第二章 カミサマ


 九月十二日 午後六時三十分


 幸い父親がまだ帰ってきていない内に帰宅できたので、帰りが少し遅くなった事への言い訳はせずに済んだ。

 その後自分の部屋に戻り、適当にゲームで遊んでさっきの事を忘れようとした。

 しかし、遊んでも遊んでも忘れる事が出来なかった。それどころかせっかく面白いストーリーには集中できないし、何度もさっきの事を頭の中で回想してしまうし、散々だった。

 しかしそうして悶々としている内に、ある事に気がついた。


「ストラップ……、ポケットに入れっぱなしだったな」


 だからどうという訳でもないのだが、湯布院さんからの貰い物を粗末にするのはなんだか気になる。というか、それは湯布院さんに失礼な気がする。

 そんなわけで僕はそのストラップをとりあえず携帯につけてみる事にした。

 携帯本体が青のボディなので、なんとなくコントラスト的に合っているような気がする。 

 そして改めてそのストラップを観察する。

 ――特に変なところは見当たらない。やっぱりこれが何かの証拠であるはずが無い。

 何度も繰り返した言い訳を再び思い浮かべていると、急に携帯が鳴り出した。


「なんだ? 迷惑メールか?」


 僕はアドレス帳に乗っている人全員(少数)に個別の着信音を設定しているので、スタンダードの着信音が鳴ればそれは知らないアドレスという事になる。

 しかしだからといって迷惑メールと決めつけてかかるのもおかしいので、とりあえずメールを見てみる事にした。


『どうも、こんにちは。あなたは神様に選ばれました』


「うっわぁ。ベタな出だしの迷惑メールだな……。こんなのに引っかかる奴いるのかってくらいの」


 最初の一文で明らかにこれが迷惑メールだとわかってしまった。

 しかし僕はこういうメールを隅々まで読んで心の中で馬鹿にするのが密かな楽しみだったりする。その先にはどうせ『このサイトにアクセスすると願いが叶います!』とか書いてあるんだろう。とりあえずこのメールは永久保存だな。

 僕はその先に待ち受けるあの手この手で騙そうとする必死な文章を想像しながら、とりあえず先を読み進めた。


『これを読んだ方の大半が最初にこう思うでしょう。また変なメールが届いたぞ、と。しかし最初に断言しておきます。このメールに書いてある事は真実です。そして、従わなければアナタは死にます。信じられなければ、まずは試してみる事です。』


「いいねー。こういう文章で相手の興味を引いていく所はちょっと上手いと思うよ」


 僕は最早完全に信じていなかったが、内容を馬鹿にしながら読むと面白いので先を読み進めた。


『それでは本題に入りましょう。この世界は数百年に一度、変革の時を迎えます。その時期は完全に不定期で、人間たちがどのように日々を送っているかによって変わります。早い話、神様が「必要だ」と思った時が変革の時です。

 その時期が、まさに今なのです。人間たちはこのまま行くと破滅の道へ向かうでしょう。神はそれを、ある特殊な方法で止めようとお考えなのです。

 その方法とは、人間の中から一人変革者を選任する事。変革者に選ばれた方には、特別な力が与えられます。

 特別な力と言っても、空を飛べたり炎を出せたりするわけではありません。

 その力とは、【ルール】を作る力。

 全人類が、無意識のうちに従ってしまうルールを作る事が出来る力です。

 アナタは変革者として選ばれ、その力を得ました。

 正確に言うとアナタの持つその携帯電話。そこにつけたストラップ――《チャーム》がある限り、アナタの携帯電話でルールを作る事ができます。

 その方法は、このメールの差出人の欄にあるアドレスに、ルールを書いて送るだけです。それだけでアナタはルールを作る事が出来ます。

 しかしいきなりルールを作ると言っても初めは何をして良いかわからないでしょう。そんなアナタのためにお試し期間を設けました。

 期間は、三ヶ月。

 その間は様々なルールを試す事が出来ます。作れるルールは常に一つだけです。

 二つ目のルールを作ると最初のルールが破棄され、上書きされる形になります。

 お試しのルールに上限はありません。ルールが気に入らなければ何度でも作り直してください。

 また、お試し期間で作成したルールには有効範囲があります。その範囲は、半径一キロメートルです。正確な円形では無いので多少の誤差はありますが、その範囲内の人間にのみ、ルールが適用されます。つまり身近な人間を使ってルールのテストが出来るというわけです。

 そして三ヵ月後の十二月十三日に、最終的なルールを決めてもらう形になります。

 十二月十四日になってもルールが作られていない場合、アナタには死んでもらいます。

 しかし、最後に作るルールだけは良く考えて作ってください。

 なぜなら、最後に作るルールには制約があるからです。その制約とは――』



「定理ー! 晩御飯出来たわよー!」


 と、そこまで読んだところで母親に呼ばれてしまった。

 ……まったく、いつもこういうタイミングで呼ぶんだよなぁ。昨日はゲームのボス戦途中に呼ばれたし。最早狙ってるんじゃないかという気になってくる。


「まぁ、後でも読めるよな。――今行くよ母さん!」


 僕はとりあえず携帯を閉じて、一階に向かって返事をしてから階段を降りた。返事をしないと何度でも呼びかけてくるからだ。

 リビングに行くと、僕がゲームをしているうちに返ってきた父さんが既にテーブルに座っていた。

 今朝ついた嘘がばれていないか少し不安だったが、こちらから話を切り出すのも変なのでそのまま黙って席についた。


「やっと来たわね定理。何回呼んだと思ってるの?」


「一回だと思ったけど」


「冗談やめてよ。三回は呼んだわよ」


 それならどうせ僕がゲームをやっていて気づかなかったんだろう。いつもの事だ。


 ――この食事の時間はいつも苦痛だ。

 大抵の場合は成績がどうとかゲームばっかりするなとか小言を繰り返される。

 朝ならば母さんも忙しいからあまり小言は言わないのだけど(それでも言いすぎなくらいだが)、夕食の時は本当にうるさい。

 何かこの親を黙らせる方法は無いのだろうか……。

 ――と、そこでさっきのメールを思い出した。


『全人類が、無意識のうちに従ってしまうルールを作る事が出来る力です』


 ……信じる気は、あまり無い。 

 まぁ、メールを送るだけなら知られる情報はメールアドレスだけだ。それで個人の特定なんか出来ないし、被害を被る事はまず無いだろう。

 ――ならちょっとだけ試してみようか。

 リスクゼロ、リターンの可能性極小。まぁ、おふざけにはもってこいだな。

 何か起これば良し、起こらなくても良しという適当な考えでとりあえず先ほどのあて先にメールを作成する。


『親は、子供を怒ってはいけない』


 それだけ書いて、送信。……さぁ、どうなる?


「定理! ご飯の時にメールはするなってあれほ――」


 ――その瞬間。

 耳鳴りのような甲高い音が僕の耳に響いた。


「いって! なんだ今の……。……え?」


 あまりに激しい耳鳴りだったので、耳が痛かった。

 しかしそんな事よりも驚いたのは、目の前の信じられない光景だった。

 僕に向けられた母さんの怒声は不自然な位置で途切れ、そのまま母さんは黙ってしまったのだ。

 まさか……、これが【ルール】が適用されたという事なのだろうか?


「……嘘だろ?」


 思わず口に出してしまうほど信じられなかった。しかしルールが適用された母さんたちには、なぜ僕が驚いているのか理解できないらしい。変な顔で見られた。


「どうしたの定理? どこか具合でも悪いの?」


 気持ち悪いくらいに優しくなった母さんに心配される。


「あ、いや。なんでもないよ母さん」


 何も答えないのは変なので、とりあえず誤魔化しておいた。

 いや、何かの偶然だろう。きっとたまたま母さんが用事を思い出して言葉を区切っただけだ。

 でも、あんなピタッと話すのをやめるなんて事があるのだろうか。しかも母さんは説教をしようとしている最中だった。そんなタイミングで、用事を思い出して喋るのをやめるなんて――ありえるのだろうか。

 とりあえず今は確認するしかない。母さんが確実に僕を怒りそうな行動を取ってみよう。

 僕は思い切りわざとらしく、クチャクチャと音を立ててご飯を食べてみた。

 それはもう礼儀とか以前にどうやったらそんな食べ方になるんだ、と突っ込まれそうな勢いでクチャクチャ鳴らしてみた。――しかし。


「定理、頼むからもう少し静かに食べてくれ」


 先に口を出したのは父さんだった。しかも「頼むから」などと父さんが言うなんて……普通じゃありえない。


「……ああ、ごめん父さん」


 あの父さんがこんな弱気な言い方になっているのは、ルールによって僕を怒れなくなっているからだろうか。これじゃあ親の威厳も何もあったもんじゃない。

 つまりはこういう事か。

 親が子供を怒れないというルールによって、今の僕の行為に母さんは口出しが出来ない。

 なぜなら、あのタイミングで母さんが僕を注意すると、どう足掻いても怒った口調になるからだ。

 そして母さんが何も言わないので仕方なく父さんが僕をなだめたのだ。

 それが本当なら……、この力はとんでもなく強い力だということになる。ルールを作ると言うよりは、強制するといった方が近いだろう。

 でも、この力が本物という事は……あのメールの一文……


『そして、従わなければアナタは死にます』


 あの文章も――本物という事じゃないか。

 そんなどうしようもない事実に恐怖を覚えて、その後は俯いて黙ってしまった。

 母さんの小言も無い、父さんは元々喋らない。

 そんな重苦しい空気の中で、ただ作業の様に食べ物を口に運ぶ――そんな味気ない夕食時間になってしまった。


 ――そして次の日。

 朝は変わらず訪れて、僕は普通に学校に行った。

 いや、正確に言うと変化はあった。父さんも母さんもひたすら黙りこくっていたので朝から空気が重くてしょうがなかったのだ。

 母さんはどうやら、僕に対して『怒る』以外の会話が出来ないらしい(それもどうかと思うけど)。だから昨日作ったルールが働いて喋る事も出来ないようだ。そんな空気に耐えられなくて逃げ出すように家を出た僕は、通常よりも早く学校に着いてしまった。

 昨日の夜は、一晩中悩み続けた。

 世界を変えるルールを作るだなんて、そんな大それた事が僕に出来るはずも無い。

 ルールを作る以外に何とかする方法は無いだろうかとか、現実逃避もした。

 あのストラップ――チャームとか言ったっけ。あれを外してみようとしたけど、どうなっているのか全く外れなかった。

 そうして、最終的に「ルールを作る以外に方法が無い」という結論に達した。

 理由は主に、相手が神様らしいからだ。

 仮に本当の神じゃなかったとしても、あんな現象を起こせるような奴だ。意にそぐわない勝手な事をしたら、その瞬間に僕が殺されしまう可能性がある。

 結局僕は、あのメールには逆らえないのだ。

 ならば具体的にどうしようかを色々と考えてみた。それらをこれから、学校で実践しようと思う。ちなみにそれを決意したのは今日の朝三時の事だ。正直、いつも以上に眠い。


 教室に着いて扉を開けると、まだ生徒は数人しか来ていなかった。僕は基本的に相原くらいしか話し相手がいないので、その数人に挨拶するでもなく自分の席に座った。

 折角相原より先に着いたんだ。もうここで最初の実験を始めてしまおう。

 実験その①。どんな相手にもルールは有効であるか。

 これは大事だ。メールには必ず従ってしまう、とあったが例外もあるかもしれない。

 例えば相原なんかは喋るのが趣味、というかむしろ喋らなければ死んでしまうくらいの勢いで喋る。そういう相手の『喋る事』を封じる事が出来るのだろうか?

 メール作成画面を起動し、文章を入力。そして送信。

 内容はこうだ。


『朝は喋ってはいけない』


 ――程なくして、耳鳴りが響く。


「痛っ……!」


 この音が、ルールが適用された合図なのだろうか。実際、昨日もこの音が聞こえてから母さんは黙ってしまったからな。

 しかしそのせいで毎回耳が軽く痛くなるのは何とかして欲しい。とか言っても無駄なんだろうけどな。

 そしてこの音は僕にしか聞こえないらしい。

 こんな耳障りな音が響いたにもかかわらず、周りの人は耳を塞がないどころか、何事も無かったかのように平然としている。

 そしてルールが適用されたか確認といきたい所だが、この教室には現在人が少ないのだ。しかし、朝早くからきているようなヤツラは元々そんなに喋っていなかったので、ルールが適用されたかは確認しにくい。

 本命は、おそらくもう少しで来るであろう相原だ。あいつが喋らなかったら、この力の強制力が証明される。

 しかしそこである種の罪悪感が僕に目覚める。

 ――こんないたずらのような事で、人の行動を制限してしまっていいのだろうか?

 ましてやこの朝の時間に誰も喋らないという現実は、僕はまだしも他のクラスメイトは退屈でしょうがないのではないだろうか?

 いや、その件に関しても僕は昨日散々悩んだはずだ。

 大丈夫、犯罪を犯すわけじゃない。少し皆に黙ってもらうだけだ。それの何が悪い。退屈で死ぬわけじゃないんだ。

 その時、教室の前側のドアが開いて、相原が入ってきた。

 さて、どうなる?


「…………」


 相原は、驚くべき事に無言だった。

 いつものアイツなら「ようテーリ! なぁにこんな早く登校してるんだよ! お前より早く登校してお前に提供するネタを吟味する俺の大事な時間を奪う気か!?」などと、からんでくるはずだ。

 それどころか僕の方を一目見て、挨拶のつもりなのか軽く手を挙げただけで自分の席についてしまった。


 ……ありえない。

 ここまで聞いて「いや、具合悪いとかで黙ってるだけだろ」と思う人のために、注釈を入れておこう。

 相原に関して、こんなエピソードがある。

 夏休み明けの事だ。夏休み中に随分と無茶な遊び方をしたらしく、相原は初日からマスクをして登校をしてきた。

 話を聞く限りではただの風邪のようなのだが、喉がやられていて声が枯れていたのだ。

 なんとヤツは、そんな中でもペラペラと僕にネタの提供を始めたのだ。

 正直、風邪が感染るから離れてくれと思ったが(というか実際に離れろと言ったけど)、それでもヤツは仕入れてきた面白ネタを喋り続けた。

 その結果、相原の喉は完全に潰れてしまい、二週間程ダミ声のまま過ごす事になった。

 つまり、相原には基本的に「黙る」という選択肢は無いわけだ。


 という事は、この力はどんな人間にも有効なのだろう。そこは分かった。

 では次の実験に移ろう。なんて、少し楽しくなってしまった自分が居る。


 実験その②。どんなルールでも有効なのか。

 どんなルールでも、という事は無いと思う。おそらく、あまりに突飛なものはルールとして認められないのではないだろうか。

 というわけで、こんなルールを作ってみた。


『人間は、午前中だけ3センチ宙に浮かぶ』


 ……我ながら意味が分からない。

 しかしこれは真面目にやっているのだ。こんな有り得ないルールまで適用されたら、それこそ何でも出来てしまう。いくらなんでもそこまでの力を人間に与えたりしないはずだ。

 とりあえずそのままメールを送信する。


「…………」


 耳鳴りは、無い。

 足が宙に浮いてる様子も、もちろん無い。

 するとマナーモードにしていた携帯が震えだし、僕にメールの着信を知らせる。送信者のアドレスは、例の神様のものだった。


『ルールとして認められませんでした』


 ……なるほど。

 やはり僕の考えてた通り、ルールとして形を成していないと駄目らしい。

 つまりは、「人間は空を飛べる」だとか「僕だけ超強くなる」みたいなルールは適用されないって事だろう。そのあたりに気をつけてルールを作っていかなければならないって事だ。

 あ、そうだ。じゃあついでにルールを破ったら周りがどう反応するかも見ておこう。というか僕自身はルールを破れるのだろうか? その辺も含めて、確認だ。

 さっきのルールが適用されなかったってことは、今のルールは『朝は喋れない』のはずだよな……。

 僕は全員に聞こえるように大き目の声で独り言を喋った。


「あーあ、今日も皆静かだなー」


「…………っ!!」


 なんと。

 ガタガタと大きな音を立てながら、クラス中の全員が驚いてこちらを見た。それはもう、ガン見だ。

 しかし喋れないのは相変わらずなので、ひたすらこっちを見てくるだけだ。

 その中でも相原はさすがに友人である。携帯を取り出して必死に何かを打ち込んでいた。おそらく僕へのメールだろう。

 そして振動する僕の携帯。メールを確認すると、やはり相原からだ。


『お前何やってんだよテーリ! そりゃ喋りたい気持ちは分かるけど我慢しろよ!』


 相原の良い奴っぷりを実感した瞬間であった。

 っていうかこれはアレか? 相原にとっては「友達がいきなり大衆を前にして大声でロックを歌い始めた」とか、「いきなり道路で友達が寝始めた」とか、そんな非常識な光景を目の当たりにしている感覚なのか?

 だとしたらおかしいのは一方的に僕だ。良い奴じゃなくても忠告くらいするだろう。

 でもそこは気になるので相原にメールを返信してみる。


『なんで朝に喋っちゃいけないんだ?』


 ちなみにどうでもいい情報だが、このメールを打つのに僕が要した時間は五秒である。

 そのメールを見て「え、なにこいつどうしちゃったの」みたいな顔をした相原は、急いでそのメールの返事を書いていた。

 急いでもメールを打つのに四十秒はかかっていた。遅いなぁ。


『なんでってお前……そりゃ法律で決まってるとかじゃないけど、常識で考えろよ!』


 なるほど、こういう感覚になるのか。どうやら本当に僕は今、道の真ん中でロックを歌ってしまったらしい。わーお、なんだろうこのやっちゃった感。


 とりあえず『そうだな。なんかすまんかった』と適当に返信をしてから、別の宛て先へのメールを作成する。宛て先は神様のところだ。

 このやっちゃった感を消すためにはとりあえず別のルールを作ってさっきのを無かった事にするしかない!

 僕は少し焦って次のルールを考え始める。 

 ――あれ? でもこの場合、記憶はどうなるんだろう? 

 ルールが変わったら「あの時はこうだったから、結果お前は恥ずかしい事をしたんだよ」となるのだろうか?

 でもそれだと、他の人も「ルールが変わった」事を認識してしまう事になる。

 確かルールは『無意識のうちに』従ってしまうものではなかっただろうか?

 そうだ、じゃあ実験その③だ。ルールが変わった時、記憶はどうなるのか。

 とりあえずどんなルールで上書きしようか悩んでいると、教室のドアが開いて先生が入ってきた。


「うぃー、ホームルームだぞぉー」


 なんか今日はいつも以上にやる気が無いな……。って、あれ? 今、柴山先生……喋ったよな……?

 とか考えていると、他の皆も緊張が解けたように周りの席の人とコソコソ喋りだした。

 ――うわ、さっきの僕の行動についての話が飛び交っているのが少し聞こえた。

 噂はあっという間に広がり、隣の席の女子に小声で話しかけられた。


「真崎くん、さっき朝っぱらから独り言喋ってたって本当?」


 うわあああああああ! なんなんだ、なんなんだ! なんなんだこの感じは! 僕は何も悪い事はしていない! なんでこんな可哀想な子を見る目で見られなければならないんだ! 

 とりあえず僕は「ちょっと魔が差して」なんて適当に答えてから、机に突っ伏して腕で顔を隠した。必殺「僕は寝ていますよ」のポーズ。

 しかしあまりに静まらないクラスメイトたちに、さすがの柴山先生も気になったらしい。先頭の席の奴らに「何だお前ら? なんかあったのか?」なんて聞いていた。

 駄目だ、早く上書きしよう。これ以上耐え切れるか!

 僕は先生が居るのにも構わず、携帯を取り出してメールを作成した。


『人の恥ずかしい話を、暴露してはいけない』


 ――送信!!

 人生で一番送信ボタンを押すのに気合が入った。

 これでこの場は収まるはずだ。仮に、ルールが上書きされると前のルールの時の記憶が無くなる場合でもこれで大丈夫だし、記憶が残る場合でもとりあえずこのルールならこれ以上話は広がらないだろう。

 そしてすぐに耳鳴りが鳴る。


「痛っ……でも、これで……」


 これでルールは上書きされたはずだ。

 するとクラスメイトたちは何事も無かったかのように静まり、柴山先生は出席をとり始めた。

 最早ルールで人を縛る事への罪悪感なんてどうでも良くなっていた。

 しかし落ち着いたところで、ちょっと考えてみよう。

 ルールが上書きされる直前まで、確かに『朝は喋ってはいけない』というルールが適用されていた筈だ。にもかかわらず、柴山先生が喋ったのを機に皆は一斉に喋りだした。

 ルールがあの時点で適用されなくなったって事か? 確かルールに制限時間があるなんて話は無かったはずだ。仮にあったとしても、それなら母さんが朝全く小言を言わなかった事に説明がつかない。

 なら柴山先生が来るまでが『朝』だったって事か? そう言われてみれば確かに、僕たち高校生にとって『朝』という言葉が指すのは『起きてから、授業が始まるまで』な気がする。

 ホームルームが始まってしまえばその時間は「ホームルームの時間」と言うだろうし、授業が始まればその時間は「一時限目」「二時限目」と呼ぶのだ。うーん、でもホームルームは「朝のホームルーム」と言ったりするしなぁ……。

 でもまぁ、大体はこういう事だろう。『朝』とだけ指定すると各々の認識での『朝』になるって事だ。おそらく皆にとっては過去に「ここまでが朝じゃね?」みたいな会話がなされていた事になっているんだろう。だから共通認識としてあの瞬間までが朝だったのではないだろうか。

 と言う事はこの力、記憶も上書きしてしまう可能性が高い。

 確認してみよう。


「ねぇ、今日の朝何か変な事なかった?」


 と、小声で隣の席の女子に話しかけた。というかこいつ、名前なんだっけ。

 隣の女子は不思議そうに首を傾げながら答える。


「え? 朝は真崎くんの方が早かったでしょ。私が来てからは何も無かったけど、知ってるはずじゃん」


 なるほど。この言い方だと、朝の僕の『恥ずかしい話』だけじゃなく、その話を聞いた事すら無かった事になっているらしいな。

 ここからが大事だ。その記憶は本人の中でどういう風に整理されているのかが知りたい。

 記憶が上書き、と単純に言っても二通りあると思う。

 その間の記憶が無くなるか、適当に別の記憶に置き換わるかだ。

 それに関しては……、そうだな。後で相原にでも確認すればいいだろう。

 色々と思索にふけっている間に、ホームルームはもう終わっていて、一時限目の先生が教室に入ってきたところだった。

 さーて今日の授業はどうやってやり過ごそうかなー、なんて考えていた僕は、この時にはどこかルールを作る事をゲームのように考えていた。


 つまりは、楽しんでいたのだ。


 楽しんで――しまっていたのだ。


 世界を変えるルールを作る事の重大さとか、やらなければ殺される事への恐怖とか、そんな感情が無くなってしまっていた。

 しかしそんな呑気な考えはすぐに吹き飛ぶ事になる。

 自分がやってしまった事への後悔と、これからやろうとしている事の恐ろしさを……、再び思い知らされる事になる。


 時刻はただいま、午前八時四十分。

 僕が事件を起こすまで、あと――七時間弱。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る