僕は結局、最後まで自分の事しか考えていなかったんだ。褒められるような事は……何もしてない。
「謙虚なのは良い事だ。だが、君の功績は変わらないよ。その女性がお礼をしたいと言っているんだが、ここに入れてもいいかな?」
「ここに、来ているんですか?」
「ああ。君はそれだけの――」
「帰ってもらってください」
僕は、白久保先生の言葉を遮るように言った。
違う。僕は何も良い事なんてしていない。褒められる資格も、お礼を言われる覚えも無いんだ。感謝なんてされて……どんな顔をしたらいいんだよ。
「え?」
白久保先生は信じられないという顔で聞き返してきた。それはそうだろう。どこの世界に助けた女性との面会を断る人間が居るんだ。しかし残念ながらここに居る。
僕はもう聞き返されないように、語調を強くして言った。
「帰ってもらってください。僕には、お礼なんて言われる資格は無いです」
「いや、しかし……、……。君はそれでいいのかい?」
僕の言葉を聞いて医者は少し戸惑ったような顔になったが、すぐに何かを察してくれた様で、僕にもう一度確認した。
「いいんです。もう……いいんですよ」
その言葉を最後に、僕は黙り込んだ。誰とも話したくない気分だったからだ。白久保先生は僕に一言「じゃあ、ちょっと離れるよ」と断ってから踵を返し、一旦病室から出た。ドアの外でなにやら話している声が聞こえる。
なんだか、申し訳ない事をしたかもしれない。でも、僕はこれ以上惨めな気分にはなりたくなかったんだ。
そんな風に僕が塞ぎこんでいると、廊下の方が急に騒がしくなった。
「キミ! そこの患者は――」
「いいんです! 親友です! って、ぅわぁ!」
そんな声と共に勢い良くドアが開いた。ドアを開けた本人は勢いを抑え切れなかったらしく、そのまま前のめりに倒れこんでヘッドスライディングの様なポーズをとっていた。
僕はわけも分からず目を丸くしていたが、その男はすぐに顔を上げ、僕の存在に気付くといつもの軽いノリで挨拶してくれた。
「あ、ようテーリ! なんか暗い顔してんなー、ってそれはいつもの事か」
「あ、相原……お前相変わらず無茶するなぁ」
「ナハハ! 無謀と情報だけが俺の武器だからな!」
「上手くもないし誇れる事でもないだろそれ……」
――相原が来てくれた。落ち込んだ今の状況では、この能天気な男の登場は正直かなり嬉しかった。
相原の後ろからは、相原を引きずり出そうと白久保先生が追ってきていたが、僕と親しそうに話しているのを見ると、そのまま引き返して静かにドアを閉めた。
と、その瞬間に再びドアが開き、また一人病室に駆け込んできた。
「定理君、大丈夫!? 怪我してない!? って怪我したから運ばれてるんだよねそうだよねゴメン! とにかく大丈夫!?」
「彩女……そんなに慌てなくても――」
「なにその姿! 包帯だらけじゃん! 重症っぽい!! 誰だこんな姿にした奴は!!」
「いや、包帯を巻いてくれたのは医者の先生だけどさ……」
次いで彩女まで来てくれた。タイミングがばっちり過ぎて示し合わせたのかと問いたいくらいだったが、今の僕にはただありがたかった。
「ははは、真崎君のご友人は元気がいいねぇ。でも、院内ではもう少し静かに頼むよ」
そんな所で白久保先生が顔を出して僕の友人たちを軽く制した。相原と彩女は小学生みたいに「はーい」なんて言って聞き流していたが、白久保先生は特に気にした様子も無く、
「じゃ、頼んだよ」と言って病室を後にした。
頼んだとは「静かにするように」という事だろうか。それとも「僕を」という意味だろうか。おそらくはその両方だろう。いい先生に担当してもらえたようだ。
「それにしてもお前ら……情報が早すぎないか?」
少し落ち着いたところで、僕は二人に話を切り出した。
「そうでもないよ? 確かにここの院長がお父さんの知り合いで、早めに情報を貰えたっていうのは確かだけど」
「んで、その情報を俺はリークして貰ったってとこだ」
ああ、なるほど。相も変わらず彩女のお父さんが凄すぎたってだけか……ってちょっと待てオイ。今気になる事を言わなかったか?
「……お前ら、お互いの連絡先知ってるの?」
「知ってるよ? っていうか相原君に聞かれたの」
それを聞いて、僕は疑いのまなざしで相原を睨んだ。――何か企んじゃいないだろうなお前、と。
「なんだその目は。やましい事なんて何も無いぞ? ほら、テーリと親しい一瀬さんなら何かおいしい情報が引き出せるんじゃないかと踏んでだな」
「やましさしか無いだろ! やっぱりお前はそういう奴か! なんか真っ先に駆けつけてくれてちょっと感動してしまった僕を帰せ!」
「大丈夫だよ、定理君。私が情報漏えいなんてミスをすると思う?」
彩女がしたり顔で何かを自慢してきた。いや、そういう問題じゃないんだけど。とりあえず僕は率直な感想を述べておいた。
「……『面白そうな事』限定なら、思いっきりしそうだ」
「さっすが定理君大正解!」
彩女が満面の笑みで胸を張った。今のはハズレで良かったんだけど。
「まぁ、この人の要求する報酬がちょっと厳しくて何も聞けてないってのが現状だけどな」
相原が注釈を入れる。喜んでいいのかそれは。っていうか報酬ってなんだよ。その歳でビジネスでもやってるのかお前ら?
「まったく、いい加減にしてくれよお前ら……」
思わずため息がこぼれてしまった。しかし、こんな現状を少し楽しんでいるのも事実ではある。僕はルール作りの一件に巻き込まれてから酷いものばかり見てきた。そんな非日常的な状況に置かれると、こういう瞬間の大切さが身に染みて分かる。
「しかしいじられる事に少しずつ快感を覚えてしまう定理君なのであった」
「覚えてたまるか!」
前言撤回。楽しくない。それどころか大声出しすぎて傷口が少し傷んできた……。
ひとしきりふざけて満足したのか、彩女は「ところで」と言って話を切り替えた。
「定理君、暴漢に襲われてる女の人を助けたって聞いたんだけど……、なんでそんな事したの?」
「ああ、そこは俺も気になってたんだ。お前、どっちかって言うと危ない事はしない主義じゃなかったか?」
彩女の質問に、相原が追い討ちをかける。
それを聞いてくるのか。それはそうだろって話なんだけど、はっきり言って触れて欲しくなかった。さっきまでのやりとりを少しは楽しんでいたつもりだったけど、そんな感情は全部吹き飛んでしまった。
僕は今日、いくつもの理不尽を目の当たりにした。
自分の欲望のためだけに人に暴力を振るう男、絶対だと思ってた【ルール】が通用しなかった事実、その後に繰り広げられた暴力行為は、僕をこんな体にするほどの物だった。
こんな状況で当時の事を思い出させるような言葉は、心の底から聞きたくなかった。
「……やめてくれよ」
思わず本音が口から出る。自分でもわけが分からないのに、これ以上僕を追い詰めないで欲しかった。
「え、どういう意味――」
相原が不安げな表情で聞いてくる。
どういう事かって、そのくらい察してくれよ。
「放っといてくれよ。もう疲れたんだ……」
事情を聞かれても簡単に説明する事も出来ない。ましてや説明なんてしたら神様とやらに殺されるかもしれない。だから何も言う事は出来ないし、もうその話もしたくない。
こいつらに僕の気持ちなんて分からないんだ。
だから、もう――
「……あー、なんかすまん。あんまり触れるべき話じゃなかったみたいだな」
相原が今更僕の心境を察して話を切り上げてくれた。しかし僕は何も答えなかった。いや、何も答えられなかった。
相原は罰が悪そうに黙ってしまい、病室内が急に静かになった。
その静寂に耐え切れなくなったのか、ぎこちない笑顔で彩女が口を開いた。
「あー、相原君、そろそろ私たちお暇しない? 定理君を休ませてあげないと」
「あ、ああ。そうっすね。そうしましょう」
相原もすぐにそれに乗った。
それでいいんだ。これ以上ここに居ても、お前らに出来る事なんて無いんだよ。
「じゃあ、邪魔したなテーリ!」
「定理君、あんまり無理しないようにね」
二人とも無理に明るく振舞おうとしているのが丸分かりだ。僕は「ああ」と短く返事をして、目線だけで二人を見送った。
そうして嵐のような二人が去り、僕に残ったのはこれからどうすればいいのかという葛藤と、妙な後味の悪さだけだった。
ああ、本当にこれからどうしよう。
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