第68話 怪・缶〜あやしい缶詰〜2
*
気がつくと、澄麗は教室に立っていた。高校のクラスだということは、ひとめでわかった。放課後だろう。西日が窓から赤くさしこんでいる。教室のなかには誰もいない。
あれ? わたし、今まで何してたっけ?
考えるものの、サッパリわからない。
カバンを手にとり、ろうかへむかう。校内には人影がない。なんだか奇妙な世界におちいったようで少し怖い。
校舎を出たところで、グラウンドに部活動中の生徒の姿が見えた。なんとなく、ほっとした。
自宅へ帰るためにバス停へ行くと、バス待ちの大学生らしき男が立っていた。イヤホンをつけ、スマホで音楽を聴いている。
澄麗はそのうしろにならんだ。
そのあと、さらに数人の乗車客が来て、澄麗に続いた。
やがて、バスが来た。
大学生はイヤホンをはずし、スマホをポケットに入れようとして、とりおとした。道路にかがんでひろいあげようとしたときに、今度は上着の胸ポケットから手帳のようなものが落ちた。
よく見るとパスケースだ。落下した衝撃でひらいて、運転免許証が見えていた。名前は、山田達也。
地味な名前だなと、澄麗は思った。
ひろってあげようとしたときに、バスのドアがひらき、うしろのほうから声が聞こえた。
「おい、乗るんなら早く乗れよ」
大学生はあわててスマホとパスケースをひろって、バスに乗った。
澄麗も続いて、タラップをふんだ。
このとき、未来が変わったのだと、澄麗は思いもしなかった——
*
あのとき、ほんとは、わたし、パスケースをひろってあげたんじゃなかった? それがきっかけで、つきあいだして……。
バス停の大学生と会うことは、二度となかった。
澄麗はあいかわらず、祖父母の家で暮らしている。祖父母は優しいが、とにかく生活が苦しい。年とった祖父母のため、澄麗はバイトに家事に明け暮れた。高校だけは、なんとか卒業した。バイトさきのハンバーガー店に、そのまま就職した。
このまま、わたしの人生なんて働きづくめで終わってしまうんだろうな……。
十八で、そんなふうに達観していた。
だから、まさか自分の身に、こんな幸運が舞いおりるとは思いもしなかった。
ある日、ハンバーガー店に一人の男がやってきた。二十代の後半くらいだろうか? もさっとした服装だが、顔はいい。
「海老アボガドバーガー二つとコーラ」
男性にはめずらしい注文だったので、印象に残った。
その後、男は何度も店に顔を見せるようになった。注文は決まって、いつも海老アボガドバーガーだ。
「海老アボガドバーガー二つとコーラのLサイズでよろしいですか?」
「あっ……うん」
男は初めて澄麗を見たというように、じっと見つめてきた。
「おれ、
「佐山澄麗」
「あれ? おれたち、名字、似てるね」
「ですね」
「今度さ、いっしょにランチでも行かない?」
「……ハンバーガーですか?」
「まさか!」
笑顔は、まるで少年のようだ。
いい顔で笑う人だなと、澄麗は思った。
それから、澄麗は龍星と急速に仲よくなっていった。
いつも冴えないカッコをしてるから、あまり高給な職業ではないだろうと思っていたのに、じつは龍星は売れっ子のマンガ家だった。日々の暮らしに精いっぱいで、澄麗が知らなかっただけだ。〆切に追われながらも一途にがんばり続ける龍星が、とてもカッコよく見えた。
この人を一生、支えてあげたい——
そう感じ始めたころに、龍星からプロポーズされた。
「おれと結婚してください。絶対、大切にする!」
まわりのすべての人から祝福されて結婚。
幸せな日々。
龍星には、ほんとに大切にしてもらった。彼の仕事が忙しすぎたせいか、子どもはできなかったが、充分に幸福な生涯だった。
子どもはできなかったが……。
五十をすぎたころか。
急にモヤモヤとすることが多くなった。龍星や友人たちは、更年期障害じゃないのと言ったが、何かがおかしい。
わたし、子ども、いなかったっけ……?
なぜかはわからないが、抱きしめた小さな感触が、とつぜん、よみがえった。乳をふくませて飲ませたこと、夜泣きに苦労したこと、三十分おきにオムツをかえたこと。
その顔は思いだせないけど、あの子はたしかに存在していた……。
ある日、自宅に宅配便の配達員が来た。その男の顔を見たとき、どこかで見たことがあるような気がした。誰かに似ている。
「あの……」
「生物ですので、すぐに開封して冷蔵庫で保管してください」
「はい。あの……」
まごまごしているうちに、配達員は去っていった。
差出人のところにはどこかの店名が書かれている。おぼえがないが、龍星がネット通販ででも購入したのかもしれない。
そう思い、小さなダンボール箱をあけると、缶詰が一つ入っていた。
それを見た瞬間、澄麗はイヤな感じがした。缶詰から猛毒がふきだしているかのように、黒くゆがんで見えた。
(これをあけてはダメ……)
そう思うのに、手が自分のものではないかのように勝手に動く。プルタブに指をかけ、フタを持ちあげる。
パクン——
なかには、赤黒い胎児の死体が入っていた。
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