記憶を覗く万華鏡


 髪は女の命だって。死んでもそれは変わらないって。


 もし仮に自分がとんでもなく可笑しな髪型になったとして、それをだれかに見られたとして、何事もなかったかのように平然といられる女性が果たして存在するのだろうか。少なくともわたしには無理だった。

「ぬあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!!」

 コトコの絶叫に、ナスナは耳を塞ぐ。

「……な、なに?」

「なにじゃないよッッ! なにはこっちのセリフだよッッ!! どうしてこんなひどいことするのッッ!!!」

 わたしがさっきまで被っていたリンカの上着は、今はナスナが握っていて、さっきまで大人しく隠れていたアフロ頭は、今はナスナの前に爆発している。

「いや、似合ってなかったから……」

「だからオシャレで被ってたんじゃないんだよッッ!」

「……違うの?」

「この頭を隠すために被ってたんだよッ! あーもう生きていけないよ……とほほ…………」

 膝を抱えて落ち込むわたしにナスナはさらに冷たい言葉をかけてくる。

「まあもう死んでるんだし、いいんじゃない?」

「そういうことじゃないよッッ!」

 ナスナはすごく淡々と喋る子で声のトーンに変化がない。だから本心で言っているのか、冗談で言っているのか、掴みづらい部分があった。

 うずくまり、「もう嫌だ……もう嫌だぁ……」と嘆くわたしの背中を見て、ナスナはめんどくさそうな表情を浮かべている。だれのせいでこんなことになってると思ってんのッッ!!

 廃屋の続く並木道――すごく静かで不穏な空気が漂っていたけど、それもわたしとナスナの会話によって吹っ飛んでしまった。わたしも恐怖心なんかとっくに忘れて、頭の中は頭のことだけでいっぱいだった。

「……じゃあ、私が直してあげよっか?」

 ナスナは困った顔してそう言った。

「え、できるの……?」

「まあ。それぐらいなら」

 涙目だったわたしの顔はびっくりするほど明るくなった。



 廃屋の中に倒れていたまだ使えそうな椅子に座って、わたしはナスナに髪を梳かしてもらう。すごく器用で、なんだか安心できる。わたしが上機嫌になって鼻歌を歌い始めると「頭動かさないで。じっとして」と怒られてしまった。黙っていると今度はうとうとしてきて、そしたら「首動くから寝ないで」と。無茶を強いるなぁ……。

 黙々と作業をするナスナと、ぼうっと辺りを見渡すわたし。一気に静けさを感じる。積まれていたレンガが崩れる音や、カラスたちが喧嘩して喚わめく声が聴こえる。

「……ここは、ちょっと寂しいね」

 わたしは呟いた。ナスナは髪を梳かしながら答えた。

「ここに暮らしてた人たちはみんな、トンネルの向こうへ行ってしまったから」

「……そうなんだ。じゃあ、幸せになれたんだね」

 半壊している家の、寝室に置いてある姿見がわたしとナスナを映していた。髪を梳かしている後ろ姿はわたしのお母さんみたいなのに小柄なためかあどけなく見えるナスナ。わたしと同じぐらいの背丈かな? ちょっとだけ親近感が湧いた。

「……名前、」

 ナスナが言った。わたしは「ん?」と振り向く――と、うんざりした様子でナスナはわたしの頭を掴んで前に向けた。ちょっと乱暴だよッ!

「……名前、聞いてなかった」

 おぉ、ナスナがわたしに興味を抱いている様子! しめしめ、わたしの魅力に惹かれてきたようだ……。

 ひとりニヤニヤとしていると、ナスナは痺れを切らして「教えたくないならいい。別に興味ないし」と言った。わたしは慌てた。

「コトコッ! コトコだよッッ!!」

「……コトコ…………」

 わたしの名前を小さく呟いて、ナスナはなにやら複雑な表情を浮かべた。……トイレでも我慢してるのかな?

 時間が経過していく。雲は厚みを増して、灰色も濃くなる。横から吹く風が冷たくて寒そうにしているとナスナが風除けになるようにわたしの隣に立ってくれて、意外と優しいところもあるんだな、と思う。

「……髪梳かすの上手だね」

 見る見る髪質が元に戻っていくのを感じる。あれだけ暴れ回っていた髪たちなのにナスナの手にかかるとこうも呆気なく更生させられてしまうことに驚いた。おまけに全然痛くない。むしろちょっと気持ちいいぐらい。わたしが満足げな表情を浮かべていると、ナスナもどこか嬉しそうに答えた。

「私の特技だから」

 ナスナを象徴するような真っ直ぐに垂れたポニーテールは、これでもか、というぐらいに綺麗な束になっている。

「いいなぁ……わたしもそのぐらい上手くなりたい」

「コトコは不器用そうだから無理だよ」

 ――なッ!! 心外だ!!!

「失礼なヤツ」

 わたしはぼやいた。

 こうしてわたしの髪の毛はすっかり元の状態に戻った。ナスナはゴムを口で咥くわえながら、手でサイドテールの形をつくる。位置も完璧でわたしは驚く。しゅるり、とゴムの中を通って、結んで、サイドテールの完成。「できたよ」と言い終わる前に、わたしは出来栄えを確認しようと走り出し、姿見の前に立つ。

「うわぁぁ…………」

 120点の出来だった。いつも通りの髪型のはずなのに、なぜか輝いて見える。キラキラキラ、と光って見える。……ま、眩しい……。

「すごい!! すごいよナスナッッ!!」

 ナスナは顔色ひとつ変えず、櫛をバッグの中に仕舞った。

 わたしが髪に触れると、それはまるで絹のようで、とても自分のモノには思えなかった。なにこれなにこれなにこれ。凄すぎるよッ! 滑らかな手触りが癖になって何度も何度も触っていると「せっかく綺麗にしたんだからベタベタ触らないでよ」と注意された。

「これは才能だよッ! 美容院開いた方がいいよッッ!」

「気に入ってくれたみたいで良かった」

 いくら興奮気味に伝えようと、ナスナは表情を緩めずにいた。……もしかしたらツンデレなのかもしれない。

 わたしは鏡とにらめっこしながら、少し気になっていたことを尋ねた。

「……でも、どうしてわたしがサイドテールだってわかったの?」

 ナスナは思いもよらない質問に少し悩んでいる様子だった。

「わたし言ったっけ?」

 たぶん言ってない気がする……。だからナスナがサイドテールの形をつくったとき、わたしは少し驚いた。

 ナスナはじっくり悩んで、それからわたしを見て、目を逸らし、地面を向きながら小声で答えた。

「……一番似合いそう、だったから」

 初めて見たナスナの照れた顔――わたしはしっかり目に焼き付けて、それからにっこり笑った。

「えへへ、ありがと」

 ナスナはなにも言わず、でもわずかに頷いたように見えた。



「……それで、コトコはどこに行きたいの?」

 並木道を歩きながらナスナが言った。黄色い葉っぱの絨毯じゅうたんの上、ふたつの小さな足跡が残る。

 わたしはようやく自分が迷子だったことを思い出す。確か市場を歩いていて……人がいっぱい集まってきて……あれ、というかリンカは? リンカのこと完全に忘れてたッッ!! 

「あ、えっと……」

 わたしは考える。今更市場に戻っても、きっともうリンカは移動してしまっているだろう。だったら――。

「――ヒカリ屋っていう万華鏡のお店かな。ナスナ知ってる?」

「知ってるもなにも……」

 ナスナは口ごもった。なんだろう?とわたしが不思議そうな目をしていると「しょうがないから送ってあげる」と言ってくれた。「え、いいの!?」と喜ぶわたしを見て、「今回だけ」と付け足した。

 ナスナは細い路地に入り、角を曲がって、抜け道を通り、時々草むらを掻き分けて進む。どうやらこの辺の地理に詳しいようだ。わたしも安心してついていく。

 少し歩いたところで、ぽつん、と一粒頬に掠めた。空を見上げるとぽつん、ぽつん、と雨粒が地面に向かって落ちてきて、当たって、染み込んで、アスファルトに模様を描いていく。

「……降ってきちゃったね」

 灰色だった雲は黒く濁り、どこまでも分厚く空一面を覆っていた。雨の量も次第に増していき、地面を叩く音も聴こえ始めた。

 わたしはリンカの上着が濡れないように抱きしめながら歩いていく――と、頭の上に影ができた。ナスナの小さな折り畳み傘だった。振り返るとナスナが「仕方ないな」といった表情で傘をさしていて、わたしは「ありがとう」と返す。

 リンカも濡れてなければいいな……。わたしは少し心配になる。

 風が吹いて肌寒さを感じていた道だけど、窮屈な傘の中、ふたりの体温でちょっとだけあったかくなった。

「……万華鏡、探しに来たの?」

 ナスナが尋ねた。

「うん、そうだよ。わたしたちトンネルの向こうを目指してるの」

「わたし、……たち?」

 疑問の表情のリンカ。わたしは抱いている上着に目を落としながら喋る。

「一緒にここまで旅してきたリンカっていう子と、途中ではぐれちゃって」

「探さなくていいの?」

「うん、きっと大丈夫」

「なにその自信」

 雨は小さな折り畳み傘をリズミカルに叩く。雨音の中、わたしたちの声が響く。

「ナスナは? あんな所でなにしてたの?」

 突然の質問に戸惑うナスナ。肩から下げているショルダーバッグの紐をぎゅっと握り答えた。

「私は集め屋だから」

「……集め屋?」

 聴いたことのない単語にハテナを浮かべるわたし。「知らないならいい」とナスナは言った。

 ふとナスナを見るとその肩は濡れていて、傘の大部分をわたしに譲ってくれていたことに気が付いた。なんだか申し訳ない。わたしはナスナの方へ寄る。肩がぶつかって「な、なに?」とナスナは少し嫌そうな顔をしたが、わたしは離れない。

「……狭いんだけど」

「我慢して。この傘小さいんだから」

「文句言うなら出てって」

 そんなやりとりを繰り返すうちに坂道へ出た。かなり急な下り坂で、風に運ばれてきた空き缶がゴロゴロゴロ……と速度を上げながら転がっていく。

「――海だッッ!!」

 そしてその坂道の先に、海が見えた。――どこまでも広く、水平線の彼方まで続いている海。砂浜へ扇形の波を寄せている海。すごく壮大な景色だった。途端に塩の匂いも香ってきて、耳を澄ますとまだ微かにだが波の音も聴こえる。晴れた日ならもっと綺麗だっただろうな……とちょっとばかり残念に思う。

「……あともう少しで着く」

「うんッ! なんかドキドキしてきたッッ!!」

 ふたりで坂道を下る。雨で滑って転ばないよう、慎重に足を踏み出す。

 雨はしっかりとした線になって、海へ降り注いでいる。風が吹くとゆらゆらと線がたゆたい幻想的である。

「……トンネルの向こうに行くの、怖くないの?」

 淡々と耳に届く言葉の中に少し憂いみたいなモノが混ざっている気がして、わたしはナスナの方を向く。

 ずっと傘を持っていたからか疲れてだんだん下りてくるナスナの左腕に、ナスナの左手に、わたしは右手をそっと重ね交代した。ナスナもなにも言わず傘から手を離した。

「怖いとか、考えたことなかった。……確かに、ちょっと怖いかも」

 ナスナはなにも言わない。わたしは言葉を続ける。

「……でもわたし、行かなきゃいけない気がするんだよね。なんでだろ。……きっと生きてた頃、約束したからだと思う。その約束はたとえ死んでいたって投げ出しちゃいけないような、すごく大切なモノだったんだと思う」

 坂道を下り終わって、わたしたちは堤防の前に立った。雨風で荒れる波が堤防に当たる音が大きく聴こえて、わたしはそれに負けない力強い声で言う。

「だから怖くても行ってみたい。ううん、……やっぱり一番怖いのは、トンネルの向こうに行けないことだと思うから」

 しばらく見つめ合う。わたしの強さも、弱さも、不安も、本気も、すべてナスナの目には見透かされているようで少し照れくさかった。ナスナはただ「ふーん」とだけ呟いて、それからなんでもなさそうに歩き出した。でもわたしは一瞬見えた瞳の奥の、あのほころんだ表情をやけに強く覚えていた。

 傘が雨の重みに耐えるように、堤防が波の強さに轟くように、わたしはこの胸の熱い想いを体めいっぱいに感じた。


 ――――トンネルの向こう側、生まれ変わりを目指して、わたしはこの先も歩いてゆく覚悟を決めた。




 海に沿って歩くことおよそ10分、ようやくお目当ての『ヒカリ屋』に辿り着いた。

 老舗というだけあって貫禄のようなモノを感じるが、決して古臭いわけではなく、看板のカラフルな文字や壁に張り巡らせている緑色のツタたちが今風の可愛らしさをまとっていた。木製の建物だが最近ペンキで塗り直したのか鮮やかな茶色が光っている。

 わたしは窓ガラスの向こうに展示されている万華鏡に釘付けになる。色や形、大きさもバラバラの万華鏡がいくつも並んでいて、可愛らしいモノから大人っぽいモノまで、ありとあらゆる種類があった。

「うわぁぁ……綺麗だね…………」

 ナスナは傘を折り畳みながら、横目でわたしのことを見た。

「初めて見たの?」

「うん、初めて。……へぇ、これで記憶が覗けるんだね〜…………」

 目を輝かせながら窓にくっつくわたしを見て、ナスナはなにやら呆れた表情をする。え、わたし可笑しなこと言ったかな……?

 ナスナは両開きの扉に手をかけ、開ける。チャリン、と呼び鈴の音がする。

「ただいま」

 そう呟くナスナ。

「……ただいま?」

 なんで今、ただいまって言ったんだろ……。

 わたしが首を傾げていると、店の奥から女性が出てきた。ユウキさんと同じぐらいの年齢かな? エプロンをして、頭にバンダナを巻いている。すごく綺麗な人で思わず見惚れてしまう。

「あらおかえりなさい、ナスちゃん」

 ……ナスちゃん? ナスちゃんとは、もしかして……。

「その呼び方やめて。恥ずかしい」

 ――やはりナスナのことのようだ。……いや、ナスちゃんって感じじゃないよね。そんな愛嬌のある感じじゃ……。

「いいじゃありませんか、可愛らしいですよ」

 ナスナの母親では……ないっぽい。そりゃそうだよね、めちゃくちゃ若いし。

 見かけ通り、話し方もすごく丁寧で、なんというか女性の美しさをふんだんに感じる人だ。お上品の塊とでも言ったらいいだろうか。リンカに初めて会ったときと同じく、わたしとの差を見せつけられる。んぐぐ……負けていられない。

「――ところで、そちらの方は?」

「えっと、コイツは――――」

 わたしは深呼吸をして、目をぱっちり(子どもっぽくならないよう、若干アンニュイな感じも保ちながら)開いて、それから大人の笑みを浮かべた。

「お初にお目にかかります。わたくし、ナスナさんの朋友のコトコと申します。以後、お見知り置きを」

「ねえ、さっきまでとキャラが違うんだけど……」

 ナスナさんがなにかほざいておりますが、気にしない気にしない。

「あらまあ。とても可愛らしいお友達がいらっしゃったんですね」

「いえいえ可愛らしいなんて、そんな、とんでもない……」

「可愛くないし、友達になった覚えもない」

 ちょっとナスナ、それはひどすぎるよッッ!! ……じゃなくて、……あらあら、照れ屋さんなこと。

「私わたくしはアオナと申します。ここヒカリ屋で、イトエさんのもと修行を積んでいる身です」

 ……イトエさん? だれだろ? ここの店主さんかな?

 わたしは口をぽかんと開けてアオナさんを見つめた。――というか見つめていた。ほんと無意識に。人間、綺麗なモノには不思議と目が行っちゃうんだなぁ……。じっとアオナさんを眺めていると「どうかなさいましたか?」と不審に思われた。……あぁぁ危ない危ない! 大人なレディを保たないとッ!

「さあさあ上がってください」

「では、お言葉に甘えて。失礼いたします」

 アオナさんに催促されわたしたちは店内に入った。ナスナには「そのキャラいつまで続けるの?」という目をされた。

 ――でも、そんなことはどうでもいいッッ!!

 わたしは前を歩くナスナの服の袖を力強く掴んで、それからアオナさんには聴こえないぐらい小さな声で、けれども憎悪たっぷりな声で呟いた。

「……ナスナ、なかったことみたいになってるけど、さっきどさくさに紛れてわたしのことコイツ呼ばわりしたよね? わたし、忘れてないから」

 メラメラと怒りに満ちたどす黒い炎を立ち昇らせるわたし。

 するとナスナは満面の笑みを浮かべる――感情の一切こもっていない、形だけの、無機質な笑みを。それからまるでお花畑で動物さんたちにお話するような幼くいじらしい声でわたしにこう言った。

「――なんのことぉ?」

 丁度その時、鳩時計から鳩が飛び出して「ぽっぽ」と鳴いた。

 ナスナは結局知らないフリを決めて、そのまま歩いていってしまった。

 ……許すまじッッ!! わたしは密かにいつか復讐してやると胸に誓ったのだった。

 わたしたちがふたりでひそひそとお話を(戦いを)繰り広げていたから、アオナさんは不思議そうな目でこちらを見ていた。わたしは「なんでもありませんよ」と視線を送り、それからナスナに続く。

「そうそう、丁度先ほどお客様がお見えになったんですよ」

 アオナさんが言った。……お客様?

 その直後、「コトコ?」と呼ぶ声が聴こえた。わたしは慌てて声のした方を向く――と、優雅に紅茶を飲んでいるリンカの姿があった。

「あら、お知り合いですか?」

 そう尋ねるアオナさんのことも無視して、大人設定すらも忘れて、わたしは走り、――叫んだ。

「リンカぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッッ!!!!」

 そして抱きついた。抱きついて、頬をスリスリした。あぁ……これ……この感じ……安心する……。

 リンカもしっかりわたしのことを受け止めてくれて、最初は驚いた顔をしていたが、そのうち「よしよし……」と背中をさすってくれた。「えへへ、くすぐったいよ」と笑うわたし。それでもリンカはやめなかった。リンカの、わたしと再会できて嬉しそうな顔を見て、わたしはもっと嬉しくなる。

 アオナさんはきょとんとしているが、ナスナは「その人がリンカか」と普通の表情。もっとわたしたちの再会に感動してくれてもいいのに。

 わたしはリンカから離れ、顔を見た。――あれ? 目の下が少し赤い? 気のせい?

 するとリンカはわたしのほっぺたを思いっきり引っ張った。

「一体どこをほっつき歩いてたのよッッ! 心配したんだからぁッッ!!」

 いつにも増してほっぺたをつねる力が強い。痛い、……けど我慢。それほどわたしに会えて喜んでいるのだと思って我慢。

 リンカは少し落ち着いて、それからわたしに言った。

「髪、直ったんだね」

「……う、うん。ナスナににゃおしてもらった」

「よくここまで来れたね」

「……う、うん。ナスナにあんにゃいしてもらった」

 リンカはわたしのほっぺたから手を離し、ナスナの方を向く。わたしは伸び切ったほっぺたをなでなでしながらその様子を見た。

「コトコが迷惑かけたんじゃない? ありがとね」

 そう言って礼を述べるリンカに、ナスナは「別に――」と目を逸らす。不器用だなぁ……。

「えっと……、これは一体?」

 アオナさんは戸惑った笑みを浮かべていた。



 リンカが紅茶を飲んでいたテーブルに4人で腰掛けて、わたしたちは今までの旅のすべてを語った。アオナさんは「まあ、遠い所から遥々ご足労いただいて、疲れたでしょう……」と親身に話を聴いてくれたのだが、それに比べてナスナはこれっぽっちも興味がなさそうに紅茶を飲んでやがる――が、猫舌なのかほとんど量に変化はない。

 ヒカリ屋は落ち着きのある大自然をモチーフとしたお店で、真ん中に置かれたショーケースを囲うようにいくつもの観葉植物、花たちがが彩りを与えている。木製の家具は味を出し、ガラスでできた装飾品は森の中に漂うシャボン玉を思わせる。天井を見るとツタがあちらこちらに伸びていて、アンティークな置物に巻きついている。息を吸うと甘い香りが胸いっぱいに広がって清々しい。自由な雰囲気が、わたしはとても気に入った。

 広々とした店内だが主に3つのスペースに分かれていて、店を入ってすぐ、万華鏡の置かれている大部分。その奥、万華鏡をつくっている工房。そして今わたしたちが座っている窓際のテーブル席。テーブル席はこのように歓談したり、お客さんの相談に乗ったりするためにあるらしい。今日は雨のせいでよく見えないが、天気のいい日には瑠璃色の海が見える特等席になるようで、わたしは雨を恨んだ。

 アオナさんの淹いれてくれた紅茶を美味しくいただくわたしたち。わたしとリンカはすぐに飲み終わってしまったが、ナスナだけは未だに熱くてなかなか進まないようで、わたしが「ふうふうしてあげましょうか?」とちょっと小馬鹿にして聴くと、「いらないッ」と怒った。

「ナスちゃんは極度の猫舌ですからね」

「アオナ、余計なこと言わないで」

 話によると、どうやらナスナはこのヒカリ屋の二階に住んでいるらしい。住み込みのバイトというやつ。なるほど、だからここまでわたしを連れて来てくれたのかぁ……と納得した。たまたま帰り道が同じだっただけ、善意でもなんでもなかったわけか、と。

 空っぽのティーカップの底に残る茶葉をぼうっと眺めていると、体がポカポカしたからか眠くなってきて、わたしはリンカの肩にもたれかかる。アオナさんは「甘えん坊なんですね」と微笑み、リンカは「困ったもんですよ」とどこか嬉しそうに答える。



「――では、ガラス玉を見せていただけますか?」

 アオナさんが唐突にそう言った。

 わたしとリンカは顔を見合わせる。少し間が空いて、鳩時計の鳩が再び顔を出し、それから巣に帰って行った頃にわたしたちは尋ねた。

「「……ガラス玉って?」」

 わたしたちの返答にアオナさんは目を点にしている。ナスナは「熱ッ」とティーカップを乱暴に置いた。

「え、えっと……、持ち込みのお客様ではないのですか?」

 もう一度、顔を見合わせる。リンカも「なんのことだろう?」と意味をよく理解していないようで、ナスナが紅茶をようやく飲み終わった頃にわたしたちは尋ねた。

「「……持ち込みって?」」

 わたしたちのさらなる返答にアオナさんは目をパチパチさせて困っている。ナスナは満足げな表情で「ごちそうさまでした」と呟いた。

「てっきり私、おふたりは持ち込みのお客様とばかり思っていたのですが……ではこちらにはお引き取りに?」

 なんどもなんども、顔を見合わせるわたしたち。「まあ、引き取りに来たと言えば……そうなのかな?」とリンカはわたしに聞いた。わたしは「知らない」と首を横に振る。

 すると、困って硬直しているアオナさんの袖を引っ張って、ナスナが言った。

「たぶんふたりとも、なにも知らない。万華鏡がなにでできてるのかも、どうやって使うのかも、――なにも」

 ナスナの言葉にわたしとリンカは「うんうん」と頷くことしかできなかった。アオナさんは「それでよくここまで来ようと思いましたね……」と若干引き気味だったが、それからわたしたちに万華鏡のことをひとつひとつ丁寧に教えてくれた。……何故か、いかにもな様子で眼鏡を取り出し、かけてから。

「いいですか? こちらの世界には人間の記憶の結晶ともいえるガラス玉が存在します。ガラス玉の中には生まれてから死ぬまで、一生分の思い出が詰まっているといっていいでしょう」

 わたしたちは頷く。アオナさんは眼鏡を光らせる。

「ガラス玉は不思議なことに雨からできています。今日のように雨がたくさん降った次の日には、その雨が結晶化して、寄り集まって、ひとつの形をつくるのです」

 窓の外、弾ける水飛沫みずしぶきを見つめながらアオナさんは言った。

「ヒトとガラス玉は非常に強い力で結びついていて、感覚的に、自分のガラス玉がどこにあるのかを感じ取ることができます。引き寄せあうといった方が正しいのかもしれません。磁石のように、遠くにいてもヒトはガラス玉に導かれるのです」

 ナスナは飲み終わった全員分のティーカップを銀色のトレイに乗せて運んで行く。アオナさんは「ありがとう」と言葉を挟んだ。

「……おふたりの反応を見るに、まだガラス玉は出来上がっていないようですね。もしかするとこの雨がおふたりの記憶の欠片なのかもしれません」

 わたしたちは窓の外を見た。雨脚は強くなる一方だった。

「ガラス玉はそのままでは使うことができません。それを加工して、万華鏡の形にして、はじめて記憶を覗くことができるのです」

 アオナさんはショーケースに飾られている万華鏡に目を向ける。

「私たちはそれを作っています。もちろん、ひとりひとりオーダーメイドです。小さなお子様からご年配の方まで、皆様が満足していただけるように心を込めて手作りしています」

 どこか誇らしげに語るアオナさん――眼鏡の奥の瞳が輝いている。

「ちなみに、先ほど話に上がった『持ち込み』というのはお客様自らガラス玉をお持ちいただくこと。『引き取り』というのは予めこのお店で保管しているガラス玉を万華鏡の形にしてお渡しすること。もちろん、ガラス玉のままでお返しもできますが、大抵のお客様は万華鏡になさいますね」

 ナスナがキッチンと思われる場所から戻ってきて、着席した。アオナさんはそんなナスナを見て話す。

「ナスちゃんは町中あちこちに転がっているガラス玉を回収し、保護する役目を担っています。ガラス玉はすごく繊細で壊れやすいモノ。また、すごく希少価値の高いモノですから、悪い人たちに拾われないよう毎日探索に出かけてもらっているのです」

 変わらぬ無表情なナスナ――どこか鼻を高くしている気がして、わたしは焦れこむ。

「……それが、集め屋?」

 わたしが尋ねるとアオナさんは「あら、ご存知でしたか」と。「ナスナから聞いた」と答えると、ナスナは顔をぷいっとそっぽに向けた。なにそれ、ちょっとひどくないッ!?

「集め屋は、万華鏡を取り扱うお店が雇うという形が多いですね。うちはナスちゃんひとりだけですが、多いところだと何十人と雇っているお店もあります。……集め屋が多ければ多いほどガラス玉も集まりますし、そうすれば来店するお客様も増える。売り上げが上がる。そのような魂胆なわけです。……まあ私たちはあまりオススメしませんね。仕事量が増えればそれだけ万華鏡ひとつにかけられる時間も短くなってしまいますから」

 喋り終わってからアオナさんは「少々話が脱線しました」と咳払いをして、それからナスナに「見せてあげて」と言う。ナスナは少しめんどくさそうな顔をしながらも、大きなショルダーバッグをテーブルの上に置いて、中身をわたしたちに見せてくれた。透明な箱の中に透明な球体――ガラス玉。そのセットがいくつも入っていた。透明な箱は恐らくガラス玉を保護するためのモノだろう。すごく丈夫そうだった。

 ガラス玉は氷のような表面をしていて中には無数の虹色の線が泳いでいる。片手で収まってしまうぐらい小さなモノだったが、それでもこの中に一生分の記憶が眠っていると考えると、なんだか神秘的だ。

「……すごく綺麗」

 リンカが呟いた。

「ええ。ヒトの生きた証ですから」

 アオナさんは優しく微笑む。

 窓の外に降る雨が今はなんだかすごく素敵なモノに思えて、わたしはじっと見つめた。



「……じゃあ、ガラス玉さえ見つかれば万華鏡は作ってもらえるんですね?」

 リンカはアオナさんに確認する。アオナさんは眼鏡を押さえて「ええ、もちろん依頼とあればすぐに作らせていただきます」と力強く返答してくれた。

「そしたらトンネルの向こう側に行けるのッッ!?」

 わたしは前のめりになりながら聞いた。意外と簡単に行けちゃうんじゃん、なんて安堵の表情さえ浮かべていた。するとナスナは「馬鹿じゃないの」と冷たい視線を向けてきた。

 ――なッ! 馬鹿とはなんだッッ!! 馬鹿っていう方が馬鹿なんだッッッ!!!

 わたしは全力でナスナのことを睨みつける――絶対許さない、というオーラを出しながら。しかしナスナは無視して窓の外を見た。ぬああああああぁぁぁ……イライラするッッッ!!

 そんなわたしとナスナの無言の攻防をよそに、アオナさんとリンカは話を続ける。

「残念ながら万華鏡はあくまでも、その先の皆様を手助けするためだけのモノなんです」

「……その先?」

 アオナさんは少し黙り込んで、それから眼鏡を外してこう言った。



「私たちがこの世界にいる理由、――不幸です」



 聴いたことがあった――死んでしまった人間が皆、必ずしもこの世界に来るわけではないのだと。この世界に来るのは、ほんの一握り、大きな不幸を背負った者たちだけなのだと。

 未練や、後悔、罪の意識――そういった黒い感情を抱えたまま死んでしまうと、それが切符となって、この世界に連れて来られる。生まれ変わりまでの遠回りをする。

 だからわたしは怖かった――記憶を覗くのが、とても怖かった。自分はどう足掻いても不幸の中で死んでしまったんだと、その現実を突きつけられるのが嫌だった。でもそれは多少なりともみんな同じようで、だからわたしは頑張ることにした。リンカがいれば怖いモノなしだと、そう思うことにした。

「……どうやら私たちは、自らの人生に降りかかった不幸を受け止めなければいけないようです。そうでないと先へは進めないようなのです」

 アオナさんはそう言った。

 ここにいるだれもが――同じ。みんな不幸で、みんな死んでいて、そしてみんな恐れている。

「……たとえば生きていた頃への未練があると、生まれ変わりはできないと?」

 リンカの質問にアオナさんは「はい」とだけ答えた。きっとアオナさんもあまりよくは知らないのだ。そりゃそうだ。みんな立っている場所は同じ――生と死の狭間。すべてがわかるはずがない。

 わたしたちの間に沈黙が流れる。途端に広かった世界は窮屈に思えて、暖かかった店内は冷たく感じた。

 雨が凄まじい勢いで窓ガラスを叩き、その音だけが空間に響き渡る。

 …………。

 ――でも、わたしは――――。

 胸の中から来る震えのような血の流れを、わたしは手をぎゅっと握りしめることで抑え、そしてそれからこう呟いた。

「……だったらガラス玉を探して、万華鏡を作ってもらって、それから頑張るしかないね」

 そしてリンカを見た。リンカもわたしを見て、少し驚いた顔をしていたが、それからすぐ微笑んで「そうだね」と言った。

 わたしたちにできることは少ない――知らない世界なら尚更だ。でもだとしたら、できることだけはせめてちゃんとやり遂げたい。わたしたちはその想いを胸のうちに秘めたのであった。

 ナスナはわたしの目を見てぼうっとしていた――いつもは虚ろな瞳の奥に、そのときばかりは煌めきが灯っていた。



 しばらくして、二階からおばさんが降りて来た。大きなおばさん。ふくよかで、パンとか焼いてそうな感じの。

「イトエさん、ちゃんと寝てなきゃダメじゃないですか」

 アオナさんはそう言った。

 そうか、この人がイトエさんか……。なんというか、優しそうだけど、怖そうで、それからめちゃくちゃ強そうなおばさん。すごく頑固そう。

 イトエさんは寝ていたようで髪が乱れているが、まああの頃のわたしほどではない。髪の毛をほぐしながら「あれだけ寝たんだから大丈夫だよ」とアオナさんに言った。アオナさんは「でも……」と不安そうな表情を浮かべる。

 すると突然ナスナが立ち上がって、ショルダーバッグを持ってイトエさんにとことこ近付いて行く。なにかと思えば、その中身を見せ、目をキラキラさせてイトエさんの言葉を待った。その表情が餌を待つ飼い犬のようで、どこか幼く感じる。イトエさんはバッグの中身――ガラス玉の量を確認すると「よしよし、よく集めて来たね」とナスナの頭を優しく撫でてあげた。ナスナは褒められてとても嬉しそうで、でもなにも言わず、ただ頭を撫でられて笑っていた。なんだ、ちゃんと可愛い顔もするんじゃん、とわたしは思った。リンカも意外そうな目でナスナを見ていた。

「――それで、その子たちは?」

 イトエさんはわたしとリンカを指して尋ねた。

「お客様というか……なんというか…………」

 アオナさんは答えられなかった。複雑な事情で申し訳ない。これも全部、わたしたちの無知が悪いのだと反省する。

「まあ、なんでもいいが外はすごい雨だよ。帰れるのかい?」

 窓の外は雨、というよりは嵐で、吹き荒れる風の流れに海も荒波をたてていた。

 わたしとリンカが顔を見合わせ困っていると、イトエさんは「仕方ないね」と呟いてナスナを見た。

「ナスナ、」

 呼ばれて首を傾けるナスナ――どうしてなにも喋らないのだろう?

「この子たち、あんたの部屋に泊めておやり」

「――え!?」

 ――喋った。めちゃくちゃ野太くて嫌そうな声で喋った。

「これじゃ外を出歩くのは危険だろ。今晩、ここで面倒を見てやる」

 イトエさんはそう言ってくれた。

「「ありがとうございますッッ!!!」」

 わたしとリンカは深くお辞儀をした。

 そういえば、宿のことなんかこれっぽっちも考えてなかった。無計画にもほどがある。危ない……助かった……。

 ナスナを見ると、物凄く嫌そうな顔でこちらを睨んでいた。「外で寝ろ」と言わんばかりの表情だ。わたしはナスナに「よろしくね」と満面の笑みを送る。砂漠に花を咲かせるような豊かな笑みを一方的に送りつける。ナスナは怯ひるんだようで、ふてくされた。

 アオナさんは鳩時計を見て「あら、もうこんな時間。お夕飯の支度をしないと」と言った。リンカは「あたし手伝います」と立ち上がる――が、「お客様はゆっくりしていてください」と気遣われたようだ。

 今晩の献立はカレーライスらしい。やった、大好物。上機嫌なわたしはナスナから来るおぞましい視線に気づいていたが、無視をした。あれだけわたしのことを侮辱したのだ。天罰のひとつやふたつ下って当然ッ! しっしっしッッ。



 ――こうして豪雨の中、出逢ったばかりの少女たちによる、波乱万丈な女子会が開催された。

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