友達


 大切なモノほど壊れやすく、どうでもいいモノほどあたたかいから。


 夕日が沈んでいく。オレンジ色の輝きはまるでわたしを応援してくれているかのようで、不思議と駆け足になる。

 ――待っててリンカ、必ずガラス玉を持って帰るから。

 わたしは走る。夕方の町を疾走する。

 日が落ちたら手遅れかもしれない――なんとか太陽のいるうちにケリをつけなきゃ。

 サンダルを脱いで、素足が真っ黒になるまで駆け抜ける。

 何人ものヒトとぶつかって、そのたびに謝って、石ころを踏んずけて泣きそうになって、そのたびに我慢して、上がる息と痛む横腹を抑えながら、死に物狂いで前に進む。

「はぁはぁはぁはぁッッ!!」

 馬車に轢かれそうになってドキッとした。八百屋の野菜たちに衝突してめちゃくちゃ怒られた。でもめげなかった。わたしは負けていられないんだッ!!

 塔が大きく見えてきて、もうすぐだ、と交差点で足踏み。お店の窓に映るひどい顔を見て苦笑するも、パンパンッとほっぺたを叩いて気合いを入れ直す。乱れた髪は風を受け、額に汗でくっついていた。

 走り出す。……大丈夫、まだ太陽はいてくれてる。

 頑張ろう。頑張って。頑張れ、コトコッ!! わたしがリンカを笑顔にしなきゃッ!!!



 塔に着いた頃にはもう既に夜の虫たちが鳴き始めていて、木漏れ日のわずかな光では少々薄暗かった。

 リンカのガラス玉は……、うん、まだ窪みに引っかかったままだ。風が吹くとわずかにだがガラス玉が揺れているような気がして、わたしは焦る。

 辺りを見渡す――まずは塔を囲う池を越えなければならない。なにか橋になるようなモノはないかな……。

 池を一周ぐるっと回って、橋代わりを探す――と、木の枝が塔まで伸びている大樹を発見した。青緑のコケを身にまとう、この森の長おさのような木だ。これなら木登りして、枝を伝って、塔まで行けるかもしれない。それから外壁の窪みに足をかけて、ちょっとずつちょっとずつガラス玉まで近づいて……、よし、なんとかなりそう。

 悩んでいる暇はない。この作戦に賭けるしかない。

 わたしは大樹の前に立つ。そして手首に回したゴムでサイドテールをつくる。ナスナほど上手くはつくれないが、不格好でも気合さえ入れば良い。

 ……うん、いい感じ。ちょっとドキドキするけど、木登りは得意な方だ。

「大丈夫、わたしならできる。そりゃそうだよ。わたしは無敵なリンカの友達だもん。できないことなんてないよッ!!」

 そう強く呟いて、幹に足をかける。よいしょ、と力を込めて、脚力と腕力を集中。フルパワー木登り。脱ぎ捨てたサンダルにしばしの別れを告げて、よじ登る。

 えっさほいさ、えっさほいさ。

 コケはヌルッとしていて滑りやすく、そのせいで膝を擦りむいてしまったが、この程度どうってことない。傷なんて舐めときゃ治るんだし、気にせず行こう。

 …………。

 なんとか枝まで登ることができた。わたしのウエストぐらいある太い……じゃなくて、か細い枝で、ミシミシと軋きしむ音がしているけど、大丈夫かなぁ……。

「ごめんねー。ダイエット中だから許してねー」

 枝を撫で撫でしながらわたしは進む。下は池――落ちたら泥塗まみれ確定。押すなよ、押すなよ、……とだれもいないのに呟いた。

 枝から塔までには隙間があった。わずかな距離ではあるがジャンプをしなければ届かなそう。わたしは入念にシミュレーションを重ねる――枝の上を助走して、ジャンプッッ、からの塔の出っ張りに着地。うん、いい感じいい感じ。

 腕を広げて綱渡りをするように枝の上でバランスをとる。ふらふら。ゆらゆら。不安定。少しの風ですら命取りになりそうな危うさだった。

 ……下は見ない、下は見ない、下は見ない……。

 …………。

 ……見ちゃった。

 想像以上の高さに怯ひるみそうになる。落ちたら骨折で済むかなぁ……? 軽く尻込み。

 ダメダメ、失敗したときのことなんて考えないッ! 今はただリンカを喜ばせることだけを考えようッ!

 後退あとずさりする足を震えながらも止めて、前だけを向く。

 ……リンカの顔を思い出すと、自然と力が湧いてきた。友達はこうじゃなきゃね。

 …………。

 ……よし、行こう。

 深呼吸。ゆっくり立ち上がり、コースを見極める。

 大丈夫。行けるッ!

 行くぞッ!!

 クラウチングスタートからの――。

 ――走り出す。

 複雑に曲がった枝の上を全力疾走。足を止めちゃダメ。ただひたすらに塔へ向かって走れッ!!

「おりゃああああああああああああああぁぁぁぁぁぁッッッッ!!!」

 そして、枝の先端――ジャンプッッッ!!!

「えいッッッ!!」

 わたしは宙を舞った。

 バサバサバサッと羽根が生えたように身軽な体で、飛び立った。

 空気を切る。夕日を浴びる。

 湿気や熱風なんかもすべてぶっ飛ばして、ありったけの声をばら撒きながら、――そして今、舞い降りる。

 ――ドタッッ!!

 着地まで大成功。計算通り。一連の完璧な演技は宛らスケート選手みたい。

「や、やったッッ!!」

 はぁはぁ……と上がる息は疲れと緊張のハーモニー。そっと胸を撫で下ろして、落ちないようにすかさず窪みに手をかける。

 高さはたぶん15メートルぐらい。スカートだから人が通らないことを願う。

 これから塔の外壁を伝ってリンカのガラス玉を回収する。ボルダリングとかしたことないけど大丈夫かな? まあなんとかなるか。

 幸い老朽化からか塔にはいくつもの凸凹があって、そこに手をかけたり足をかけたりすればなんとかガラス玉までは辿り着けそうだった。

「よし、もういっちょ頑張りますかッ!」

 ふぅ、と気合を入れて、一歩踏み出す――右足のつま先に体重を預けて、次は右手を伸ばす。右手が突起を掴んだら、力を込めて、左手が置けそうな場所を探す。そして最後に左足。そうやって何度も何度も体重移動を繰り返す。とってもゆっくりだけど、だんだん体が覚えてきたのか、テンポはいい感じ。調子に乗ってすいすい進む。

 たまに鳩たちがわたしの様子を見に来て、首を左右に傾ける。その表情が馬鹿にしているみたいでムカッとしたけど、鳩たちは「クックー」「ぽっぽー」と声援をくれた。なんだ、いいとこあんじゃん。

 少しキツイかな、と思ったところも難なく(なんとか)越えられた。……あれ、わたし意外と才能ある? 開花させちゃってる?

 あと少し、もう少し、ほんの少し……。

 ガラス玉を目掛けて進み続ける。指先は痺れ、ふくらはぎはぷるぷると震えていた。さすがに疲れてきて、でも止まっているうちにも体力は奪われるし、暗くなってから移動するのは不可能だ。今のうちに頑張るしかない。

「よいしょ」

 進む、進む、進む。リンカのガラス玉が見える――わずか数メートル先で待っている。もうすぐだ。もうすぐでリンカを笑顔にできる。疲れなんか忘れて元気になれた。

「よしッッ」

 右手に力を込める。

 ――と、そのとき。

 ――外壁が音を立てて崩れた。

 ボロボロボロボロ……とコンクリートの塊が池へと落下する。水飛沫が上がる。驚いた鳩たちは一斉に逃げていく。

 わたしはコンクリートの欠片を顔に浴びて、体勢を崩した。そして左手だけが残った――生命線。指先が今、わたしの全身を支えている。

「や、やばいッッ!!」

 さすがに焦る。急いで右手を伸ばす――どこでもいいから掴まないとッ!! 一心不乱に手を伸ばす。さっきまでの追い風が嘘みたいに、わたしは逆境に立たされた。

 宙吊りになるように、わたしの足はぶらぶらと置き場を失くして彷徨い続ける。慌てるとその分、余計な力が入って疲労する。このままじゃまずい……。

 なんで……あと少しなのに……ガラス玉はもう目の前にあるのに……。手を伸ばせば届きそうな、ジャンプすれば触れられそうな、そんな距離なのに――。

 …………。

 ……ジャンプ。

 …………。

 わたしは危ないことを考えた。とても怖いことを考えた。でももうこれしかない。これしか残ってない。

 両の手にぐっと力を入れて、行き場を失くした足は壁を抑えて、――チャンスは一回。一度きり。絶対に失敗できない。しないッ。

 ボロボロボロ……外壁は次々に崩れていく。このまましがみ付いていたっていずれ壁もろとも池の底へ沈むだけだ。時間がない。やるっきゃない。

 わたしは目を瞑る。――心の中で何度も何度も「大丈夫」と言い聞かせた。



 ――――あたしが一緒なら怖いモノなし、……なんでしょ?



 ――うん。なにも怖くない。


 沈む夕日のオレンジがガラス玉に反射して輝いている。

 その輝きを目指して、わたしは壁を斜めに蹴り飛ばす。――そして手を離す。

「行っっっけえええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッッッッ!!!!」

 太陽は山の向こうに沈んだ。代わりに月が顔を出した。

 空はオレンジを失って、藍色が支配する。夜の生き物たちが欠伸をして、昼の生き物たちは寝床へ帰る。

 星たちは、目を覚ましてわたしを照らす――リンカのガラス玉を抱えながら落下するわたしを照らす。

 ……しっかり、届いた。

 ……やったよ、リンカ。

 リンカのガラス玉は確かにわたしの手の中にある。それを胸元にぎゅっと抱きしめて、「離すもんか」と呟いた。

 どうせ泥だらけになるなら最初から池を突っ切ってくれば良かったな、なんてたわいないことを考えながら落ちていく。夜風をまといながら落ちていく。

 これでハッピーエンド。わたしもリンカも無事にガラス玉をゲットできた。あとは万華鏡で記憶を辿って、ここに来た使命さえ果たせれば、……めでたしめでたし。

 幸せが心を覆った。


 ――はずだった。


 ――そのとき、わたしのポケットから小さな輝きが溢れ出した。

 輝きの群れはポケットを離れ、空気抵抗という名の向かい風を受けながら、真っ直ぐ池を目掛けて落下する。



 ――わたしのガラス玉がひとりでに飛び出して、それからゆっくりと落ちていったのだ。



 や、やばいッッ!!

 いくら下が池だと言っても、この高さから落ちて無傷で済むはずがないッッ!!!

 宙を自由に踊るガラス玉へと手を伸ばす――が、掴む暇もなく、わたしは池にぶつかった。ドボンッと鈍い音を立てながら、沈んだ。コイたちは驚いてすぐさま退散する。

 わたしは水の中で、水の底で、小さな輝きが割れて粉々になる様子を見た。それは紛れもない、わたしの記憶の欠片だった――。

 ――ザバーンッッ!!

「はぁはぁはぁッッ!!」

 池から顔を出して、必死に息を吸い込む。ありったけの酸素を肺へと送る。どうやら濁った水を飲んでしまったようで、「ケホッケホッ」と軽く咳き込んでしまった。

 リンカのガラス玉は……、大丈夫。しっかりこの胸に抱えている。夜の中、放つ輝きにほっとする。良かった、わたし、ちゃんとやり遂げたんだ……。嬉しさと感動と目一杯に吸い込んだ酸素で胸がいっぱいだった。

 ――でも、――――。

 ぷかぷかと浮いてくるガラスの塊たち――それはガラスとしての役目を終えたからなのか、煌めきを忘れ、重さを捨て、まるで抜け殻のようだった。

 そっとすくう――軽かった。わたしの記憶は……、抜け落ちてしまったのかな。

 泥だらけの顔に涙の筋ができる。それがひとつ、ふたつ、と波紋をつくっていく。

 どうしよう。止まらない。涙が止まらない。

 ――割れたガラス玉。残った破片たちは水面にゆらゆらと浮かんでいる。

 その、どうにもならない現実に胸が締め付けられる。

 ……こんなのってないよ…………。

 わたしは呆然と、波の立つ池の中立ち尽くした。震える体は冷えたからなのか、それとも悲しいからなのか、わからなかった。



「――コトコ、」


 突然声が聴こえてきて顔を上げる――と、そこにはナスナが立っていた。ナスナは走ってきたようで、荒い息と乱れた前髪がそれを教えてくれる。

 わたしは慌てて涙を拭いた。

「ナスナ……」

「勝手にいなくならないで。心配になるッ」

「……ごめん、つい。……居ても立ってもいられなくなって」

「馬鹿じゃないの。……でも、ってことはやっぱりそれは、――リンカの?」

 ナスナはわたしが手に抱えるガラス玉を指差した。わたしは「うんッ。頑張ったんだよ」と無理やり笑顔をつくった。

「じゃあ……、それは――――」

 今度はわたしのガラス玉を指差した。ガラス玉だったモノを指差した。

「うん。……割れちゃった」

「割れちゃったって、……コトコ、その意味わかってるの?」

 ナスナの声色はいつもと変わらないけど、どこか怒ったように感じた。

 わたしはナスナにリンカのガラス玉を預ける。「これ、綺麗にしてあげて」とそっと掌に置いた。泥だらけのガラス玉はわたしのとは全然違くて、今でも輝きを放ち続けていた。

 ナスナは心配そうな目でこちらを見ている。……やめて、今そんな顔されたら泣いちゃうから。

 水面に浮かぶ破片たちを集めて、手の中に委ねる。それはまるでプラスチックのようで、ガラスの鋭さも、握った時の痛みも、なにもなかった。

「……空っぽ」

 涙をぐっと堪える。もう泣かない。ナスナの前じゃ絶対に泣かない。池の水を顔に浴びて、誤魔化した。



「ちょっとナスナ、足速すぎッッ!!」

 わたしがちょうど池から上がった頃に、リンカが遅れてやって来た。かなり疲れた様子で膝に手をついて「はぁはぁッ!」と息を整えている。

「……ごめん」

 ナスナは謝った。聞こえないぐらい小さな声だった。

 汗ばんだふたりのシャツから、だいぶわたしを探し回ってくれたんだと伝わった。熱気を帯びている頰に、自分のどんどん冷えていく頰が妙に切なかった。

 わたしはガラス玉の破片を背中に隠す。リンカには、心配かけたくない。

「ちょっとコトコ、泥だらけじゃんッ!! どうしたのッ!?」

 驚いた表情のリンカにわたしは微笑んだ。

 ナスナは俯いている。なにも言わない。……うん、黙っててくれてありがと。

 リンカはしばらく考えて、まさか、といった表情で塔を見上げた――もちろんそこにガラス玉はない。窪みは隙間を空けて風通し良さそうにしている。

「……ガ、ガラス玉は?」

 硬直するリンカに、ナスナはガラス玉を差し出す――心成しか、輝きが増したように思えた。

「わたし、頑張ったんだ。えへへ」

 笑ってみせる。「褒めてくれてもいいんだよ?」なんて言って、溢れそうになる気持ちに蓋をする。

 リンカはゆっくりとガラス玉へと手を伸ばす。震える指先を眺めて、なぜかわたしとナスナも息を呑む。

 …………。

 ――触れた。

 その瞬間、大粒の涙が流れた。地面に当たって、染みになった。ぽろ、ぽろ、と真ん丸の涙がリンカの目から止まらない。

「あ、あたし……どうして泣いて…………」

 リンカも、なぜ泣いているのかわからないようだ。何度も何度も手で拭い、それでも溢れて止まない涙に少しずつ身を任せて、終いには思いっきり泣いた。夜の中、少女の嗚咽が響き渡る。

「……コ、……コトコ……あり、……ありがとう…………」

 途切れ途切れの礼をわたしはしっかりと受け止めた。「どんなもんじゃい」と鼻を高くしてみせた。ナスナは余計なことは言うまいと、じっと地面に目を落としていた。

 リンカが握りしめる涙でびっちゃびちゃなガラス玉には3人が反射している――泥だらけのわたしの顔と、俯いているナスナの顔。そして泣きじゃくるリンカの笑顔。わたしはちゃんと友達を笑顔にすることができたらしい。――そのことがただ、嬉しかった。





 ヒカリ屋の前ではアオナさんが待ち惚ぼうけを食わされていた。あまりに帰るのが遅いナスナを心配して待っていたのかと思ったら、どうやらその心配の中にはわたしとリンカも含まれていたようで、わたしたちは今夜もヒカリ屋でお世話になることになった。

「まあどうしてそんな泥塗れなんですかッ! 大変ッ! すぐにタオルを持って来ますねッッ!!」

 アオナさんは慌てている。そりゃそうか。頭には見知らぬ植物を育て、服は茶色く染め上げて、肌には泥と、ときどき傷も。帰って来る途中、どれだけの通行人に二度見されたかもわからない。超猟奇的なファッションだ。

 借りたタオルで軽く体を拭いて、それから店内に入る。

「やっと帰ったか」

 イトエさんはショーケースの掃除をしていて、わたしに気付くと「あれほど忠告したのに、無茶したね?」と呆れた様子を見せた。わたしはなにも言い返せず、黙り込んだ。

 するとナスナがイトエさんの方へ寄って行って、耳元でなにやら囁いた。いつもの甘えた表情ではなくどことなく真剣な眼差しだった。しばらく経って、イトエさんはわたしに「晩ごはんの前に、シャワー浴びて来な」と少し優しめなトーンで言ってくれた。……そっか。ナスナ、わたしの代わりに全部説明してくれたんだ……。ナスナを見ると目が合って、プイッと顔を背けられた。小さく「ありがとう」とわたしは返した。

「……なにかあったの?」

 リンカが不思議そうな目で問いかけてきた。

「なんでもないッ」

 わたしはニッと笑う。リンカの表情は緩まなかった。

「それよりリンカ、万華鏡作ってもらいなよ」

「え、でも……」

「いいからいいから。ほら、」

 リンカの背中を押す。やや強引に。そうでもしなきゃ、リンカはわたしに遠慮するだろうから。

 イトエさんは状況を把握したからか、簡単にオッケーしてくれた。

「仕方ないね。……朝までに作ってやるよ」

 そう、リンカを見て、それからわたしを見て、言った。リンカは「ありがとうございます」と嬉しそう。それからふたりは万華鏡についてのあれこれを相談し始めた。色はどうしたいか、形はどうしたいか、装飾はどんなモノを付けたいか、……などなど。

「じゃあわたし、シャワー行ってくるね」

 わたしはひとりお風呂場へ向かった。背中にナスナの視線を感じたけど、今はちょっと、振り向きたい気分ではなかった。



 なんだかドッと疲れが出て、シャワーを浴びながら眠りそうになった。危ない危ない。

 排水溝に茶色の水が流れていく。汚れが剥がれ、肌色を取り戻した体が鏡に映る。目の下が赤くて、あのときのリンカみたいだな、と思う。

 ……わたし、なにしてるんだろ。

 言葉が出なかった。ただ失意のままに立ち尽くした。

 これから、どうしたらいいんだろ。

 体が妙に寒くて、重くて、苦しくて、……。

「タオル置いておきますね。パジャマはあとでナスちゃんが持って来てくれるので」

 浴室の外からアオナさんの声が聞こえてきた。わたしは不安や後悔を悟られないように「はーい!」と元気良く答えた。

「終わったらダイニングに来てください。絆創膏、用意したので」

「あ、ありがとうございますッ!!」

 わたしはまた切なくなって、シャワーに紛れて、ちょっと泣いた。

 一頻ひとしきり泣いたら、少し気分も晴れて、鏡の前で笑顔の練習をしてみる。……うん、可愛くないな。ちゃんと笑えてない。リンカがいつもするようにほっぺたをつねり、無理やり口角を上げてみる。それでもやっぱり不細工なままだった。

 風呂桶の中に転がるアヒルが不思議そうな目でこちらを見つめていた。「わたし、ちゃんと笑えてるかな?」と笑顔を向けてみるが、反応は薄い。

 …………。

 少し考える。

 今のわたしに、トンネルの向こうへ行く資格はない。ガラス玉を失い、記憶を取り戻す術もない。もう、どうすることもできない。

 ――だったら。

 ……だったらせめて、リンカだけでも行って欲しい。それが今のわたしの精一杯の願いだった。

 …………。

 でもきっとリンカは優しいから、わたしのことを待つって言ってくれると思う。わたしのガラス玉が割れてしまったことを知っても、それでも他に方法を探すと、一緒に探すと、そう言ってくれると思う。だけどそんなの、いつになったら叶うのかもわからないよ。……もしかしたらわたしはこのままずっと、この世界に――。

 …………。

 ひとりでいると、あれこれ考えてしまう。せっかく晴れた気分もすぐ曇る。……ダメだな。よし、今日はいっぱいご飯を食べよう。そして忘れよう。アオナさんが作ってくれた絶品料理、今晩も楽しみだなぁ。

 浴室を出るとそこにはナスナが立っていて、わたしは軽い悲鳴を上げながら体を隠す。ナスナは「昨日見たし」と言った。……た、確かに。でもまあ恥ずかしいモノは恥ずかしいのだ。

 ナスナはパジャマを届けに来てくれたらしく、わたしはそれを受け取って、着替え始める。もちろん、体はちゃんと拭いたよ。

「ちょっとちっちゃい」

「うるさい。文句言わないで。すっぽんぽんで寝たいの?」

「ありがたく着させていただきます」

 着替え終わるとナスナが「髪、やってあげようか?」と尋ねてきた。櫛とドライヤーを取り出して、やる気満々である。……というか、たぶんお手入れしたくて待っていたのだ。目をキラキラさせるナスナに「うん、お願い」とわたしは言った。

 ブゥゥゥゥンと音を立てるドライヤーの熱風を浴びる。ナスナの器用な手付きはいつ見ても感心してしまう。

「はっくちゅんッッ」

「冷えちゃった?」

「ううん、だいじょーぶ……」

 ティッシュで鼻をかむ。ナスナは着ていた部屋着のパーカーをわたしに貸してくれた。……実はそういうナスナの優しいところに、ちょっとばかしキュンとしたりもする。普段は無愛想で不器用で、とにかくわたしを馬鹿にしてくるナスナだからこその、ギャップ萌え?

 ……それでも、今のわたしにはその優しさはちょっと痛いかな。いつもみたいに尖ってて欲しいのにな。

 無言が続く。ナスナはいつもより時間をかけてわたしの髪の毛を手入れしてくれた。なにか言いたそうなその口元の動きに、わたしは少し笑ってしまった。もにょもにょさせて、可愛かった。

 結局、ナスナはなにも告げずに作業を終えた。片付けをするナスナに「リンカは?」と尋ねると、どうやら海の方へ行ったようだ。どうしたのかな?



 堤防に腰掛けて夜の海を眺める細い背中を見て、そのあまりに強い哀愁に胸を打たれる。リンカの抱える遠い昔の切なさ、わたし、そのほんの一部しか知らなかったんだな、と思い知らされる。

 小さな足でアスファルトを踏んずける。

 波の音が心地よく、夜風がごちゃごちゃする頭を冷やしてくれる。これはいいや。わたしもしばらくここでまったりしようかな。そしたら気持ちも楽になりそう。

 リンカの隣に腰掛ける。ひんやりとしたコンクリートが肌に触れる。

「なにしてるの?」

「うん、……ちょっとね」

 ヒカリ屋からの明かりを背中に受けて、それが砂浜にふたりの影を映し出す。

「湯冷めしちゃうよ?」

「じゃあ温めて」

 わたしはハグをねだったが、リンカは自分の上着を脱いで、わたしに着せてくれた。今度はリンカのか……と変な偶然にほっこりした。

「なんか落ち着く、リンカの匂いがする」

「やめてよ、恥ずかしい」

「えへへ」

 温かい上着に体を丸めて風を凌しのぐ。膝に貼られた絆創膏が顔を出す。

「それ……、その傷……、今日の?」

 リンカは心配そうな表情でわたしを見る。「こんなの大したことないよ」と返す。するとリンカはさらに複雑な顔を浮かべて、喋り出す。

「ごめんね、怖かったでしょ。……あたしのために、そこまで…………」

「なに言ってんの。友達なんだから当たり前じゃん」

「……友達……、そっか」

 寄せては返す波の中に光輝く貝殻が揺れていた。それは砂浜に必死にしがみ付いていたけど、大きな波にさらわれて、そのあとのことはわからない。

「……目が覚めたらコトコ、どこにもいなくて驚いたよ。ナスナと慌てて探したんだから」

「その節はどうもすみませんでした」

「もうッ。一言かけてくれれば良かったのに」

「いやいや、そしたらリンカ絶対止めるじゃん。危ないことしないでって」

「まあ、確かに」

 ふたり、笑い合う。

 海に映る月の光が水平線まで道をつくっていた。どこに続いているんだろう、とわたしは歩いてみたくなる。

「……あたし、嬉かったよ。本当に。コトコがあたしのために頑張ってくれたんだって、そう思ったら、泣いちゃうくらい嬉しかった」

「……ふーん、そうなんだ」

 わたしは照れくさくなって、素っ気ない態度をとる。リンカは気にせず話を続ける。

「でもやっぱり、心配だったよ。コトコにもしものことがあったらどうしようって、怖かった。コトコの方がずっと怖い想いしてたのにね。……せっかくできた友達がいなくなっちゃう気がして、だから、必死に探したんだから」

「ご、ごめん……」

 少し怒った様子のリンカに分が悪くなって謝る――けど、「ううん、怒ってないよ。感謝してるもん」と返ってきた。良かった。

 月は雲に隠れて、それでも微かな光を雲の隙間から送っていた。その光景が綺麗で、目に焼き付ける。

「……友達っていいね。こういう感じなんだね。あたしなにも知らなかった」

「うん」

「生きてた頃に、コトコと出逢いたかった。そしたらきっと今みたいにすっごく仲良くなれて、朝には待ち合わせして学校へ行って、授業中には手紙なんか回して先生の愚痴とか書いてさ、それでお昼には一緒にごはんを食べて、放課後は部活で、疲れたらコンビニで買い食いして……」

「わたし的にはリンカの作るたまごサンドがいいけどな、コンビニ飯より」

「あはは、そっか。……じゃあ考えとく」

 よろしくお願いします、と深く頭を下げた。

「……あとはね、休みの日に遊びに行きたかった。これはガラスの町で叶っちゃったけど、遊園地行ったりとか、あんまり面白くない映画見て、その内容にあれこれ文句言ったりとか」

「それ、楽しいの?」

 わたしは疑いの目を向けた。

「楽しいよ、コトコとだったら楽しいはずだよ」

「う、うん。……ちょっと待って。リンカ、わたしのこと好きすぎじゃない?」

「あれ、知らなかった?」

「ううん、知ってた」

 また、笑い合う。

 ヤドカリがてくてくと砂浜を歩く姿を見送った。割に合わない大きな荷物を背負って、無表情で進むその様子は少しナスナに似てるな、なんて思った。本人に言ったらただじゃ済まなそうだけど……。

「そのときには、ナスナもいたらいいね」

 わたしは小さく呟いた。リンカは「そうだね」と頷いて、言葉を続ける。

「ナスナに美味しいパンケーキのお店、連れて行ってもらおう」

「うんッ」

「雨の日はお家で勉強会しよ。晴れたら外で美味しいモノ食べに行こ」

「わたしはダイエット中だから勘弁」

「うわー。ノリ悪いッ」

「ごめんごめん」

 波の音を掻き消すぐらいに、わたしたちはたくさん喋って、笑った。

 わたしは、今のような毎日が続けばいいなって、それだけで十分だなって、そう思った。

「あたし今、すごく幸せだよ。コトコのおかげだよ」

 …………。

「……ありがとう。あたしのために、ほんとにありがとう」

 その目に浮かぶ涙はわたしに向けられたモノなのだと気が付いて、わたしはようやく柔らかい笑みを返せた。

「でも、あたしのためにもう無理はしないで」

 リンカはそう言って立ち上がる。わたしは顔を上げてその表情を見る――と、そこにはもう切なさなんてなくて、清々しい、いつものリンカがいた。

「あたしにとって本当に大事なのは記憶でも生まれ変わりでもなくて、……コトコだから」

 ほっぺたをつままれる。いつもの感じ。なんかもうやられすぎて、その手に安心するようになっちゃったよ。リンカに飼い慣らされちゃったよ。

 悪戯っ子のように舌を出して、こちらを見つめるリンカ。わたしは立ち上がる――けど、リンカの方が背が高いから目線は合わなくて、背伸びする。

「わかってるよ。……でもでも、わたしだってそうだから。リンカがなによりも大事だから、だから頑張っただけだからッ。これからだって、リンカのためだったらなんだってするんだもんッ。無茶だって、無理だって、なんだってするんだもんッ」

 ……そうだ。わたしはまずリンカに笑顔でいてほしい。わたしのことなんてその次でいい。だから今は、悲しんでるときじゃない。

「このわからず屋ッ」

 リンカは嬉しそうだった。その笑顔がなによりもわたしを元気にした。

「こっちのセリフだよッ!」

 戯れ合う。砂浜に映るふたつの影はいつの間にか繋がっていて、カラフルなガラスを通す光も加わって、色鮮やかだった。そして、波も静かな夜の海にふたりの少女のはしゃぎ声がこだまする。とても楽しそうに笑う、わたしたちの声が――。



 しばらくして、ナスナがやって来た。わたしはなんとなく砂浜を歩いていたヤドカリに目を向けるが、もうそこにその姿はなく、本当にナスナだったんじゃないかと疑った。ナスナはそんなわたしの思考を読んだのか、こちらを睨みつけてきた。

「ふたりとも、ご飯できたって」

「おおッ! 今日のメニューはッ?」

 元気を取り戻したわたしを見てナスナもちょっとだけ安心してくれたのか、ようやくいつもと変わらない声で「おでん」と答えてくれた。

 おでんはリンカの大好物らしい。意外、……でもないか。なんかそういう渋いモノが好きっていうのを、最近知った。

 3人仲良くヒカリ屋へ戻る。その途中、リンカが少し控えめな声でわたしに言った。

「……コトコのガラス玉、あたしも探すから。きっと一緒にトンネルの向こう側に行こう」

 控えめだけどとても力強い声で、わたしは「うん」と答えるしかなかった。ナスナもなにも言わずにいた。

 それからみんなでおでんを食べた。餅巾着もちきんちゃくは数も少ないのに大人気で、あっという間に売り切れた。猫舌なナスナは全然食べられずに拗ねていたけど、イトエさんがあっつあつのゆで卵を「あーん」してあげると、不機嫌も忘れ嬉しそうに食べた。もちろん熱さには敵わず、顔は真っ赤、目には涙を浮かべ、なんというか、……すごく健気である。

 大根、はんぺん、ちくわ……、どれも出汁がよく染み込んでいて、からしのツンッとした旨みと合わさるとやみつきになってしまう。わたしはダイエット中だということも忘れてついつい食べ過ぎてしまった。リンカも大好物なだけあって、普段以上に食べていた。イトエさんは言わずもがな――圧巻の食べっぷりを発揮し、アオナさんに注意されていた。

 そんなこんなで楽しい食事も終わり、そのあとリンカとナスナはお風呂を済ませて、やっとひと段落。わたしたちはその夜もナスナの部屋で語り合った。わたしは疲れから寝落ちしてしまったけど、ふたりは遅くまで喋っていたらしい。一体、なにを話してたのだろう。





 そして翌朝――運命の日。

 昨晩余ったおでんを朝ご飯に食べて少しまったりしていると、イトエさんが工房から出てきた。その手には黄緑色の万華鏡を持っていて、それは他のだれのモノでもない、リンカの万華鏡であった。

「完成したよ」

 そう言ってイトエさんは、万華鏡を手渡す。緊張した手で受け取るリンカ。

 黄緑色の素体にオレンジと薄紫の宝石が埋め込まれている。……もしかしてあれはわたしとナスナかな?

 とにかく綺麗だった。ヒカリ屋が信頼を得ている理由もわかった気がする。なんというか、すごく粋だ。繊細な木の曲線に、煌びやかに色づいている宝石――しかしその主張は決して激しくなく、控えめなリンカには程よかった。リンカが万華鏡を持つと本当によく似合っていて、逆にリンカ以外には似合わない。そんな唯一無二の輝きをまとっている。

 リンカはもちろん、わたしも目をキラキラさせる。アオナさんはイトエさんに対して尊敬の眼差しを向けていて、そういえばこの人はイトエさんの弟子だったな、なんて思い出したりもする。

「あ、ありがとうございますッ」

 お礼を言って、手に持つ輝きに目を向けるリンカ。そこには昨日わたしが頑張って回収したガラス玉が埋め込まれているのだと、そう考えたらなんだかわたしまで嬉しくなった。

 しばらくじっと万華鏡を眺めているリンカ。

「記憶、覗くの?」

 ナスナが尋ねた。リンカは「ど、どうしよう……」と戸惑っている。

「覗きなよ。せっかくなんだし」

 わたしは背中を押す。それでもリンカは躊躇ちゅうちょした。気持ちはわかる。自分の過去なんて覗いてもきっとろくな目に合わない。悲しくなるだけ。だってわたしたちは、そういう切なさを背負ってここに来たんだから――。

 わたしもそう思って、怖がっていた。でもそんなとき、リンカが言ってくれたんだ。手を引いてくれたんだ。だから頑張れた。

 一歩を進むためのエールを――、そしてリンカへの想いを込めて、今、こう言ってあげよう。


「……大丈夫だよ。怖くないよ。わたしたちがいるから」


 リンカはハッとした表情を浮かべ、それから緩んで、笑った。ナスナは「なんで私も」と安定のノリの悪さ。わたしは「いいからいいから」と促す。

 少し経ってリンカは決意を固めたようで、ゆっくりと万華鏡を目元に持って行った。わたしとナスナ、それからイトエさんやアオナさんもその様子を緊張した面立ちで見届ける。

 時刻は午前9時を少し回ったところ、――白いレースのカーテンに透ける日光が明るくて、とてもいい日だった。海には変わらない瑠璃色を、空にはカモメたちの散歩道を。風は潮の香りを運び、砂浜には波が寄せる。たくさんの生き物たちがまた今日という1日のために動き始めた。どこにでもある、当たり前の光景だ。



 ――そしてそんなありふれた1日の、たわいもない朝の中、リンカは記憶を覗いた。

 ――あたしは、すべてを思い出した。

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