第2章

明日への約束


 夕方になると急に焦り出したり、明日への準備で胸がいっぱいになるけど、そのときのわたしはそんな贅沢もできないほどに――。


「ほら、ちゃんと歩いて」

 ナスナは振り返り、呟いた。

 ステンドグラスを透かす光が足元を七色に染めていて、綺麗で、できれば踏まずに飛び越えたいと思ったが今はそんな力も出ない。

 わたしの泣き疲れた空っぽな心は欠けた穴を埋めようと必死だった。無気力なままにただナスナの背中を追う。

 あれから、わたしとナスナは列車に乗ってガラスの町まで戻ってきた。随分と長い時間がかかって、太陽が昇って、沈んで、もう一度昇って、そして今再び沈もうとしている。

 夕焼け色のガラスの町はオレンジの輝きを彼方此方に放り出していて、それがあまりにも綺麗だから、わたしの胸を締め付けた。そんなことしなくても、今のわたしは歩くのでも精一杯なのに。

「……コトコ、いい加減にしてよ」

 前を行く背中から鋭い声が聞こえた。

「全部、コトコが選んだことでしょ?」

 ナスナは怒っていた。そりゃそうだ。ここまでずっと、こんな置き物のようなわたしに連れ添ってくれたんだ。疲れて当然。

「……ごめん」

 わたしが謝ると、ナスナはそれ以上のことを言わなくなった。

 坂道の下に海が見えて、ようやくヒカリ屋まで帰って来れたんだと胸を撫で下ろす。海も今日は一段と静かな気がして、海岸沿いの道に微かな波音が聞こえる。

 藍色の空には月が浮かんでいる。ひとつたりとも言葉を交えずただせっせと歩くふたりを見下ろして、なにを想っているのだろう。

「……イトエさんに迷惑かけたら、許さないから」

 しばらく経って、ナスナが口を開いた。もうヒカリ屋の明かりが道の先に見えるほど近くになっていた。

「……うん。わかった」

 左右に揺れるポニーテールも素っ気なく、でも今のわたしにはそれぐらいの方がちょうどいいな、と思った。

 扉を開けるとアオナさんが道具の片付けをしていて、恐らく、万華鏡作りに必要なモノなのだとわかった。

「あら、おかえりなさい。遅かったですね」

「……ただいま」

 ナスナはわたしと目を合わせることなく、二階へ上がっていく。アオナさんは少し戸惑った様子で「ナ、ナスちゃん? 不機嫌?」と聞いた。

「……私、いつまでもぐじぐじしてる人、嫌い」

 小声でそんなことを言われた。

 アオナさんはなんとなく状況を理解したようで、わたしの顔を見て、微笑んだ。

「頑張ったんですね。……今日は美味しいモノいっぱい作りますから」

 その微笑みに帯びた優しさが懐かしくなって、わたしはまた涙を滲ませた。そしてそれが流れないように、スカートの裾を握りながら堪えた。

 アオナさんは頭をそっと撫でてくれて、それからキッチンへ向かった。



 4人で囲む夕食はなんだか物足りなくて、焼き魚は美味しかったけど薄味だった。

 ナスナはやっぱり怒っているみたいで、険しい顔をしながら真っ白なお米を口へと運ぶ。アオナさんはそんなわたしたちを少し心配しているみたいでおどおどと。箸を使う手もぎこちなく、何度か煮物を落としていた。

 そしてイトエさんは、なにも言わなかった。

 食べ終わり、わたしひとりで皿洗い。いつもならナスナが熱々のお茶を飲む頃だけど、颯爽と部屋に戻ってしまった。

 汚れたお皿が一枚一枚綺麗になっていく様子を見て、洗剤の泡が排水溝に溜まっていく様子を見て、隣にいたはずの彼女のことを思い出す。やっぱり、ひとりで洗うのは大変だな。時間もかかるし。きみがいてくれればな……。

 鼻をすする。手が震えてお皿を落としそうになるけど、なんとかグッと留めた。

 ……こんなの。

 ……こんなわたしを見たら、きみはなんて思うかな…………?

 わたしは目をこすり、「ふうッ」と息を吐いて、皿洗いに集中した。今はなにも考えないようにしよう。それがいい。きっときみも、それを望んでる。



 しばらくして、イトエさんがやって来た。黒く汚れたタオルで顔を拭きながら、わたしに声をかけた。

「コトコ、ちょっとこっちにおいで」

 言われるままについていくと、イトエさんはわたしを工房に入れてくれた。工房では、アオナさんが真剣な面持ちで木を削っていて、万華鏡作りを教わっている様子。いつもふんわり柔らかいアオナさんの表情がそのときばかりは別人のように熱く鋭い眼差しで、わたしは目を離せなかった。

「アオナ、悪いが少し席を外してくれるかい?」

「え、……あ、はい…………」

 アオナさんは立ち上がり、わたしに一礼して、工房から出て行った。その洗練された動作はやっぱりいつものアオナさんだったけど、額にかいた汗が、汚れた指先が、並々ならぬ努力を感じさせる。

「そこに座りな」

 イトエさんは椅子を出してくれて、わたしは恐る恐る座る。木製のひんやりとした感触が太ももの裏に走る。

 先ほどまでアオナさんが使っていた道具をおもむろに持ち上げて、イトエさんはなにやら作業を始めた。万華鏡作りのようだ。

 じっと、その背中を見つめる。

「……昔ね、灯台の光をもっと遠くへ飛ばすため、偉い学者が研究をしていたんだ」

 木を削りながらイトエさんはそんなことを話し始めた。

「きっと、暗闇を漕ぐ旅人に道を示せますように、……そんな想いがあったんだろうね」

 天井から吊るされた灯りが部屋にほのかなオレンジを伸ばしていて、大きな背中を力強く映している。

「彼は血の滲むような努力の末、あるモノを見つけた。作り出した。……それが万華鏡。万華鏡は偶然の産物なんだ」

 わたしは目の前に置かれている未完成の万華鏡に目を落とした。……そんな歴史があっただなんて、知らなかった。

「……素敵だよね。小さな願いが世界中のみんなを笑顔にしたんだ」

 ――笑顔。

 わたしはひとりの笑顔を想い浮かべる。あの――、わたしを安心させる微笑みを。傷を隠す含み笑いを。ありがとうを伝える泣き笑いを。はしゃぐ大笑いを。褒められたときの照れ笑いを。バカにしてくる高笑いを。そして手を振った、満面の笑みを。

 ……じわり。瞳に熱いモノを感じて、我に返る。

「あんたに似てるよ」

 イトエさんは柔らかい声でそう言った。

「あんたも、あの子のために必死に頑張ったんだろ? あの子のために心を鬼にしてまで離れることを選んだんだろ?」

 わたしは手と手をぎゅっと結んで、握る。

「……あんたの選択は間違ってない。だって、あの子は笑顔になれたじゃないか。あんたの想いが、あの子を笑顔にできたじゃないか」

 静かに、頰に冷たいなにかが流れた。

「いいかい? だれかを笑顔にするなんて簡単にできることじゃない。もしかしたら、世界で一番難しいことかもしれない。大切な人なら、尚更ね。……でも、あんたはそれをやってのけた。すごいことだよ」

 イトエさんは作業をしたままでこちらを振り向いたりはしない。だけどわたしの表情のすべてを見られているようで、そっと涙を拭う。

「だからもう、いいんだ。あの子のことで苦しまなくていいんだ。寂しさは時期に消えて、想い出はきっと強さになる。……あんたはもう、ほかのだれかを笑顔にしてやればいいんだ」

 次々と溢れ出す涙をグッと堪えて、わたしは頷いた。何回も、何度も何度も、頷いた。

 そしてイトエさんは、今までで一番優しい声で、こう言った。


「――――ナスナを、笑顔にしてやってくれ」


 わたしは驚いた。

「頼んだよ」

 そう、イトエさんは付け足した。

 その言葉の本当の意味を、わたしは知らなかった。わたしにナスナを笑顔になんてできないと、そう思ったりもした。でもイトエさんはようやくこちらを振り向いて、そして笑って、「大丈夫。あんたの元気は折り紙付きだ。絶対にできるよ」と言った。わたしは少しだけ、胸に手を当てて、信じてみることにした。

 …………。

「お風呂、沸きましたよー」

 アオナさんが戻ってきた。その後ろにはちょこんとナスナが隠れていて、なにやらぶっきらぼうだった。

「コトコ、入っておいで」

 イトエさんはそう言ってくれた。わたしは立ち上がる。するとアオナさんがナスナの背中を押して、無理やりわたしに近づけようとした。ナスナはすごく嫌がっていたけど、「ほらナスちゃん、ちゃんと言うんでしょ?」とアオナさんに説得され、少し大人しくなった。

 わたしの前で固まるナスナ。じっと足元に目を落とし、訝いぶかしげ。

 …………?

 しばらく黙り込み、――その顔はやがて赤く染まっていって、真っ赤になって、沸騰しそうになって、そしたら小さく口を開いた。

「……一緒に、入る」

 ……ん?

 ……えっと、お風呂のこと?

 …………だよね?

 わたしは静かに「うん」と返した。

「イトエさんもそろそろお休みにならないと、お身体に障りますよ」

 アオナさんのそんな声を背中に受けて、わたしとナスナはお風呂場へ向かった。



 ふたりだけの浴槽は空っぽな感じがして、妙に広くて、冷たくて、音ひとつなかった。髪から滴り落ちた雫が波紋をつくって、それをぼうっと眺めているとナスナと目が合って、逸らされた。

 ナスナはなにか言いたそうに口を開いたり、閉じたり、……それがまるでコイが口をパクパクさせるようで、わたしは思わず笑ってしまった。

「な、なんで笑うの」

「ごめん。……なんかおもしろくって」

 わたしは込み上げてくる可笑しさを堪えて、口元まで浸かりぶくぶくした。

 すっかり夜も更けて、窓の外は真っ暗だった。沈黙の中、波の音だけが聞こえてきて、鼓膜を心地良く揺らす。ぷかぷか浮かぶアヒルさんは少しだけ泳ぎやすくなった小さな湖をスイスイと進む。

 そしてようやく、ナスナが喋り出した。

「……今日は、ちょっと冷たかった。……かも」

 ちょこんと顔を出した膝に目を落とし、顔を真っ赤に染め上げるナスナ。その一連の仕草が愛らしく、わたしもなんだかドキッとしてしまった。

「ううん。落ち込んでばっかのわたしが悪いんだもん。怒って当然だよ」

 わたしがそう言うと、ナスナはやっとこちらを見て「別に怒ってない」と言った。

「……ただ、……コトコがそんな顔してたら、きっと心配するよ。……向こうで友達、つくれないよ」

「……うん」

「だから、――――」

 すると、ナスナは言葉に詰まったようで口を閉じた。しばらく考えて、それから首を横に振って、「……違う」と呟いた。

「違う。……違う」

「ナ、ナスナ?」

「私が言いたいのはそういうことじゃない。私が言いたいのはッ――――」

 今までに見たことのないような力強い視線を向けられた。まるでだれかにつねられたみたいに真っ赤な頬と、ちょっと潤んだ瞳がナスナの必死さを物語る。

 しかし、それもすぐに引っ込めて再び俯いてしまった。

「……ひとりだなんて、思わないで…………」

 泣きそうな声だった。

「私だって、寂しいんだから」

 わたしはナスナの肩が小刻みに震えているのを見て、ようやく気がついた。――ナスナも、本当はすごく寂しかったんだ。でもわたしがずっと泣いて落ち込んでいたから、だから言わなかったんだ。言わないでいてくれたんだ。

「……ナスナ、」

「ダメ。なにも言わないで」

 ナスナはそれからバシャンッとお湯を顔に被って、いつもの表情に戻った。濡れた前髪がいつもの綺麗なストレートに代わってぐしゃぐしゃしていて、新鮮だった。

「……今日だけは、今日だけは許してあげる。だけど明日もそうやってぐじぐじしてたら追い出すから。追い出して、海の底へ沈めるから」

 ……怖いなッ。悪魔かッ!

 わたしがビクビクしていると、ナスナは少しだけ微笑んで言った。

「……でも、明日もし、またいつものように笑ってるなら、そのときはそばにいてあげる。そばにいて、またいつものようにいじわるしてあげる」

 初めて見たナスナの優しい微笑みに、傷が癒えていくような、どっしり重たかったなにかが消えていくような、そんな感じがした。

「もちろん期限付きだけど。……いつまでも私の部屋に居座らないでよね。早く新しい飼い主見つけて」

「わ、わたしはペットじゃないッ!!」

 笑うナスナ。柔らかい笑みで、いつの間にかわたしも笑っていた。

 なんだか時間が動き出したみたいだった。どんよりとしていた視界が晴れて、朝の光をいっぱいに浴びて、すくすくと太陽めがけて伸びをする。……夜なのに、変なの。

 お風呂から上がり、今夜もナスナのパジャマを着る。鏡に映るふたりの頭はすごくちっちゃくて、わたしが背伸びするとナスナも負けじと背伸びした。どんぐりの背比べ、……なんて言わせない。

 コップに並んだふたつの歯ブラシは寂しそうだったけど、まだそばにいてくれている幸せをわたしに教えてくれた。



「……ねえ、今日は一緒に寝てもいい?」

 思い切って、わたしは聞いてみた。

 するとナスナは仕方ないな、といった顔で「……いいよ」と答えてくれた。

 小柄なわたしたちだけど、ひとつのベットではさすがに狭くて、わたしの手がナスナの腕や肩に触れたり、ナスナの髪がわたしの顔にかかってくすぐったかったり、……まあ大変だった。

「……くんくん。ナスナの匂いがする」

「やめて」

「やめない。……くんくん、うん、ナスナの匂いだ」

「やめてってば」

 真っ暗な部屋は月明かりだけで照らされていて、朧げで幻想的で、なんだか少し切ない。天井を見上げると乳白色の光が広がっていて、眠くなる。

 わたしは寝返りを打って、ナスナの背中に自分の背中をピタリと合わせる。息のタイミングがズレて、それが気持ち悪くて、頑張って合わせようとする。

「……ちゃんと友達できたかなぁ」

 ぼんやり、わたしは呟いた。

「……お母さんに会えたかな」

 冴えない頭に浮かんだ言葉をひとつひとつ放っていく。

「……わたしのこと、覚えてるかな」

 瞬間、――ナスナの呼吸がピタッと止まって、それからすぐにまた息を吐き出した。

「……大丈夫。コトコのことなんて忘れられるわけないよ。トラウマ級の想い出だよ」

「それ、励ましてるの?」

「一応」

「不器用なヤツ」

「うるさい。早く寝て」

 ……むう。

 さっきまでの優しいナスナは何処いずこへ。ほんと、この子とふたりきりは疲れるよッ、……はぁ。

 わたしはそんなことを思いながら目を閉じた。

 目を閉じると、瞼の裏にたくさんの笑顔と優しさが浮かんだ。わたしの大親友のモノだ。とても素敵で、生涯忘れない、生まれ変わっても忘れない、大切な想い出だ。

 ――わたしはこれからも、それを抱えながら生きていこう。いつか彼女に逢えたなら、そのときには想い出話としていっぱいいっぱい語り明かそう。朝までベッドの上で笑いながらお喋りしよう。だから、少しだけ、胸の隅の方で待っていて。ごめんね。

 明日からはまた新しい想い出をつくろう。彼女が嬉しそうに聞いてくれるようなそんな楽しくて面白い素敵な想い出をいっぱいいっぱいつくっていこう。その想い出の中に、もしナスナがいたならば、それはすごく幸せかもしれないな、なんて思ったりもしよう。

 ――だからわたしは、――――。

 ひとつ、やりたいことが見つかった。明日からのことなんてなにもわからないわたしだけど、ただひとつだけ、笑顔でいられるような場所を見つけたんだ。

 目覚めてもその想いが変わらなかったら、打ち明けてみよう。……大丈夫、きっと変わらない。

 明日の朝が楽しみだ。なんて贅沢な時間なんだろう。

 やがてごちゃごちゃしていた頭の中がさっぱりしていって、なにも考えられなくなって、わずかに開いた口が静けさの中、こう言った――。



「……おやすみ、リンカ」



 ――ありがとう。

 その夜、どんな夢を見たのかは思い出せないけど、それでもすごく幸せだったことは覚えている。





 そして翌朝、寝起きの悪いナスナを叩き起こして、わたしは階段を下りる。

 お味噌汁の美味しそうな匂いが香ってきて、思わずダイニングへつま先を向けてしまうが、ダメダメッ。今朝はその前にやらないといけないことがある。言わないといけない言葉がある。

「どこ行くの?」

 ナスナが眠たそうな目をこすりながら尋ねてきた。

「ちょっとね」

 わたしは悪戯に笑った。ナスナは不思議そうな顔をした。

 階段を下りると、ショーケースに並ぶ万華鏡を磨いているイトエさんの背中が見えた。近くにアオナさんもいて「朝ごはんできましたよ」と呼びかけている。

 わたしはそんなふたりのそばへ寄って行って、アオナさんの「おはようございます」も降り払って、それから、――それから土下座をした。

 驚くふたりと、ナスナの視線を受けて、――そして朝には似合わない大きな声でこう言った。




「――――ここで働かせてくださいッッッ!!!!」



 冒険が始まる、――そんな予感がした。

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