春 世界を持たない春の話

私が思うに、作品とは、世界を透かしてみるための窓だ。

そして、窓のうちに在る部屋こそが作品世界なのであり、物語は窓から見える部屋の一部に過ぎず、創作は窓を開けるための作業だ。文体・絵柄は窓の色だし、様々に含まれる技巧の数々は、さしずめガラスを磨く布だろう。

そんな事を、ある一本の小説を読み終わったときに思った。

「どうだった?私の新作。」

隣の席に座る友人、亜季が、自らの小説の感想を求めてくる。

それは確かに才が感じされるものだったが、私としては何かが足りないように感じられた。

「うーん……。ちょっと心情描写が少なすぎない?これはこれでわかりやすいのだけれど。」

私はそう言って、亜季の顔色をうかがう。亜季は到って涼しい顔をして。

「そうなんだよね。なんか、こう、どうしても表情とか、仕草で描いちゃう。もっと心の深いところを見せないとなんだけど。」

亜季はそう言うと、味のある字で書かれた小説の一節を指す。

「どう?こことか。頑張ったんだけど。」

そこには、"私の心は水面のように静かで、かつ龍のように荒々しくもあった。さしずめそれは釘の様で、材木を貫きつつも、大きな家を建てる想像でもある。"と、あった。

作者に言われて初めて気づく。成程、単純に複雑な背反ではなく、主人公の言語化しづらい深層を比喩を使って忠実に表現しているのだ。ろう。白状すればよくわかってない。

……やはり、作品とは窓なのだ。さらに、その窓を覗く私の眼には色眼鏡がかかっているらしい。


なぜなのか、その思い付きは帰り路にも憑きまとった。

創作とは窓を開けるための作業であるならば、それならば、私はどうなるのだろう。

──元来、あらゆる創作が苦手だった。

嫌いではなかったのだが、どうしてもさっきの描写のような、言語化しづらいところが表現できない。

小学生の頃、"小説の感想、読後感を描こう"との授業で、五つの課題小説に於いて全て白紙で出し、図工と国語で低い評定をつけられたことがある。それ以来は人の物を真似て出すことも程々にするようになったが、そこに一切の思想は含まれず、薄っぺらだとされてまた評定を下げられた。

私は窓を開けられないのかもしれない。

窓がないのなら、私はどのようにしてこの思考を言語化するのだろう。

思考の言語化、ひいては、他人との交流。

私はそれには問題がない。問題がないだけで大して友達が多いわけでもないが。

しかし、窓が無いのならその部屋にどうして光が入ろうか、光とはすなわち外部の干渉であるのだから、その光が入らなければもはや自閉となるのではないか。

答えが出でぬままに、家についた。


帰りたくない。そう思いつつも、家のドアを開けた。

「ただいまー」当然のように、返事はない。

「お母さん、寝てるの?」

母は、寝室で泥のように眠っていた。

彼女は昼間ではなく、夜中に仕事に出る。何をしているのかは知らないことにはなっているが、向かう方向、格好や荷物から見て、まあ、中三にも察しはつく。

父親は亡い。幼い頃、交通事故で死んだ。今となっては事故だったのかにも疑念があるのだが、まるで狙ったかのように軽自動車に頭がつぶされていたそうだ。

その後、母は女手一つで私を育ててくれている。一時期は昼間に働きに出ていたようだが、直ぐにやめたそうだ。

夜の仕事を初めてすぐ、母は酒乱となった。きっと仕事場で悩みでもあるのだろう、しかし、母はそれを私に話してくれずに、唯、酒乱の罵詈雑言として明け方の自室で散らすだけだった、

我ながら大変な家庭だと思う。何故にこんなにも苦心して生きねばならないのか。

そんな思いを振り払うように、自室へと逃げ込んだ。

本棚に在る、分厚くて古びた本に手を伸ばす、もはや、何度読んだかわからない本だ。

「そこで、彼は『本と扉って似てると思わないかい?』と、問うた。その手には小さな本が握られていた。」

栞を握り、乱暴なくらいに急いで開いた。紙の匂いが鼻に触れる。

ベッドに寝転がり、小さな、小さな声で音読する。昔からの癖だった。この本だけはなぜなのか、妙なまでに音読したくなる。

硬い制服の感触が集中に害をなすが、まず、落ち着きたい。

「前面に扉の絵が描かれたその本は、なるほど確かに扉に似ていよう。

彼は続ける。『作品は、扉だとか、窓に近いんだ。」

そこまで読んではっとした。まるで昼間の私ではないか。それに、こんなシーン覚えていない。何度も読んだはずで、忘れる等ありえないのに。

不思議なこともある者だと、続きに目を運ぶ。

「きっと、どうやって書くかでその扉の強さが変わってくる。脆い扉じゃ、表現じゃ何人もの人に読まれるうちに壊れてしまって、破綻を見つけられて、駄作の表札を下げられてしまう。』

そう言う彼の目には泪がにじんでいた。

『この本もそうなんだ。[表現を持たないエグニアの話]。この文章を見てよ、物書きの風上にも置けないような口語だ。破綻してるよ。

でも、本当はそんな事ない、いや、そうだけど、それでいいんだ。彼はこの一冊しか本を出していないけれど、彼には一冊、この駄作一本で十分だったんだ。』」

どんどんと引き込まれていく。この表紙のすりきれた本が、今では初めて読む名作のように感じられた。

「『彼には扉がいらなかった。この壊れやすい扉、破綻した文章は彼の心の中そのものなんだ。

彼は読者を部屋へと招き入れたんだ。彼の世界の中、あるいはもっと深いところへ。

でもね、読者の誰も彼の部屋に入ろうとはしなかった。僕含めて。』

彼はそう言って、本をひらひらと振った。文庫本の大きさをしたその本は、扉は、開き、閉じを繰り返す。

『本当に表現を"持たない"のは、この本の作者なんだ。彼が魅せたかったのは、粗削りの文章でも、綺麗で輝かしい装飾のついた文章でも無くて、ただ剥き身の世界だったんだよ。』」

ここで、ところどころ口が動いていないのに気付いた。眠いのだろうか、そう言えばもう五時だ。これだけの文を読むのに一時間近くかかっている。

疲れているのだろう、水でも飲んで着替えたらもう寝てしまおうか。

本に栞を挟んで、枕元に置き、ほんの一瞬目を閉じる。睡魔はその瞬間を見逃さなかった。


誰かが、私に話しかけている。言語である気はせど、内容が不思議に解せない。

声を出そうとしても、まるで水の中、体は動けど、やはり水の中の様だった。

赤い、紅いセーラー服、他中の制服。ポニーテールと、変なヘアピン。

目元は、見えない。口元は、しゃべっている。本当に?何を?叫んでいるのかもしれない。

もう一人、一つ目の、黒い人。あれ、人の目っていくつだったっけ。

飛び出してくるのは、鼻の長い、小さな像のような物。夢を食う魔物ってこんな姿だった気がする。それが、目を見開いて、大口を開けて、私に



目が覚めた。制服のまま眠ってしまったからか、ひどく汗をかいている。

少しの間、動く気になれずに天井を見てたが、ふとどのくらい寝ただろうと気になり、時計を見る。

深夜は十時を指していた。

さっきが、ええと、五時だったから…五時間は寝てる。その割に疲れはとれていない。

変な夢を見た気もするが、もう忘れてしまった。早く日記にでもつけておけばよかったかもしれない。

窓を開けると、冷たい風が吹き込んできた。そう言えばもう直に秋だ。

私の学校は中高一貫で、そのまま高校に上がることができる。とはいえ、そろそろ勉強を始めなければな、とも思う。

穴のような空に浮かぶ、やけに明るい月が、私のことを見下ろしているような気がした。


翌朝、私は自室の窓から日の出を見た。

結局昨日、ではなく、今日は眠らなかった。

(やっぱり国語は厳しいかな)

次のテストの過去問、先生の趣味なのか気持ちを問う問題が多く出ていた。

他の教科がそう悪くない分、国語だけ抜けてよくないのは気分が悪い。

技法は獲れる。要約と漢字も問題ない。しかし深読みはどうも苦手だ。

さっさと準備をし、今朝解けなかった問題を思い出しながら、家の戸を開けた。

「いってきます。」返事は当然、ない。母親はもうとっくに出ていた。

「あっ、お早う春ちゃん」

丁度通りかかったであろう友人が、振り向きざまに声をかけてきた。

「お早う、珍しいね、夏木がこの時間に居るなんて。」

靴を整えながら返事をする。友人、夏木は鞄を行儀よく前に持ち、門の前に立っていた。

「なんか変な夢みて眠れなくてね、偶には一緒に行こう。」

もう冬服を着た私とは対に、いまだに夏服の夏木が誘う。

…やっぱり、似合うなぁ。

二つ結びにした髪と、半袖が風に揺れた。


学校についても、勉強に身が入らなかった。

今朝考えようとした問題はとっくにあきらめてしまったが、今度は昨日読んだ見覚えのない章が気になる。

何故か彼が話しかけている相手は主人公ではなく、いや、確かに主人公ではあるのだが、そこに自分が重なってもいる様な気がしたし、逆に彼は私の代弁者であるような気もしてくる。

考え過ぎだろう。きっとあの章は覚えこぼしだろうし、あの描写にももっと深い意味がある。

そう思いつつも、やけに冴えた頭は放水中のダムの如く言葉を紡ぐ。思考が止められない。

そうして、三時限目にはもう疲れて、ひと眠りかましてしまった。なんとかそこで頭は停まったが、徹夜明けの痺れた頭では午後の授業に集中できるはずもなかった。

そして、今。放課後の空き時間。私の目の前には再び亜季がいる。

「―でさぁ、このシーンの続きが問題なんだよね。」

亜季が、書きかけの小説の端を指した。

「構想はあるんだよ。こう、ここでエニが何というかずばーっとやって、でーんってなって―」

身振りを交えて、亜季が必死に説明する。彼女には見えているのだ。彼女の中にある剣と魔法の世界、その中で争う主人公の姿が。

なんだか、周りの音が急に小さくなる。

「―走って、跳んで、壁を頼りに跳ねるの。それで龍の頭上に―」

息を吸う。無意識に。

「『エニが、その剣を振り下ろす。ワイバーンは怯み退くが、そこを見逃すサナではない。近づく彼を援護するエニは跳ぶ。意識は彼女に向く。

その間にもサナは進む。背後から龍のうなじをしかと見つめて、手に持つ鎖の鞭を振り上げ―』…」

はっと、我に帰る。気がつけば描いていた。失礼をしたかと思い亜季を見る。彼女は驚きと喜びに満ちた顔で

「ぴったりだよ…!すごくしっくりくる一節だ!」

私を褒めた。すぐさまに持っていた手帳に走り書く。まるで糸のような字だった。

「ありがと!助かったよ。ワイバーン戦さえ終わっちゃえばあと帰るだけだから。ほんとありがとね!」

精一杯の感謝を投げて、亜季は自分のクラスへと帰っていった。

なんだか頭が痺れる。高揚する。靄が晴れたようだった。

あの章、夢、昨日の窓の発想から起きた不思議なことがするするとつながる。作為を感じるほどに不自然なこの流れは、私に一つの決意を与えた。

私は窓になろう。

作品とは、世界を透かしてみるための窓だ。

そして、窓のうちに在る部屋こそが作品世界なのであり、物語は窓から見える部屋の一部に過ぎず、創作は窓を開けるための作業だ。文体・絵柄は窓の色だし、様々に含まれる技巧の数々は、さしずめガラスを磨く布だろう。

表現を持たないという事は、窓を持たないという事なのだろう。

私は窓を開けられた。ならば、持たないのは世界、部屋の方だ。

それなら私は、あの扉の作者のように、窓を持たない者の窓に成ろう。

そんな事を、中学三年生の秋に思いついた。

開いた窓から、木の葉が落ちる音がした。

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春夏秋冬の章 asteain-ninia @asteain-ninia

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