第68話 怪・缶〜あやしい缶詰〜1
夜の街をただようようにさ迷う
「この缶詰、買いませんか?」
黒いタートルネックのニットに黒のデニムパンツ。黒のトレンチコートを着ている。全身、黒服なせいか、その肌は怖いほど白く、きめこまやかに見える。
切れ長の双眸に細い鼻梁の、今風のイケメンだ。
はたちくらいだろうか?
澄麗より少し年上のようだ。
思考が停止したまま、ぼんやり歩いていたが、男に声をかけられて、澄麗は我に返った。
「なんですか? あなた……」
「おれのことは、どうだっていいんだよ。買うのか、買わないのか?」
「なんで、そんなもの買わなきゃいけないんですか?」
怪しい薬でも入っているのかもしれない。缶詰入りと言うのは聞いたことがないが。
澄麗があとずさると、男はゆがんだ笑みを見せた。
「いいのかな? これは、なんでも望みの叶う缶詰なんだ」
「なんでも? ほんとに?」
「ああ。なんでも。ただし、対価が必要だ」
やっぱり、そうだ。この男は麻薬か何かの売人なのだ。いや、それとも、案外、ただのミカンの缶詰かなんかを通りすがりの人に法外な値段で売りつけるチンピラなのかもしれない。
「わたし、今、お金持ってません……」
言いすてて、澄麗は走りだそうとした。
男が澄麗の手をつかんで、ひきとめる。
「金はいらないんだ。あんたの一番、大切なものを一つだけ、代償として支払うことになる。でも、それだけで、あんたはどんなものだって思いのままだ」
澄麗をのぞきこんでくる冷めた目を見て、怖くなった。
なんの感情もないかのような、その瞳。なんだか人間のように思えない。
澄麗が男の手をふりはらおうとすると、男はすばやく、澄麗に缶詰をにぎらせた。
「幸せになりたいんだろ? あんたは、ただ、この缶に願いごとをしたらいいんだ。そしたら、このなかに、あんたが代償として払ったものが封印される」
「はなしてください」
「いいよ。行けよ。でも、その缶詰だけは絶対すてるなよ?」
男が手を離したので、澄麗は無我夢中で走った。
缶詰をにぎりしめたままだということに気づいたのは、アパートに帰ってからだ。
四畳半一間に二畳ほどのキッチンがついた安アパート。高二のときに家出して、大学生の彼と住んでいた。
その彼は、今、四畳半の寝室にころがっている。寝ているわけじゃない。頭から血を流して倒れているのだ。
「……ただいま」
声をかけるが、当然のこと返事はない。
死んでいるのだ。
澄麗は、まだ十八だ。高校も中退してついてきたのに、今さら別れようという彼に、カッとなって、つい南部鉄器のフライパンでなぐってしまった。
人を殺したことに動揺して、街をさ迷っていた。
缶詰を持たされて帰ってきたけど、何も変わらない。死体は、やっぱり、そこにあった。
澄麗は絶望して、タタミに両手をついた。
子どものころに両親が離婚して、父にも母にも引きとりを拒否された。祖父母に育てられたが、生活はまずしかった。今の十代があたりまえにできることが、何もできなかった。
そのころに出会ったのが、達也だ。
「おれが幸せにしてやるよ」という言葉に感動して、ついてきたが、けっきょく、コレだ。
達也の死体を前に、涙がボロボロこぼれおちてくる。
「もうヤダよ。あたしだって幸せになりたいよ。お金持ちになって、優しくてイケメンの彼と結婚したいよ!」
叫んだとき、一瞬、にぎりしめた缶詰が熱くなった気がした。
もしかしたら、ほんとに願いが叶うの?
期待したが、何分待っても何も起こらない。
死体は、そこにある。
それをなんとかしないと、澄麗は警察に捕まってしまう。
タタミの上にころがる缶詰をけりとばして、死体の両腕をつかんだ。せまいが浴室がある。そこで解体して、どこかにすてるしかない。
晩秋だというのに汗だくになって、澄麗は泣きながら達也の体をバラバラにした。
*
数ヶ月がたった。
澄麗は自分の荷物だけを持ってアパートをとびだした。
高校を中退してから、ずっと居酒屋でバイトをしていた。そこを辞め、水商売を転々とした。
意外にも、達也の死体は見つからなかった。
最初は、いつ捕まるかと毎日、気が気じゃなかったが、しだいになれて安心してきた。
このまま死体が発見されなければ、平穏な人生が送れる……。
だが、そのころから、澄麗は体調をくずした。吐き気もするし、食欲がわかない。生活環境が変わったし、何より“あのこと”が、いつバレるのかと心の休まるときがないせいだろうと思った。
しばらくすると食欲はもどった。嘔吐もなくなり、むしろ、いつも以上にたくさん食べてしまう。月々の生理も来ないし、ようやく、自分の体調変化の理由を理解した。
子どもができたのだ。達也の子だ。
最初はおろそうと思っていた。
学歴もない十八の女の子が、水商売以外で、どうやって金を稼ぐというのか。赤ちゃんなんて生んで、育てているゆとりはない。
だが、子どものころに両親からすてられた自分自身のことを思うと、おろすことはできなかった。親にすてられる悲しさを知っていたから。
ホステスを辞めて、田舎に引っ越した。貯金はかなり、たまっていた。出産して一年か二年くらいは働かなくても、なんとか暮らしていけるだろう。
ひっそりと子どもを生んだ。男の子だ。拓也と名づけて大切に育てた。
たしかに、シングルマザーの生活は厳しかった。とくに拓也が幼いうちは、託児所に預けないと働くことさえできない。両親とも祖父母とも連絡を絶った澄麗には、誰もたよれる人がいない。
ただ、がむしゃらに働いた。お金になるなら、どんなことでもした。
そんなとき、拓也のあどけない笑顔が、どれほど力になったことか。
この子はわたしの宝だ。この子のためだけに生きていける。
そう思った。
二十数年なんて、あっというまだった。
そして今日、拓也は大学を卒業した。一流の大学に入学させてあげることはできなかったが、地方の公立大学を現役で卒業し、春からは県庁所在地にある地方銀行の本店に勤務する。
「今日からは、おれがお母さんに楽させてあげるからね」
「ありがとう。拓也」
拓也が働くようになって、生活は目に見えてよくなった。数年後には夢だったマイホームも手に入れた。
拓也の結婚。孫の誕生。
何もかも、とんとん拍子で怖いくらい。
あるとき、押入れを整理していた澄麗は、一番奥のダンボール箱のなかから、見なれぬ缶詰を見つけた。パッケージが外国語で読めない。英語でも中国語でもハングル語でもない。梵語だろうか? これまで澄麗が一度も見たことのない文字だ。
多少の重量はあるが、それほど重くはない。ふるとカサカサと音がした。中身は入っている。
なんだろう? これ?
澄麗は気になって、プルタブに指をかけた……。
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