恋敵


 目の前の蝙蝠はさも当然といわんばかりに叶の皿の上に乗り、ベーコンを貪り始めた。

 叶は呆然とする。

 チスイコウモリは人や家畜の血を啜ると聞いていたので拍子抜けした。

「カナエ様、ご無事ですか」

 少し慌てた様子でミナが闇から現れた。

 害がないなら問題ないが、チスイコウモリは多くの感染症の感染源になる生き物だ。突然変異もあり得るかもしれないと警戒してしまう。

「う、うん。あ、あの……蝙蝠さんを出来たら追い出して下さい」

「え? 申し訳ございません。ジョナサン、私の主を怯えさせるとは何事だ。戻りなさい」

 ミナは蝙蝠を睨みジョナサンと叱りつける。

「嫌だなぁ。ほんの冗談だよ。ミナ」

 蝙蝠はみるみる若い男に変わった。

 彼は宝塚のトップスターのような完璧な笑みを浮かべている。

「どうやって入った」

 ミナは男を睨んだ。

「ミナが招いた」

 男は飄々と笑みを浮かべたまま、皿の上のベーコンを摘む。

「私が?」

「ああ、この部屋を掃除するときにね。一度招かれたらいつでも入ることが出来る。これは君だって同じじゃあないか」

「なぜカナエ様の部屋に入った」

 ミナは激怒しているようで、ちらちらと鋭い牙が覗いていた。

「おいおい、怒らないでくれよ。僕はちょっとばかりエドワード様の花嫁に興味があっただけだ。それと、人の子の食べ物の味にね。エドワード様ったら酷いんだ。僕を結婚式に招待してくださらなかった。あんなに苦労して花冠を作ったのに、僕は肝心の花嫁を一目見ることすら出来なかった。だから、今見に来たんだよ。僕の好みではないけれど、なかなか可愛らしい人だ。きっとエドワード様の好みだろうね。こう言った造形は。あの方は可愛らしいものが好きだから」

 ジョナサンは笑う。

 彼の仕草の一つ一つがまるで舞台上の役者のように芝居がかっていて、それで居て形は完璧なまでに計算されているようだ。

 叶はジョナサンの一人芝居を見せられているようなそんな錯覚に陥る。

 蝋燭の明かりだけの薄暗い部屋の中で、ジョナサンだけはスポットライトが当てられているようにぼうっと浮き上がるっている。

「エドワード様の許可無くカナエ様に近づくな」

「ああ、怖い怖い。けど、ミナ。怒った顔も素敵だね」

 ジョナサンはミナの頬にゆっくりと手を伸ばしたが、ミナはそれを蹴り飛ばした。

「わぉ。相変わらずの瞬発力だね。流石騎士団長」

「騎士団長補佐だ。今はカナエ様専属の護衛だけど」

「知ってるよ。ところで、年中不機嫌な騎士団長はどこかな? 僕は彼を探しているんだ。てっきり、花嫁の護衛は彼かと思ったのだけど」

「騎士団長は不在だ。ハウルに出かけている。彼は国を出られる貴重な存在だからな」

 ミナは溜息を吐く。

 そしてそれから叶を見た。

「申し訳ございません。ジョナサンがご迷惑をお掛けしました」

「い、いえ、驚いただけです」

「その様に言っていただけるとは。カナエ様が私の主であることを誇らしく思います。お食事は、ご満足いただけましたか」

「あ、はい。もう十分です」

 食事のことなど忘れていたとは言えない叶はそう答えた。

「それでは、お湯の仕度も整っています。浴場へご案内させていただきます」

 ミナはスッと叶の手を取る。

「人の子であらせられますカナエ様にはこの城は暗く視界に不自由されるかと存じます。どうぞこのミナをあなた様の目としてご利用下さいませ」

「あ、ありがとう……」

「ジョナサン、食器を片付けておきなさい。それと、後で反省文だ。今回の件はもちろんエドワード様に報告する」

「げっ、ちょっとミナ、エドワード様には内密に……」

「報告する。以上だ」

 ジョナサンを睨み付け、ミナは叶の手を引き歩き出す。

 廊下に出ると、足元にゆらゆらと蝋燭の炎が揺れている。

 荒廃した場内を揺れる炎がより一層不気味に感じさせた。




 叶は広い浴場に驚く。

 とても広い大浴場であるにも関わらず、薄暗く、ごつごつした岩のようなもの出来ているこの空間は血痕と思われる痕跡がある。

 血の臭い。

 この城全体から血の臭いがすると叶は思う。

「ミナ、ここは?」

「浴場でございます。人の子は湯浴みを好まれるようですので、お湯を用意させていただきました。温度は問題ありませんか?」

 ミナは特に異様なこの風景を気にした様子も無く、ただ、水温だけを気にした。

「えっと、ちょっと熱いです」

 おおよそ43℃といったところだろうか。

 熱めのお風呂を好む人は喜びそうな水温だが、残念ながら叶は微温湯を好むほうの人間だった。

「では、水を足しましょうか。リズ、水を」

 ミナは闇に声を発す。

 すると暗闇の中から少女が現れ、桶の水を注いだ。

「あれはリズです。カナエ様が通る道は彼女が片付け、灯りを点し、お湯を用意し、着替えの用意もします」

「お、お世話になってます」

「いえ」

 リズは無表情で答える。

 赤毛にそばかす。まるで御伽噺の主人公のようなのに、不機嫌そうな無表情が残念な彼女はお湯をかき混ぜ温度を確かめているようだ。

「2℃ほど下がりました」

「ご苦労」

 ミナは下がれと彼女に合図する。

 すぐにリズの姿は闇に溶け込んだ。

「手で触ってそんなに正確に温度がわかるの?」

「リズは絶対零度から水の沸点までをほぼ正確に計測することができます」

「ぜ、絶対零度も?」

 最早人間業ではない。叶は目を丸くする。

「ファントムの冬はとても人の子が過ごせるような気温ではありません。ごくまれにですが、我々も身動きが取れぬほどの寒さが訪れます」

「因みに今はどの季節ですか?」

 叶は恐る恐る訊ねた。

「今は春です」

 ミナは静かに答える。

「さぁ、お湯をどうぞ」

「は、はい」

「人の子は【裸の付き合い】なるものをして親睦を深めるそうですが、私もご一緒させていただいてよろしいでしょうか」

「あ、はい。ど、どうぞ」

 ミナの情報源がどこにあるのか叶は激しく気になったが、なんとなく訊ねてはいけないことのような気がしてそれを飲み込んだ。

 叶はゆっくりと湯に浸かる。少し熱いが問題なく浸かれる温度だった。

 ゆらりと炎が揺れる薄暗い浴室は不気味で早くここから出たいと思わせる、まるでホラー映画のセットのような空間だ。

 望なら、間違いなくここで惨殺された女性の話をして叶を怖がらせようとするだろう。

「カナエ様?」

「は、はい」

「どうかなさいましたか?」

「いえ、ちょっと……望の……友達のことを考えていました」

 友達。その表現が正しいかは叶には分からなかった。

 叶にとって望は絶対的存在。

 それは神に等しく、彼女はまさに叶の救世主だった。

「ノゾミという方はカナエ様にとってエドワード様よりも特別な存在なのですか」

 ミナは少しばかり不服そうに言う。

「それは勿論。過ごした年月が違うもの。望は私の救世主だから。彼女が奇跡を起こしてくれる。だから私は生きられるの」

「……そう、ですか」

 ミナは何かを考えるようだったが、それ以上は何も言わなかった。

 炎が揺らぐ。

 その炎がより一層大きく揺らいだ。

「ミナ」

 低い声が響く。

「ウィリアム、何用だ」

「お前が浴場に居るのは珍しいな。話がある。来い」

 男の声だけが響き、声の主が現れる気配は無い。

「私は晩餐まで私の主と過ごす。すまないが後にしてくれ」

「急ぎのだ。ん、お前の主」

 ウィリアムと呼ばれた男の声は信じられない言葉を聴いたといわんばかりに動揺しているようだった。

「我々にエドワード様の他に主が居るはずが無かろう」

 凛と声が響く。

「私の主は昨日よりカナエ様となった。これはエドワード様の命だ」

 ミナはぴしゃりといい、女性の入浴の邪魔をするのは無粋だと彼に主張した。

 声の主は不服そうな息を吐き、それから遠のいたようだった。

「あの、いいんですか」

「構いません。私の最優先すべきはあなた様なのですから。カナエ様、お背中を流させて下さいませ」

 ミナが微笑む。

 叶は言われるまま、彼女に身を任せることにした。




 部屋に戻された叶は不機嫌そうなエドワードに困惑した。

「どうか、しましたか」

「いや、お前が気にすることではない」

 エドワードは静かに答え、それ以上は何も言わなかった。

 叶はただ、ぼんやりとエドワードを見た。薄暗い蝋燭の炎が揺らぐその空間で彼の白い肌は一層白く浮かび上がって見えた。

「エドワード様」

「なんだ」

 やはりエンドワードは不機嫌そうだ。

「ジョナサンという人に会いました」

「ほぅ、あれにか。あれはふざけて見えるがなかなか優秀な男だ。どこで会ったのだ」

「この部屋で。ミナと仲が良さそうで」

 叶が答えればエドワードは眉間のしわを一層深く刻んだ。

「ジョナサンがか。どうやら私はあれの評価を間違えたらしい」

 彼は心底不快だという様子を見せた。

 そこで叶は気づく。

 エドワードは時折感情的になる。それはとても感情豊かというわけではなく、緩やかな変化だが、どこか幼い子供のようにさえ見える感情表現だ。

「ミナは少し怒っていましたけど、あれはどうしてですか?」

「……ジョナサンは私にとっては信用に値するが、それがお前にとっても同じとは限らないと言うことだ」

 どこか苦しそうに見えるのは気のせいだろうか。

「それは」

「我々は人の子とは違う。中には私の妻が人の子であることを快く思わないものも居る。だが、これだけは覚えていてほしい。カナエ、私にはお前が必要だ」

 エドワードは叶の手を取った。

「我々にとって我が一族の予言は絶対だ。それは母も祖父も同じだった。私とて同じであろう。それに、人の子であるお前を私が選んだことにも意味があるのだと思う。お前は、確かにあの場に現れたのだから」

 まるで壊してしまうことを怖れるかのようにエドワードは叶を抱き寄せ、それからゆっくりと瞳を覗き込んだ。

「本来、我々と人の子は敵対する。いや、人の子は我々を怖れ、我々は、人の子を支配する。支配していた、だろうか。今は我々が人の子に警戒しなくてはいけなくなってしまった」

「敵対、ですか」

「我々も生きるために必要なのだ」

 叶にはエドワードの表情が苦痛に歪んでいるように見えた。

「よくわかりません。でも、なんだか怪奇映画に出てくる吸血鬼みたいなことを言うんですね」

「怪奇映画とはどのようなものかは知らぬが……そうか、人の子は我々をそう呼ぶのか」

「え?」

「我々は人の子とは違う。そのことだけは覚えておいてほしい」

 エドワードはそっと叶の髪を撫でる。

 まるで硝子細工に触れるように恐る恐ると彼は叶に触れた。

「エドワード様?」

「……お前はまた、眠るのだろうか」

「そうですね。ここに来てから眠る時間が増えました。時間の感覚がなくなってしまって、眠る時間が増えたんだと思います」

「そうだな。この国には人の子の国のようなヒルは無い。タイヨウと言うものが無い。隣国のクレッシェンテなどはタイヨウが二つあるらしいが、どういうわけかこの国はタイヨウに見捨てられてしまったらしい」

 エドワードはあまり興味がなさそうにそう言って、それから叶を抱き寄せる。

「眠るなら、私もそうしよう」

「お仕事は終わったのですか」

「今の私にお前と過ごす時間よりも優先させる仕事は無い。お前が私の傍に居る。その事実に意味があるのだ」

 彼はそのまま叶をベッドに押し倒した。

「私には、そしてこの国にはお前が必要だ。人の子のお前がこの国に居ることで我々と人の子の争いを和らげることができるかもしれない」

「はい」

 真っ直ぐ見つめるエドワードの瞳に叶は絶望を感じた。

 彼に悪意がないことは直感でわかる。しかし、それでも諦めたくない気持ちがある。

 もう、帰ることのできない故郷。

 決して居心地の良い空間では無かったが、あの場所には望が居た。

 望の居ない暗闇の牢獄。

 叶はこの檻に一生囚われることになるのだとぼんやりと考えた。




 晩餐の時間だとミナが声を掛けるまで、エドワードは叶を放さなかった。そして、ミナが引き離したと言わんばかりに彼女を睨みつけた。


「本日の晩餐はカナエ様のご要望どおりだとよろしいのですが……こちらは森羅の人の子の食べ物です」

 ミナがテーブルに皿を載せる。

 それはパジョンのような葱と小麦粉を焼いたものだった。

「こちらがハウルの人の子の食べ物です」

 次にテーブルに載せられたのはナンのような薄いものだった。

「どちらがパンに近いものでしょうか?」

 ミナは不安そうに叶を見た。

「どちらかというと、こっち、かな。これはお好み焼きに近いけど、パジョンは好物です」

 叶は最初に出されたさらに手を伸ばした。

「私はこれは好まぬ」

「でしたらエドワード様は召し上がらなくて結構です。こちらはカナエ様のために用意させていただいているのですから」

 ミナは少しきつい口調で言う。

「私は人の子に興味がある。何を食し、何を考えているのか。人の子を滅ぼすためにも人の子を知らねばならぬであろう」

 エドワードは次にナンに手を伸ばす。

「……人の子はこのような食感を楽しむのだろうか」

「エドワード様は、普段はどのようなものを食べているのですか?」

 叶はやはり気になってそう訊ねた。

「お前は知らなくてもいい。私は人の子とは違うのだ」

「す、すみません」

 訊いてはいけないことだったのだろうか。叶はびくりと身体を震わせる。

 時々、エドワードは恐ろしい。

 特に触れられたくないことに触れてしまったとき、彼の印象は激変するのだ。

「怯えるな。お前に危害は加えん。誰にもお前に手出しはさせぬ」

「はい」

 不器用な人。恐ろしい人。でも、どこか優しい。

 叶にはエドワードが理解できない。この人は一体何を望んでいるのだろうとただ、そう考えてしまう。彼は叶を傷つけないようにと思ってくれている。

 叶にとってエドワードは特別な存在だ。たった一人、いや、ミナを除いてただ一人頼れる人だ。

「この後は、お前は眠るのだろうか」

「え?」

 急にそう訊ねられ叶は驚く。

「いや、まだ眠らないのであれば、庭園を散歩などしないかと……」

 エドワードの言葉に叶は更に驚いた。まさかこの人がこんなことを言うなんて。

「お仕事は、大丈夫なんですか?」

「ああ、お前と過ごしたくて全て片付けてある」

 ふわりと彼は笑んだ。

 恐ろしいはずなのに、彼のその表情から視線を逸らせない。

「今はまだ、月明かりがある。お前も花を楽しめるだろう」

「はい」

 きっと彼なりに気を使ってくれたのだ。

 叶は思う。

 やっぱりこの人はとても不器用な人だ。




 この国は夜ばかりだけれども、月明かりに照らされた薔薇園は幻想的に感じられると叶は思う。

 薄暗くて色は判別し辛い。ミナが持たせてくれたランタンで、辛うじて周囲の様子を識別できる状態だ。


「すごい、青い薔薇まで……」

「珍しいか」

「はい、はじめて見ました」

 叶はエドワードを見上げる。エドワードはそっと薔薇に手を伸ばした。

「この薔薇はここでしか育たない。我が一族にだけ許された、特別なものだ」

 そう言いながら、彼は一輪の薔薇を摘んだ。

「これの花言葉を知っているか」

 突然の言葉に叶は考えた。

「確か……不可能だったと。私の居た世界では、自然界ではありえない色だからって」

「そうか。だが、この国では違う」

 エドワードは薔薇の棘を確認しているようだった。

「花言葉は契約。この薔薇を身につけることが出来るものは、王族と、王族に信頼されたものだけだ。つまり王のみがこの花を与えることが出来る」

 ふわりと彼の手が叶の頭に触れた。そして、髪に花を挿す。

「やはり、青の方が似合うな」

 エドワードはふわりと笑んだ。

「え?」

「婚姻の儀の際は伝統的に黒い花だが、あの時、青のほうが似合うと思った」

 髪に触れていた彼の手は、いつの間にか叶の頬に触れていた。

「私がこの花を与えたのはお前で四人目になる。四という数字は、この国ではとても重要な意味を持つ。元素の数だ」

 言いながら、彼は名残惜しそうに叶から手を離した。

「初めはウィリアム。今の騎士団長だ。彼は、私の幼馴染で、最も信頼している。お前も何かあったら頼るといい。私のように物言いはきついかもしれないが、あれはなかなか情け深い。情に流されやすい」

 突然エドワードが人のことを話し始めたので叶は驚いた。けれども話す彼はどこか楽しそうで、やはりこれが彼本来の姿なのではないかと感じる。

「次に花を与えたのは、ミナとジョナサンだ。あの二人も、とても信頼できる。この国で、私が心から信頼しているのはこの三人だけだ」

 そう言う彼の瞳は憂いを含んでいた。

「え? アンは? 貴方の乳母だって」

「よく知っている。アンのことはよく知っている。だからこそ、近頃は……いや、止そう。お前に話すべきことではないな」

 エドワードはまた薔薇に視線を戻した。

 国が変われば、そのものに込められた意味も変わる。おそらくは叶が思う以上に特別なものなのだろう。

「ここは先祖代々受け継がれている地だ。我らが、そう、この地を手にしてからずっとこの庭園はある。薔薇ばかりだが、ここは私と庭師しか足を踏み入れない。だから、居心地がいい」

 エドワードは深紅の薔薇に手を伸ばしかけ、途中で青い薔薇に移した。

「お前の部屋は赤ばかりだ。別の色を置いたほうが良かろう」

 彼はそういいながら、何本も薔薇を摘む。

「そ、そんなに摘んだら薔薇が可愛そうですよ」

「私の后のためになるのだ。花にとっても名誉であろう」

「折角綺麗に咲いてるのに……」

 花はやっぱり自然の中が一番だと叶は思う。

 折角咲いているのに、摘んでしまえば枯れてしまう。

「お前が言うのならば、もう、摘まない。薔薇を見たくなったらいつでもここに来るといい。ミナも入れても構わん。だが、他の者は入れるな。ここは私の、貴重な休息の場なのだ」

「だったら、私も来ないほうがいいのではないですか」

「いや、ここで偶然お前に会うというのも悪くないと思う。いや、そんなことが起こるのを期待しているのかもしれない。私は少しでも永くお前と過ごしたい」

 エドワードは真っ直ぐと叶を見た。

「人の子の寿命は短い。しかし、私は、お前の寿命が尽きるまで、お前に私の傍に居て欲しいと思っている」

「……エドワード様……お気持ちは大変嬉しいのですが……私は……」 

 帰りたい。

 その言葉を出すことが出来なかった。

 別に絶対帰りたいと言うほど、元の世界に愛着はない。

 帰りたいのはただ、望に会いたいからだった。ただ、望が居ないのが寂しい。そんな子供みたいな理由。

 望への依存だけで叶はこの半年を生きていた。望は叶の救世主なのだ。救世主とはすなわち信仰の柱。

 彼女が居ない世界は神の不在を表すようなそんな感覚があった。

「祖国が恋しいのはわかる。しかし……私にはお前が必要だ」

 縋るようなエドワード。

 叶は視線をそらせなかった。

「こんなことを言っても信じぬだろうが……愛している」

 突然、抱き寄せられ、叶は重力に逆らえずそのまますっぽりとエドワードの腕に収まった。

「お前を放したくない」

「エドワード様……」

「何も言うな。ただ、居て欲しい……」

 一瞬、彼が子供のように感じられた。

 母親に縋る子供。

 彼は叶よりもずっと年上のはずなのに、幼い子供のように見えたのだ。




 どれほどの時間エドワードの腕に抱かれていたかわからない。ただ、彼は少し落ち着いたようで、名残惜し気ながらも叶を解放した。

「すまない。驚かせてしまったな」

「い、いえ……」

「怯えないで欲しい。お前に怯えられると、どうしたらよいのかわからなくなる」

「す、すみません」

 別に怯えているわけではないのだが、自分のはっきりしない態度が誤解させてしまっているのだと叶は申し訳なく思う。

「え、エドワード様はとてもお優しい人だと思う、んですけど……まだ、なんだか慣れなくて……」

 これでは言い訳だ。

 叶もまた、混乱している。

「ありがとう」

 エドワードは笑んで叶の頭を撫でた。

「気を使わせてしまったな」

「い、いえっ……」

 温もりはなくとも、優しく触れる手は心地よいと思う。

 決して悪い人ではないのだ。彼は。

 ただ、自分は極端に人見知りで、望以外の人間との接触など殆どしなかった。それで今混乱しているのだ。

「望以外の人とこんなに話したの、初めてなんです」

「……その、ノゾミ、とは何者だ?」

「私の救世主です」

「ほぅ」

 途端に空気が冷たく感じられた。

「大学に入って、一人でどうしていいかわからなくなってた私に声を掛けてくれて……困ったときはいっつも助けてくれて……家も、隣で……あ、家って言っても一軒家じゃなくて、大学の近くのワンルームのアパートなんですけど、ご飯とかも誘ってくれて、だんだん望が私の家に泊まるのが当たり前になって……でも、望は急にいなくなっちゃって、私、一人で……部屋でショールを編んでいたら、なぜかここに居たんです」

 そうだ、望が戻ってこなくて。

 きっと私がライオンキング断ったせいだ。望が好きなものは全部好きになるって言ったのに、ミュージカルは嫌いって言っちゃったから。それできっと望が居なくなっちゃったんだ。

 ひんやりとした空気に包まれながら、望を思い出すと、心まで凍えそうな程に寂しさが込み上げる。

「カナエ、すまない……」

 エドワードはまた、叶を抱きしめた。

 それは励ましに似ている。彼がそう言った感情を持っているかは叶にはわからないが、確かに、それは望がよくしてくれた仕草と同じだった。

「私が……お前を求めたのがいけなかっただろうか」

「そんなこと……私に訊かないでください」

 酷いことを言ってしまった。

 謝らないと。

 そう思うのに、言葉が出ない。

「エドワード様のことは……好き、です。でも……望に会いたい……」

 そう、言葉に出したことで、叶はようやく自分が泣いていることに気がついた。

「カナエ……それは……いや、お前が望むなら、私は出来る限りそれに沿うようにしよう」

 そう言うエドワードの表情は読めない。

「そろそろ冷える。戻るぞ。人の子は寒さにも弱いのであろう?」

「……はい」

 人の子は、と、エドワードが口にするたびに、距離を感じる。

 人の子は。彼は人の子ではない。

 異邦人は人の子と呼ばれるのだろう。

 だったら、彼らはなんなのだろう。

 叶が知る限り彼らは、暗いところでものを見ることが出来る以外何ひとつ変らないように見える。

 けれども距離がある。

 この心理的距離が寂しいと感じる。

「カナエ」

「は、はい」

「私は、お前を愛している。これだけはわかって欲しい」

「エドワード様……」

「愛おしいのだ。ただ、それだけは偽りない私の心だ」

 憂いを含んだ彼の表情からも、声からも、距離を感じる。

 この距離は埋まらない。

 その人の子と、彼の一族の間には何かあるのだろう。

 深い溝。目に見えないそれが距離を広げる。

「私は」

「言わないでくれ。その、お前の言葉を聞いたら、きっと私は立ち直れない」

「でも」

「言わないで欲しい」

 もう一度、そう言われ、叶は言葉を飲み込んだ。

 嫌いじゃない。

 けれども、愛とか言われたって理解できない。

 何より。この妙な距離が。

 エドワードの後ろを必死について歩く。歩幅の差がまた溝に思えた。

「カナエ、私は……その……速かっただろうか。ミナはいつもついて来るから気にならなかったが……そうだな。一般的に女性のほうが歩幅が狭いのだったな」

 エドワードは手を差し出す。

「え?」

「はぐれたら、戻らなくなりそうだ」

「まぁ、迷子にはなりますけど」

「はぐれるな」

 エドワードが宙で迷子になっていた叶の手を掴んだ瞬間、叶の視界はぐらりと揺らいだ。

「叶?」

 そしてそのままふらりと倒れ、エドワードに支えられた。




「カナエは?」

 部屋に運ばれた叶はすぐにミナに診られる。

「いえ、あの……非常に申し上げにくいのですが……まったくもってわかりません。人の子の専門家に診せた方がよろしいかと」

「専門家とやらをつれて来い」

 エドワードは苛立った様子で言う。

「平気です。ちょっとくらくらするだけで……」

「顔色が悪い」

 エドワードは寝ていろと叶をベッドに戻した。

「エドワード、クレッシェンテの商人が来ているがどうする」

 突然の男の声に叶は少しばかり驚いたが、それがウィリアムのものであることに気付き安堵する。

「後にしろ。カナエが心配だ」

「あれは人の子だ。それに、医者を兼任しているらしい」

「……そうか。では、会ってみよう。カナエに会わせるかはそれから決める」

「ああ」

 エドワードの声色は少し固かった。

「カナエ、休んでいろ。私は少し出る」

「あ、はい……」

「ミナ、カナエの傍を離れるな」

「かしこまりました」

 エドワードとウィリアムは闇の中に消える。

 彼らは普通にドアから出て行かないのだろうかと叶は不思議に思った。

「なんかみんないきなり現れたり消えたりするからびっくりしちゃうなぁ」

「人の子はいちいちドアを通るのが大変ですね」

「それが普通だから大変だって思ったことはないですよ」

「それはすごい」

 ミナは笑う。

 そして、眠ってくださいと彼女は叶の頭を撫でた。

 叶は眠くはなかったけれど、彼女の言葉に従い、ただ、瞳を閉じ眠りを待った。

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