嵐の中のお泊まり会


 同じモノを食べ、同じ歯磨き粉を使い、髪の毛から同じ匂いがしたら家族です。


 アオナさんが作ってくれたカレーライスはとにかく絶品だった。ガラスの町ではたくさんのモノを食べて来たけど、そのどれにも劣らない温かな味だった。すごく家庭的で、実家に帰ったような安心感。懐かしさを覚えるマイルドな味付け。わたしは口いっぱいに頬張って、「おかわりッ!」と勢いよくお皿を差し出す。アオナさんは嬉しそうに「は〜い。まだまだありますからね〜」と言った。

 ダイニングテーブルに腰掛けて夕食をいただいているわたしたち。アオナさんやイトエさんは、突然の訪問者にも関わらずすごく手厚く迎えてくれて、わたしもリンカもすっかり楽しんでいた。

 ナスナはというと、イトエさんにべったりで――席も隣、事あるごとにイトエさんを見て微笑んで、わたしがイトエさんに話しかけようモノなら嫌悪の視線を向けてくる。なんだろう……ほんとに飼い主とペットの関係なのだろうか。

 アオナさんは心配した様子でイトエさんのことを見ている。

「イトエさん、病み上がりがそんな慌てて食べてはダメですよ。もっとゆっくり噛んでください」

「まったく、お前はアタシの母親か」

 イトエさんの食い意地は凄まじいモノだった――いつの間にか、わたしとイトエさんのフードファイトが開幕していて、負けていられない、とカレーをめいっぱいに詰め込む。リンカはわたしに「頑張れ」とエールを送ってくれた。ナスナはもちろんイトエさんの味方――空っぽになったコップに水を注いで手渡す給水係に転職。アオナさんは呆れ、「はぁ……」とため息を漏らす。

 そんなこともあって、土鍋のお米はすっかり無くなって、カレーも底をついた。

「明日も食べようと思ってたのに……。カレーは2日目が本番じゃないですかッ!」

 ガッカリしているアオナさんを見て、イトエさんは「いつまでもあると思うな親とカレー」と大笑い。ナスナはイトエさんの横で「うんうん」と頷く。わたしは少し反省し、大量のカレーライスが消化されている胃に触れる。

 最近、ついつい食べ過ぎてしまう。そういえばこの間もリンカのサンドウィッチをひとりで平らげちゃったし、このままじゃ本気でおでぶちゃんロードまっしぐらだ。気をつけなければ……。

 わたしがお腹の贅肉をつまんでぷにぷにしていると、リンカがこっそり近寄って来て、つんつんと触ってきた。「ひゃッ!?」と声を上げるわたしにリンカは「ほ〜ら、言わんこっちゃない」と嘲笑する。わたしはぽんすかぽんすか、リンカの背中を叩く。

 夕食を終えるとイトエさんは工房へ向かった。

「それじゃ、アタシはこれから作業があるから。あとのことは頼んだよ。羽目を外しすぎないように」

 去り際にナスナの頭を撫で撫でしてあげるイトエさん。ナスナはすごく嬉しそうに、気持ち良さそうに、顔をほころばせた。

 アオナさんはやっぱり心配そうに「今日は早くお休みになられた方が……」と伝えるが、「あんたは心配性すぎるんだよ」と返されてしまった。イトエさんはなかなか豪快というか、堂々としているというか……想像以上の人物だった。

 皿洗いをしているアオナさんを見て、わたしとリンカは「さすがにわたしたちがやりますッ!」と進言。最初は渋られたが、「それでは私はお風呂の支度をして来ますね」と任せてもらえた。

「割らないでよ」

「割らないよッッ!!」

 リンカはお皿を洗うわたしの手付きを危なっかしい子どもを見るかのように不安がる。わたしにだってお皿ぐらい洗えるんだからッ!!

 ナスナはわたしたちの後ろで優雅にお茶を飲んでいる。時折「熱ッ」と聞こえてきて、わたしもリンカも無理して飲まなきゃいいのに……と思うのだった。

「……あたしも、ナスナって呼んでいい?」

 唐突にリンカが尋ねた。ナスナは「……別に」と呟く。

「じゃああたしのこともリンカって呼んで」

 ナスナはなにも言わなかったが、その沈黙は肯定の意とリンカは受け取った。

 カレーの黄色をまとった泡たちが流れていく。ゴシゴシゴシ、と強く洗っていると手からお皿が滑り落ちそうになって、わたしは焦った。

「……それで、どうしてナスナはイトエさんの前だと態度が豹変するの?」

「ぶはッッッッ!! ……ケホッケホッケホッ」

 ナスナがお茶を吹き出した。直後、「あふッあふッあふッあふッ……」と慌てふためく様子を見て、わたしは呑気に猫舌も大変だなぁと思う。リンカは「あ〜あ〜……」と声を漏らしながらもタオルでナスナの口元を拭いてあげ、それから背中をさする。「大丈夫?」と心配する優しさに、なんだか少し焼けた。

「ひょ、豹変してないッ」

 必死に否定するナスナ。いやいや、言い逃れできないでしょ!

 するとリンカはナスナの頭を優しく撫でた。ナスナは「な、なに……?」とイトエさんにされるときとは違う戸惑った表情を見せ、リンカは「ほらね」とニヤつく。あ、いたずらっ子の表情だ。ナスナは顔を赤くして「し、知らないッ」と背そむけた。

「隠さなくていいのに」

 リンカは小悪魔な笑顔を浮かべて皿洗いに戻った。

「ねえねえ、わたしにも撫で撫でして」

「えーやだぁ。馬鹿がうつりそう」

「え、ちょっとひどくないッ!? ね〜え〜撫で撫でしてよぉ、いいじゃんッ。撫で撫でぇ〜〜〜ッ!!」

 駄々っ子になるわたしと、それを見て楽しんでいるリンカ。ナスナは残ったわずかなお茶をすすりながら、頬を赤くしていた。



 お風呂の時間――長旅でお疲れの体をちゃんと休めないと。

 わたしたちは仲良く3人で入ることにした。ナスナはめちゃくちゃ嫌がっていたけど、無理やり連行。みんなでお風呂はお泊まりの醍醐味だもんね。

 バサッバサッ、となんのためらいもなく服を脱いでいると、リンカがわたしの胸元を見て「ぐぬぬ……」と言った。わたしは見せびらかすように「ほれ、ほれ」とリンカの前に立つ。するとリンカは「ふんッ」とそっぽを向いて、それからナスナの体を見て、「ナスナ大好きッ」と抱きしめた。驚き、離れようとするナスナ。嫉妬してリンカにくっつくわたし。パジャマを貸しに来てくれたアオナさんは「な、なにをしていらっしゃるんですか……?」と呆れかえっていた。

 ザバーンッッッ。3人の体重の分だけお湯が溢れる。これはあとで入れ直さないとアオナさんたちが入るときには水たまり程度かもしれない。

 さすがに3人で浸かるには窮屈で、真ん中にいるナスナは「……狭苦しい」と不満たらたら。

「コトコがもうちょっと痩せてればなぁ……」

「どういう意味ッ!?」

 失礼なリンカにわたしは怒り、睨みつける。そこまで太ってないしッ!! そこまで……、うん。……あとで密かに体重計に乗ろうと思っていたけど、今日はやめておこう。

 湯船にアヒルのオモチャが浮かんでいる。ぷかぷかぷか、と気持ち良さそう。

 わたしは眠くなってきて、うとうと、うとうと、首を揺らしているとナスナの肩にぶつかった。ナスナは「私がいなかったら溺死してたね。感謝して」と言った。……いや、もう死んでるしッッ!!

 3人黙って入浴していると外から雨の音が届く。雨は夕方よりも全然強く、止む気配はない。海が溢れてヒカリ屋なんて流されてしまうんじゃないかと心配になるぐらいの豪雨だった。

「……嵐ですな」

「ですなぁ……」

 すっかりのぼせ気味なわたしとリンカ。疲れにじわじわとお湯が染み渡る。あぁ……一生、浸かっていたい。

 ナスナも気持ち良さそうに顔を赤くしている。すべすべな膝が湯船から顔を出していて、わたしがこしょこしょすると、「や、やめてッ」と。意外と効いたらしい。

「……こんなのと一緒にいてよく疲れないね」

 こんなのとはなんだッ!! ナスナの二の腕をつねる。

「いや、疲れるよ」

 リンカは苦笑いしてそう言った。……ひどい……ひどいよ……リンカぁ…………。

 わたしが落ち込んでいるとリンカは優しく付け足した。

「でも楽しいからいいの」

 …………。

 ……嬉しくて、口まで浸かってぶくぶくする。

 そっか……そっかぁ……。リンカ楽しいんだぁ……ふぅ〜ん…………。

「まあコトコはあたしがいないと全然ダメだからね、仕方なく一緒にいてあげてるんだけど」

 湯気でよく見えなかったけど、リンカの顔は少し赤くて、それはのぼせたせいなのか、それとも恥ずかしがっているのか、わたしにはわからなかった。

 随分と長風呂になってしまった。上がるとみんなとろけた顔をしていて、頭がぼうっとする。しっかり体を拭いて、アオナさんが用意してくれたパジャマを着て、それから歯を磨いた。歯ブラシまで用意してもらっちゃって……ありがたやぁ……。

 しゃかしゃかしゃか……3人分の音が鳴り響く。背の低いわたしとナスナの間にリンカが立つと、鏡にちょうどお山の形が映って不覚にも笑ってしまった。わたしが背伸びをするとリンカも背伸びをしてきて、それじゃ追いつけないじゃん、とぴょんぴょんすると歯磨き粉が口から溢れそうになる。ナスナもじっとリンカのことを見ていて、多少なりとも高身長への憧れはあるのかもしれない。

 小さなコップに3本の歯ブラシを立てかけて、わたしたちは洗面台を後にした。



 ナスナの部屋はすごく広かった。ヒカリ屋の2階、階段を上がってすぐの部屋。多分隣がアオナさん、その隣がイトエさんの部屋だ。ネームプレートがそれぞれの扉の前にかけられていた。

 お部屋の第一印象は物がとにかく少なく、広さも相まってすっからかんな感じ。「なんもないね」と言ったら「いらないし」と返された。「寂しいね」と言ったら「寂しくないし」と返された。「毎日暇そう」と言ったら「もう出て行って」と返された。……それぐらいに何もない。まあナスナらしいシンプルな雰囲気といったら、聞こえはいいかも。

 掃除も行き届き、整理整頓もしっかりされている部屋になんだかわたしは落ち着かなかったけど、これ以上文句を言ったら本気で雨の中追い出されると思って口をつぐんだ。

 ただ大きな本棚の中身だけは充実していて、わたしも知っているような有名な本から、なにやら難しそうな本まで揃っていた。リンカもかなりの読書家のようで「あ、この本あたしも読んだことある。面白いよねッ!」と興奮気味に語った。

 ナスナは小さなテーブルを用意してくれて、その上にアオナさんが持ってきてくれたホットミルクや夜食のクッキーなんかが置かれた。あ〜あ、歯磨きしたのに。……でも食欲には勝てない、いただこう。

 ふかふかベッドを背もたれにまったりしているわたしを見て、ナスナは「ちゃんと髪拭いた?」と触れてくる。

「拭いたよー」

「ダメ。これじゃ傷いたんじゃう。ほら、起き上がって」

 言われるままに上半身を起き上がらせるわたし。ナスナはタオルで水気を完全に拭きとって、それから櫛とドライヤーを駆使して髪のメンテをしてくれた。

 やっぱり上手で、すごく気持ちがいい。お湯でまとまった髪の毛たちが一度バラバラになって、またひとつの束になっていく。ナスナにわたしの髪の毛たちが飼い馴らされているようだ。どうしてこんなに上手いんだろう……。

 リンカも感心した様子で「次、あたしにもやってよ」と頼んだ。ナスナは「わかった」と言って、ちょっぴり嬉しそうだった。

 こうして、わたしの髪の平和は保たれた。手鏡に映るキラキラな髪の毛を見て、毎晩ナスナにお世話になろうかと本気で考える。

 ナスナはリンカの髪もお手入れしてあげた。短めな髪だからやりやすそうだ。リンカもナスナの腕前に驚いたみたいで「美容院開いた方がいいよ」とわたしと同じようなことを言った。……ふたりが仲良くなってくれて嬉しい。友達と友達が友達になるなんて最高に幸せだ。……でもそのはずなのに、なんだかわたしはリンカがナスナにとられたようで少し寂しくなった。

「ナスナ、上手だね」

「リンカはもともとの髪質がいいから」

「そう? まあショートだし手間がかからないっていうのはあるよね」

 ……疎外感ッ!!

 わたしはお手入れしてもらっているリンカの膝の上に無理やり座った。

「な、なに? どうしたの、コトコ?」

「なんでもないもん」

 頬を膨らませ知らんぷり。教えてやるもんか。

「……あれ、もしかして寂しくなっちゃった?」

「なってないもん」

 図星なんかじゃないもん。違うもん。

「ナスナぁ、コトコが拗ねてる」

「ほっとけば?」

 相変わらず辛辣しんらつなナスナ。

 リンカは「おーい、おーい」とわたしのほっぺたをツンツンしてくる。わたしがぷいっとそっぽを向くと、それに合わせてツンツンしてくる。ぷいっとまた別の方へ顔を向けると、そのたびにツンツンしてくる。ちょっとくすぐったくなって笑いを堪えると、「今、笑ったでしょ」と指摘された。「笑ってないもん」と答えると、「うそ、笑った」とさらにツンツンしてくる。

「リンカ、あんまり動かないで」

 ナスナがそう言うと、リンカは「ごめん」とツンツンするのをやめた。

 ……むう、せっかくリンカがわたしの相手をしてくれてたのに…………。

 わたしは降り向いて、それからリンカの脇腹をこしょこしょした。今度はわたしの番だッ!

 するとリンカは大声で笑い出し、「あはは……やめ……やめてッ」と苦しそう。わたしは面白がって、さらにこしょこしょする。

 リンカは右に左に動き回り抵抗するも、わたしは止めない。手を動かし続けると徐々に弱点がわかってきて、そこを重点的に攻める――と、さらに笑い出してなんだかわたしまで笑ってしまう。釣られ笑いだ。ナスナは手入れしにくそうでとても困っていた。

「ちょっとコトコ、邪魔しないでよ」

「邪魔じゃないもん」

 ナスナの言葉なんか無視して、こしょこしょ続けるとだんだんリンカも反撃してくるようになって、くすぐり合いになった。「あはははッ!!」と笑い声がこだまする。

 数分後、疲れ切ったわたしたちは互いに停戦協定を結んで休憩した。ナスナはようやく落ち着いて手入れできる、と安堵の表情。こうしてリンカの髪の毛もわたしと同じぐらいサラサラのツヤツヤになった。

「……綺麗…………」

 手鏡に映る、光沢を放つ自分の髪に見惚れているリンカ。「一体どんな魔法を使ったの!?」と驚いている。

 ナスナは満足げな顔をして櫛やドライヤーを片付ける。



 外では雨風が暴れまわっていた。木々を遠くのどこかへ連れて行ってしまうのではないかと心配させるほどの暴風と、地面のアスファルトを叩き割る勢いの暴雨。天気はよく神様にたとえられるけど、だとしたら今夜はどれだけ機嫌が悪いのだろう。「泣かないで」と慰めてあげたい。

 ナスナは窓の外を見つめながら「……明日は豊作かな」と呟いた。

「豊作って、ガラス玉のこと?」

「うん」

 リンカの質問にナスナはカーテンを閉めながら答えた。

「じゃあ、わたしたちのガラス玉も見つかるかもしれないねッッ!!」

 わたしはうんと期待した。

 ナスナはいつもより控えめな声で「だといいね」と呟いた。

 クローゼットの中からお布団を取り出し床に敷く。ナスナは「ベッド使っていいよ」と言ってくれたが、さすがに悪いからベッドはナスナ、わたしとリンカは仲良く一緒のお布団で寝ることにした。「ふふふ〜ん」と上機嫌なわたしを見て、リンカは「襲わないでね」と鋭い目。わたしをなんだと思ってるんだッ!! ぎゅっとして寝るだけだよッ!! 抱き枕代わりだよッ!!

 ナスナは早々と身支度を終わらせて、それからベッドに入った。わたしとリンカはナスナがベッドから落ちてきたとき、どっちが下敷きになるかで議論していたが、「私、そんなに寝相悪くないから」と迷惑そうに返された。

 明かりを消して、雨音をBGMに、夜を過ごす。

 真っ暗闇が少し怖くて、リンカの方へ身を寄せる。すぐに温かい肌の感触がして、ぎゅっと抱きしめた。リンカはわたしの頭を撫で撫でしてくれて、それはまるで赤ちゃんを寝かしつけているお母さんのようだった。

 布団の中、ふたりの体温が包み込む。ぬくぬくで、心地いい。……3人だったらもっとあったかいのかな?なんて思ったりもして、チラッとナスナの方を向く――が、まあナスナはわたしに対して妙な警戒心を剥き出しにしてるからな、たぶん無理だろう。

 チク、タク、チク、タク……。

 時計の針の音が雨音に負けじと聴こえてくる。気がつくと目もすっかり暗さに慣れていて、数センチ先のリンカの寝顔にドキッとして距離をとる。……可愛いなぁ。

 大好きなリンカと、そこそこ好きなナスナと一緒にお泊まり。それだけで高揚感から眠れない。

「……リンカぁ、眠れない…………」

 ダメ元で言ってみたけど意外にもリンカは起きていたようで、「……あたしも」と返した。耳元で囁かれるとあまりにも刺激的過ぎて心拍数が急上昇ッ!!

「……ナスナぁ、起きてる?」

「……寝てる」

 ……そっか、寝てるならしょうがないね、ほっとこう。

 カーテンの隙間から薄っすら見えているのは街灯の光に違いない。こんな雨じゃ、月も出番を無くして暇してるだろう。

「……だれか、なんかお話して」

 わたしは懇願する。だれ一人、返事をくれなかった。

「お話するまで歯ぎしりしてやるッ」

 ギリギリギリギリ……。

 なんの嫌がらせなんだろう、とわたし自身も疑問に思っていたが、続ける。

 横からリンカに「やめてよ」と言われたが、続ける。ナスナも「うるさい」と枕で耳を塞いでいるが、続ける。ギリギリギリギリ……。

 やがて降参したようにリンカが言った。

「あーもう、気になって眠れないッ! ……わかった、お話してあげるからそれやめて」

 歯ぎしりは静まった。

「……えへへ、なんのお話してくれるの?」

 わたしは楽しそうに聞く。

 しかしリンカは黙り込む。黙り込んだまま、ぼうっと天井を見上げている。

 どうしたのだろう、と横顔を覗くとつぐんだ口がわずかに開いて、また閉じた。

 街灯は窓ガラスに流れる雨水の滝を部屋の中に映し出していて、ゆらゆらとたゆたう透明な光の川がとても幻想的だった。

 いつの間にか掴んでいたはずのわたしの手はリンカから離れ、迷子になっている。

 …………。

 しばらく静寂が続く。

 雨の音、風の音、時計の針の音、呼吸の音、寝返りの音……いくつもの音が流れては途絶え、消える。

 わたしは隣の横顔を見て、「……リンカ?」と小声で尋ねる。

 するとリンカは、弱気な声でこう言った。

「――ごめん」

 わたしは「え、なにが?」と問いかける。

 リンカはわずかに息を吸って、それから確かな声で、わたしの鼓膜を揺らす。吸った息の半分もないようなか細い声で、揺らす。

「お昼のこと、……市場でさ、あたしひどいこと言っちゃったでしょ?」

 わたしは思い出す。


 ――――コトコって、友達多そうだよね。

 ――――ありがと。……でも、あたしとコトコは違うよ。

 ――――ただあたしは、コトコみたいな生き方もしてみたかったなって。


 …………。

 思い出して、胸の奥がギュッとして、チクっとして、切なくなる。

「――ごめんね。ずっと謝ろうと思ってたの」

 別に気にしてない、なんのことだっけ、あ〜そんなこともあったね……、――わたしはどんな言葉をかければいいのかわからなくて、悩んで、そしたらリンカは次の言葉を紡いだ。

「……あたしずっと考えてた。なんであんなこと言っちゃったんだろうって。コトコはあたしのことを信じてくれた。一緒にいたら怖いモノなしだって言ってくれた。いつも笑っててくれた。すごく楽しかったはずなのに、……それなのに、どうしてあたしは…………」

 布団の中、急にわたしたちの間に溝ができたように温もりも心地よさも落ちていく。

「はぐれてからね、ひとりで歩く道がこんなにも退屈なんだって気が付いた。なにもかもがキラキラ輝いて見えてたガラスの町も、ひとりで歩くとこんなにもくすんで見えるんだって。海までの長い道のりがちょっぴり怖くなって、もう二度と会えなかったらどうしようって、不安になった」

 わたしはヒカリ屋でリンカに再会したとき、その目の下が少し赤かったことを思い出す。

「ヒカリ屋にコトコが来てくれたとき、すごく安心したんだ。あたしを見つけて抱きしめてくれたとき、すごく嬉しかったんだ。……まだコトコもあたしと一緒にいたいって、そう思ってくれてる気がして……」

 そっと、リンカの手にわたしは自分の手を重ねる。

「前にさ、あたしには少しだけ記憶があるって言ったでしょ? どんな記憶かっていうとね、放課後の教室で、クラスメイトに勉強を教えてあげてるの。あたし、成績だけは良かったから頼ってもらえて。おかげでテストでいい点とれたって、そう笑ってもらえたときは嬉しかったな」

 冷えた手を温めるかのようにわたしは握りしめる。

「でもその子は友達でもなんでもなかったの。あたしに友達はいなかったの。人付き合いが苦手で、どれだけ努力しても、なぜかいつも空回りしちゃう。……クラスの子たちがさ、休み時間になると仲のいい子同士、席をくっつけるのね。それからお喋りをして、ご飯を食べて、どうでもいいことで笑いあって、……楽しそうなのを見て、ほんと羨ましいと思った。どこでそんなこと習ったのって、あたしそんな授業受けてないよって。……どれだけ頭が良くなっても、わからなかった」

 ナスナから寝息とは違う、どこか詰まったような呼吸が聴こえてくる。

「あたし、結構頑張ったと思うんだよね。生きてた頃、ちゃんと頑張ってたと思うんだよね」

 悲痛なんて言葉じゃ足りないような冷たい吐息が、わたしに触れる。わたしの体温はそれを痛みとして受け止める。

「死んでからじゃ遅いのにね。……死んでから、こんな素敵な友達に出逢えても惨めになるだけなのにね」

 リンカは淡々と、天井に向かって話し続ける。

「……コトコはあのとき、今のわたしの友達はリンカだけだよって言ってくれたじゃん。あれ、すごく泣きそうになった。というかちょっと、泣いた。生きてた頃、だれもあたしにそんな優しい言葉かけてくれなかったからさ」

 ……もういいよ、と言いたくなった。でもちゃんと聴いてあげなきゃいけない気がして、やめた。

「ようやくあたしにも友達ができたんだって、これでもうひとりなんかじゃないんだって、ほっとした。……未練とか、そういうのじゃなくて、ただただ満足しちゃった」

 布団の中、わたしに握られた冷たい手は少しだけ熱を取り戻して、それからそっと握り返してきた。

「だからコトコ、……ごめんね。あたしの迷惑な過去をぶつけちゃって」

 わたしは首を横に振る。リンカは言葉を続ける。

「でも、それでもまだ一緒にいてくれて、……ありがとう」

 ようやく、目が合った――窓からの光に照らされて、瞳がうるうると輝いている。

 微笑むリンカにわたしは堪えきれなくなって、体を寄せて、抱きしめた。リンカは驚いた。震えていた。わたしは強く強く抱きしめて、それから「大好きッ」ととびっきりの甘えた声で言った。「……どのくらい?」と聞いてくるリンカにわたしは「とにかくいっぱい」と返した。

 リンカの震えはすぐには治まらなかった。本人は誤魔化そうと笑ってみせたけど、強張こわばった体は嘘を吐かない。わたしはいつもリンカがしてくれるように「よしよし」と背中を優しく撫でてあげた。何回も、何回も。

 ナスナは体を起こして、わたしたちを見ていた。リンカが「……ナスナも友達だよね?」と不安そうに尋ねると、「私はそう思ってた」と、ナスナの割には温かみを帯びた言葉が返ってきて、リンカは「じゃあ――」と言って、ベッドに飛び乗る。リンカに抱きつかれたナスナは「や、やめッ」とやっぱり迷惑そうだったけど、本気で嫌がったりはしなかった。

 ず、ずるいッ! わたしもッッ!!

 すかさずベッドへダイブ。それからリンカに「わたしにももっとして〜ッ!」と抱きついた。

 結局、そのまま3人で寝ることになった。成り行きかな。だれももう窮屈を理由に拒んだりなんかしなかった。リンカが中心、わたしとナスナが両端。……なんだか嬉しくて、幸せだった。

 3人で天井を見上げて揺らめく光の線に「綺麗だね」と呟いていると、ナスナが唐突に言った。

「……私も、同じ感じ」

 わたしとリンカはきょとんとして、「なにが?」と聞き返す。

 ナスナは恥ずかしそうにわたしたちに背を向けて、話し出す。

「……イトエさんのこと、私も同じ。……助けてもらったから、だから、……大切」

 文脈なんてモノはなかったけど、それでもきっとリンカのことを受け止めた証として話してくれたんだと伝わった。……ほんと、不器用なんだから。

 それからわたしたちはいろいろな話をした。朝は米派、それともパン派というどうでもいい話題から、異性のタイプに関することまで。恋バナなんかに花を咲かせちゃって、――女の子のお泊まり会らしく盛り上がった。「わたし以外で好きなモノを教えて」と尋ねると、「なんで自分がランクインしてると思ってるの?」とナスナは手厳しい言葉を返してきた。ナスナにはこれっぽっちも期待していなかったが、リンカは少しだけ「コトコ以外か……」と悩んでくれた。

 次第に雨粒は小さくなって、風も弱まっていく。途端に波の音が聴こえてきて、そういえばここは海辺のお店だった、と思い出す。

 穏やかな夜の中、3人分の寝息が音を立てる。





「……ねえコトコ、起きて」

 リンカの声が聴こえてきて、食べ物たちに追いかけ回される悪夢から目を覚ます。

 うっすらと目を開けると、視界は明るく眩しかった。いつの間にか朝が来ていたみたい。

 ナスナが窓を開け、そこから差し込む日差しに部屋は照らされている。

「……痛たたた」

 どうやら床で寝ていたようだ。ベッドから落ちたのか、それとも落とされたのか、それはわからなかったけど体の節々がとても痛かった。

 ――が、そんなことはすぐにどうでもよくなる。

 ――違和感を感じた。

 胸の奥の方、もしくは頭の中、あるいは全身を通う血の流れの中に、なにかへ導く力が働いている。空っぽの器が、乾いた喉が、わたしをなにかへと誘う。

 ――これは――――。

 窓の外は快晴。雲ひとつない青空が広がっている。太陽は東を出発し、海は相変わらず波を砂浜へと寄せる。

 そして、わたしたちは確信する。

 わたしとリンカは確信する。



 ――このどこまでも続く青空の下、どこかでわたしたちのガラス玉が待っている、と。

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