第三章 ジッケン

  

 九月十三日 午後0時


「テーリ! 一緒に! 昼飯! 食っおうぜーい!」


 昼休みになった途端、とんでもないテンションの相原に話しかけられた。


「お前、学食派だろ」


「その辺はぬかりねぇ! どうせ朝は喋れないから、昼休みにテーリと語り合おうと思って、コンビニでパン買って来たから!」


 ばーん、と言いながら相原は惣菜パンを見せてきた。

 ……ん? 今こいつ気になること言わなかったか?


「あれ? お前、なんで朝は喋れないって思ったんだ?」


 ルールは上書きしたはずだ。その時の記憶も無いはずじゃないのか?


「なんでってお前そりゃ…………ありゃ? なんでだっけ?」


 そう言いながら相原は不思議そうに首を捻っていた。

 つまり、こういう事か。記憶が無くなるわけではなく、『なぜか』そんな行動をしたという風な、曖昧な整理の仕方になるわけだ。

 じゃあ僕の『恥ずかしい行動』はどういう風に記憶に残っているのだろう?

 ちょっとつついてみるか。


「そういや確かに朝は誰も喋ってなかったな。思わず僕が独り言を言っちゃうほどに」


「んー……、そこが思い出せないんだよなぁ……。なんで俺は黙ってたんだ? あ、でもだからといってあのボリュームでの独り言はどうかと思うぞ」


「あー、あれはちょっと魔が差してな……」


 さっき女子に聞かれた時と同じ事を言ってしまった。自分のボキャブラリーの貧弱さを思い知らされた瞬間であった。

 でも良かった。僕の行動は「ただ独り言を言っただけ」という認識になっている様だ。それもそれでどうかと思うが。

 僕が安堵のため息をついていると、相原が「あ、そうだ」と言って切り出した。


「おいテーリ、覚えてるか昨日の記事! ジョンの来日!」


「覚えてるけど……それが?」


 そういえば僕はあの記事に違和感を覚えていた。有名人の本名を間違えるという失態をゴシップ記事が犯すのか? などと。あの後色々な事がありすぎて、すっかり忘れていたが……。


「さすがに気づいたと思うけど、あの記事の名前、間違ってたろ?」


「ああ、スタンレイがスタンリーになってたな」


「言ってしまえばアレは、『レ』が『リ』になってたって事だ」


「…………?」


 何を当たり前のことを言っているんだコイツは?


「つまり、五十音順で言うと二個上にずれているわけだ」


「……お前が何を言いたいのか分かってきたぞ」


 ああ、またしょうもない事を始めようとしているな……。


「まぁ最後まで聞けよ。この記事の本文を見るんだ。本文の、各行の最初の文字だけでいい」


 最初の文字、ね。『おせかゆすあ……くごもあけわ……とそやご』だな。いやもう何を言いたいかわかってしまったから試してみよう。二個ずつ上にずれてるんだから、逆に下にずらせば良いわけだ。……『きたくらそうこじゆうさんにちよじ』か。北蔵倉庫って、確かそんな名前の倉庫が港にあったな。今は誰も管理していない倉庫らしいけど……。


「そしてその文字を二個ずらすと――」


「あー、もういいよ分かったから」


「なんですと!? そこは最後まで言わせろよ! 俺が見つけたんだから!」


 これは確かに偶然とは考えにくいだろう。しかし、だから何だと言うのだ。もしかしたら編集者が、あまりにネタが無いものだから記事を使って遊んだだけかもしれないじゃないか。


「じゃあ、今日の四時に北蔵倉庫にジョン=スタンレイが来るとでも言いたいのか?」


「その可能性もある! もしそうでなくとも、ここに行けば何かスクープが転がっているのは間違いないだろ!」


「そう思うなら調べてくればいいじゃないか」


「あれ? 冷たくね? 一緒に行こうぜって事だよテーリ! こんな話に付き合ってくれるのはお前くらいなんだよ!」


「僕も付き合う気は無いよ」


 ――今日は学校が終わってからも、実験を続けなければならないからな。

 その後、案の定しつこく誘ってきた相原に「スクープ写真を一枚でも撮ってきたら今度からは付き合ってやる」という条件を出す事でなんとか引き下がらせた。

 実験は出来るだけ早いほうが良いに決まってる。ルールが適用される条件もわからないまま時間を消費してしまったら、せっかくの三ヶ月間が無意味になってしまうからな。

 悪いな相原。三ヶ月経って、僕が生きてたら……また誘ってくれ。



 ――そして放課後。

 なんだかセンチな事を考えてはみたものの、僕は少しワクワクしていた。

 これから最後の実験を、ここ『カザナミデパート』で行なうわけだが、僕はあろう事か実験を完全にゲームのように楽しみ始めていた。


 ここに来る途中でも色々ルールを試したせいかもしれない。

 それはどれも下らないものだったが、「どんな下らないルールでも適用されるか」を試していたのだ。

 例えば、『外では靴を脱がなければならない』だとか、『石ころを見たら思い切り蹴飛ばさなければならない』とか、挙句の果てには『カツラを被っている人は頭を抑えて歩かなければならない』なんてルールも作った。

 最後のやつは、一人だけやってる人を見た。

 いやぁ、笑った笑った。

 出来れば「カツラがバレバレですよ?」とか話しかけたかったが、さすがに怒られそうなので止めておいた。


 そんな経緯があったから、余計に僕は浮ついてしまっていた。

 ちなみに、最後の実験にこのデパートを使う理由は、この辺りで最も人が集まる場所だからだ。

 周囲には、子供連れで買い物に来ているお母さんも居れば、遊びに来た学生や仕事帰りのサラリーマンまで様々な人で溢れている。

 そしてこのデパートは四階建てで、中央のフロアが吹き抜けになっている。

 僕はその二階部分で、吹き抜けから一階を見下ろす格好で携帯をいじっている状態だ。

 つまりこの場所に居れば、一階から三階くらいまでに居る多種多様な人間を見渡せるというわけだ。


 ここでルールを作るとどうなるか。

 ここに居るのは、価値観も年齢も全く異なる人達なわけだ。それら全てをルールで操れるのなら……もうこの力に疑う余地は無くなる。

 そういった意味で、今回が最後の実験なわけだ。

 最後のルールはもう決まっている。メール作成画面を開き、とりあえずその内容を打ち込んだ。


『成人した者は一日一回、カザナミデパートに「上納油」として、ガソリンまたは灯油を5リットル収めなければならない。収める方法はデパート内側の任意の壁にかける事』


「……なんだこりゃ」


 我ながら呆れてしまう内容だ。しかしこれには立派な意味がある。

 まずは上納油という単語。この存在しない単語を、当たり前のものとして認知させる事が出来るのかという実験だ。

 次にガソリンや灯油を、人の集まった場所にかけるという非常識な行為。これが出来てしまえば、このルールは既存の常識を塗り替えてしまう事が出来るってわけだ。……まず無理だと思うけど。

 あとはついでに「補足説明付きのルールを作る事が出来るか」という実験でもある。


 うん、我ながら実験としては素晴らしいルールだ。

 一応万が一の事を考えて、脱出路も確保してあるから抜かりも無い。


「……このルールが適用されたら、ちょっとした騒ぎになるかもな」


 なんて心にも無い事を呟いて、一呼吸置いてからメールの送信ボタンを押した。


 数瞬後に、耳鳴りが鳴る。


「痛っ! この感覚はまだ慣れないなぁ……。……って、え?」


 おいおい、どういう事だ?

 いや……、どういう事もなにも無いじゃないか……。朝の実験で――ルールが適用されなければ耳鳴りがならない事はもう分かっているはずだ。

 じゃあ、この滅茶苦茶なルールがまさか……、適用されてしまったのか……?

 その時、僕の近くを通った一人の中年が呟いた一言に、僕は驚きを隠せなかった。


「あ、今日の分の上納油忘れてた」


「……!!」


 間違いない……。適用されている!

 その中年はおもむろに出口に向かい、出て行ってしまった。

 このデパートに入る前に確認しておいたが、この建物の隣には(と言っても少し距離は離れているが)ガソリンスタンドがある。

 もしルールが適用されたのだとしたら……、そこに向かった可能性が高い。

 僕はそのガソリンスタンドが見える窓側に移動して、スタンドの方をよく観察した。

 するとやはり、先ほどの中年がスタンドに入るところが見えた。

 いや、でもそれだけではただの偶然で済ますことも出来る。

 僕は悪くない……大丈夫だ。

 と、その時一階の玄関側から何やら声が聞こえた。

 いや、これだけ人が居ればそりゃあ声くらい聞こえて当然なんだが、問題はその内容だった。

 僕の耳がおかしくなっていなければ、今確かに「上納油」と言っていたような。


「ちわー、上納油収めまーす!」


 今度の声ははっきり聞こえた。

 僕はすぐに玄関が見える位置まで移動し、声が聞こえた方を見遣った。


「冗談だろ……?」


 その光景は、異常の一言だった。

 若い男が、腰の曲がったお爺さんが、仕事帰りのオフィスレディが、主婦らしきおばさんが、さっき見た中年男性が……、思い思いの方向へタンクに入ったガソリンをぶちまけていた。


「…………っ! いや、見てる場合じゃないだろ僕!」


 これはまずい。こんな状態が続けば、すぐに一階はガソリンだらけになる。

 僕は早くルールを変えようと、適当なルールを作ってメールを送信した。

 ちなみに内容は『一日一善』。これなら誰にも迷惑はかからないはずだ。


「痛っ……。……よし、これでとりあえず安心…………え?」


 耳鳴りが鳴り、これで最悪の事態にはならないと安心した僕の目に、またも信じられない光景が飛び込んできた。

 ヤンキー風の、頭の悪そうな高校生が一人、煙草を加えながら玄関から入って来たのだ。

 すでにざっと二十人以上の人がガソリンを撒いた後だ。

 そんな所に煙草を加えて入ってきたら……当然……


「あん? なんかこの辺くせーな。……って、うわっ!」


 瞬間、煙草が激しく燃え上がり、それに驚いたヤンキーが煙草を口から放した。

 そして地面に落ちた煙草は、瞬く間にガソリンに引火し、みるみる内に炎が燃え広る。何か行動を起こす間も無く。

 ――辺り一面が火の海に変わった。


「きゃあああああああ!」


「なんだ!? なにが起こった!?」


 玄関近くにいた人たちから悲鳴が上がった。

 パニックになる人達、けたたましく鳴り響く非常ベルの音……。スプリンクラーが作動し、火はさらに加速したように燃え広がる……。こんな……こんな事って……。

 ――全部、僕のせいだ。

 遊び半分で適当なルールを作ったからこんな事になったんだ……。

 僕はその場でしばらく、呆然と考え込んでしまった。

 ――――。

 ――。


「おいガキ、止まってんじゃねぇ! どけっ!」


「痛っ!」


 呆然と突っ立っていると、パニックになって走り回っていた男に突き飛ばされ、僕は床に転んでしまった。

 そして気づいた頃には、避難をしようと駆け出していた集団の足が――もうそこまで迫っていた。


「うわっ!」


 僕は頭を抱えて丸くなり、少しでも自分を守ろうとした。

 その間に次々と通り過ぎていく足、足、足――。

 蹴られては転がされ、手足を踏まれたりもした。

「ごめん」と言っていた人も居たけど、許すとか許さないとかそんな状況じゃなかった。

 そして――その集団が通り過ぎてから、僕はゆっくりと起き上がった。


「いててて……」


 体のあちこちが痛かったけど、特に大きな怪我はしなかったらしい。手も足も、ちゃんと動く。

 正直かなり驚いたが、おかげで目が覚めた。

 ――僕も早く、逃げなくては。

 あらかじめ逃走手段は確保してある。

 僕が目をつけたのは、意外に見落としやすいトイレの窓だ。

 窓から逃げようとすると一気に炎が噴き出す、とテレビで見たことがあるが、それはあくまで近くまで火が迫っていたらの話だ。

 この大きいデパートで、火元が玄関付近なら、さすがに反対側のトイレはまだ無事だ。

 非常口に誘導する店員を無視して、僕は男子トイレに向かった。よし、やっぱり誰も居ない。

 そのままトイレの窓に向かい、窓をくぐって外に出る。


「……とりあえずは一安心かな」


「そうだね、でも早く逃げないと! 火の勢いすっごいよ?」


「ああ、わかってる……って、誰!?」


 安心して独り言を言ったつもりが、何者かとの会話が成立してしまっていた。

 僕が驚いて振り向くと、その人物は気持ちの良い笑顔で敬礼を返してきた。


「やぁやぁ定理君、お勤めご苦労様です!」


「……なんだ、彩女か」


 この自衛官よろしくビシッとキメている女の名前は一瀬いちのせ彩女あやめ。平たく言えば、僕の幼馴染だ。年は一つ上なのだが、幼稚園の頃に出会って以来何かと僕に絡んでくる。……そういう面では彩女と相原って何だか似てると思う。

 小さい頃は僕を引っ張って色んな所に連れて行ってくれたもんだ。

 その時にちょっとした事件もあったけど……、まぁその事は置いておこう。

 僕も正直こいつといると退屈しないので、嫌いではない。


「なんだとはなんだよぅ! せっかく私が助けに来てあげたのに!」


「え? そうなの?」


 あれ? でも僕がここに来る事は誰にも言ってないはずなんだが……


「いや? 嘘だよ?」


「嘘!? このタイミングで嘘!?」


「にゃはは、めんごめんご。それより早く逃げなくちゃ! 警察沙汰も面倒だしね!」


 そうして彩女は僕の手を引っ張って駆け出した。昔のように――今も変わらず。

 変わらない日常は、すでに手遅れな程に変わってしまったけど……、彩女も、相原も、変わらずに僕と接してくれる。

 それはいつもの日常を、楽しかった毎日を――改めて愛おしいと実感させてくれるもので……。

 ――早く【ルール】とやらを作って、この狂った状況から開放されたい。

 改めて強く決心するには十分すぎる光景だった。

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