第61話 用水路



 清子が子どものころの話だ。

 小学二年くらいだっただろうか。


 清子の実家は地方にあり、家のまわりは田んぼだらけだ。田んぼの近くには清水の流れる用水路が縦横無尽に走っており、ヤゴやオタマジャクシやザリガニなどの生き物がいた。


 学校から帰ると、そんな水辺の生き物をつかまえて遊んだものだ。

 一度だけ、とてつもなく大きなザリガニをつかまえたことがあった。ふつうのザリガニは十四、五センチほどだが、そのザリガニは、ゆうに三十センチはあった。

 あまりにも大きかったので、友達に自慢するために、金魚を飼っていたときに使っていた小さな水槽にムリヤリ入れて、上から漬物石をのせておいた。

 夏場のことで暑かったのか、翌日には死んでしまっていたが……。


 そんな思い出もある自然ゆたかな土地。


 ある日のこと、朝から雨が降っていた。下校するころにはやんでいた。遠くの山に虹がかかっている。


 友達の千恵と二人での帰り道。

 用水路は増水していた。水が濁り、流れがとても速い。


 清子は赤い長ぐつをはいていた。買ってもらったばかりで、とても気に入っていた。わざと水たまりのなかを歩き、バシャバシャ水をはねさせて遊んでいた。


 千恵もマネして、とびはねた。二人で競うように、遊びはだんだんエスカレートしていった。


 増水して、今にもあふれそうな用水路のなかに、最初に足をつっこんだのは千恵のほうだ。水流が思いのほか速かったのか、ちょっとよろめきながらも、長ぐつのなかいっぱいに水をためて、得意そうに足をあげる。


 そのようすがむしょうに羨ましく、悔しかった。


 水は見ているうちにも、どんどん増えている気がした。

 しかし、子どもの遊びは、いつのまにか競争になっていることがある。ここでやらないと負けると思った清子は、千恵と同じように片足を用水路のなかに入れた。


 とっくに水位は長ぐつの高さを越えている。足をつっこんだだけで、水が長ぐつのなかまで入ってきた。小学校の制服のスカートも水につかりそうだ。

 清子はさらにもう片方の足も用水路に入れた。ひざの上まで濁った水につかる。


 ふふん、わたしの勝ちだねという気持ちで千恵を見た清子だが、足をひきぬこうとして、あわてた。

 足がぬけない。

 用水路の底にたまった泥が粘土質なのか、すっぽりハマって身動きがとれない。それどころか、まるで底なし沼みたいに、ズブズブと沈んでいくのだ。


「千恵ちゃん。助けて。ぬけないよ」


 手を伸ばし、千恵にひっぱってもらうが、子どもの力では清子をひきあげることはできなかった。


「あたし、お母さんを呼んでくる!」


 そう言って、千恵は走っていった。

 とたんに、清子は不安になった。

 一人で心細い。

 水は増すばかり。

 清子がつかっていることで水流が乱れるのか、足元に渦ができていた。


(千恵ちゃん。早く。もどってきて!)


 心のなかで何度も念じた。


 そのときだ。

 とつぜん、グイッと水中から足をひっぱられた。何かが、清子の足首を強くにぎりしめている。

 清子は立っていられなくなって、用水路のなかに尻もちをついた。いっきに喉のところまで水に没した。茶色い水が口のすぐそばまで迫る。

 それでも、清子をひっぱる力は弱まらない。横倒しになりそうなのを、必死で用水路のふちにつかまって抵抗した。


「助けて! 助けてェー!」

 叫んだものの、あたりに人影はなかった。

 いっこうに千恵も戻ってこない。


 グイグイ。グイグイ——


 ひっぱられて足が痛い。

 大きなハサミで挟まれてでもいるかのようだ。


 泣きわめく清子の口も水につかり、容赦なく泥水が流れこんでくる。

 ああ、自分は溺れているんだなと、清子は思った。


 もうダメだ。このまま、死ぬんだ。

 ふざけて用水路なんかに足を入れなきゃよかった。


 気が遠くなりかけたとき、かけてくる足音がした。


「清子ちゃん! 大丈夫? 今、行くよ!」


 千恵ちゃんだ。

 千恵ちゃんがお母さんをつれてきてくれた。


 まもなく、清子は千恵の母によって、用水路の外へ助けだされた。両わきのあいだから胴体を抱きかかえられ、ぐっと上に持ちあげられる。


 清子の体が濁流からひきあげられたとき、一瞬、ちらりと赤い色が見えた。

 とても大きなザリガニのハサミが、すっと泥水のなかへ沈んでいった……。


    

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