第60話 廃ビル
県庁所在地にある大学に入学したため、私は高校卒業と同時に親元を離れ、一人暮らしをしている。大学を卒業すると、そのまま、そこで就職した。
若い女なので両親は心配していたが、私は自分がテレビのニュースで見るような凶悪な事件にまきこまれるとは思っていなかった。
会社は五時半で終わるが、決算時などはたまに残業になる。私の借りているアパートは市内でも山手に近く、夜になると暗い。
そんなとき、少しでも早く帰るために、駅からアパートまでの近道にしている場所がある。バブルのころに大型商業施設として建設されたものの、途中で計画がとん挫し、今では廃墟になっているビルだ。建物のまわりにはいちおう柵があるのだが、一部、金網がやぶれて敷地内に入ることができる。
地元の人にはわりあい知られているぬけ道だ。この廃ビルを迂回していくより十分も早くアパートにつく。
だが、最初に、それに気づいたのはいつからだろう?
もう二、三ヶ月にはなる。
このぬけ道を通るとき、誰かがあとをつけてくるのだ。いつも敷地のなかほどまで来ると、遠くのほうから、カツン、カツンと足音が聞こえる。
いわゆるストーカーだろうか?
やはり、そこは女だ。
薄気味悪い。
私はなるべく、そのぬけ道を通らないように気をつけた。すると、あとをつけられることはなくなった。もしかしたら、ただの気のせいだったのかもしれない。
安心しかけていた、ある日。
帰りが少し遅くなった。冬のことだ。六時すぎだが、すでに外は真っ暗だった。
それでも、私は廃ビルのぬけ道は通らないつもりでいた。帰りは遅くなるものの、十分くらいのことなら安全な道のほうがいい。
そう思っていたのだが、運悪く、その日、いつもの道は工事中だった。全面通行止めだ。まわり道をすると、さらに十分遅くなる。寒い日だったので、アパートにつくのが二十分も遅くなるのはイヤだった。
私は、そっと、あたりを見まわした。とくに背後は念入りに。誰もつけてくるようすはなかった。工事の人以外、人影もない。
これなら問題ないだろう。
走りぬけていけば、五分もかからない。
私は勇気を出して、金網のやぶれから、廃ビルの敷地に入った。
最初は誰もついてくる感じはしなかった。ビュウビュウと風の吹きぬける音が寒々しく響くだけだ。
私は小走りに歩いていった。
広い敷地のなかに、暗い建物がえんえんと続いている。ほとんどはコンクリ打ちっぱなしのままで、鉄骨がむきだしになったところもある。
建物の死体のようだ。
皮膚が
そんな連想をした。
そのせいか、黒く巨大な建物のなりそこないが、いつにも増して迫力があった。
早く、この場所から逃げだしたい。
私はコートの前をつかみながら、できるだけ急いだ。
すると、やはり、なかほどあたりまで来たときだ。カランと、どこかから乾いた音が聞こえた。
私以外、誰もいないはずの空間。
無人の廃墟。
風でそのへんのものが飛ばされた音だろうか?
いや、違う。足音だ。
カカカカカ。カツ、カツ、カツ。
誰かの走ってくるような音がする。
私は無我夢中で走った。
追いつかれたら殺される——そんな気がした。
それにしても速い。
私だって必死に走っているのに、足音はみるみる追いついてくる。背後に男の息づかいさえ感じた。
ハア、ハア……ハア……。
男の呼吸はすぐ耳元で聞こえる。
ダメだ。こんな男につかまったら、マジで殺される。
「やめてェー! 来ないで!」
バッグをふりまわしながら、ふりかえった。
私は、あぜんとした。
そこには誰もいない。
私は廃墟の近くに、たった一人で立っている。あの激しい息づかいも、足音も、ピタリとやんでいた。
ゾワッと全身の毛が逆立った。
もちろん、あの一瞬で人間一人、隠れられるような場所はどこにもない。
だとしたら、さっきまで感じていた、あの気配はなんだったのだろう?
私は悲鳴をあげて逃げだした。
走りだしたとたんに、人とぶつかった。作業着を着た男の胸と、ニヤッと笑う口元が視界に入る。
(あっ……消えたんじゃない。私がふりかえった瞬間に同じ方向に走って、さきまわりしたんだ)
そう思うと納得はいったが、別の意味で、また怖くなる。やっぱりストーカーなんだと思った。
私は、ここで殺される?
絶望しながら見あげた私は、そのまま気を失った。
なぜなら——
男には、口から上がなかったから……。
*
意識が戻ったときには、男は消えていた。
あとで知ったのだが、その廃ビルは建設中の事故で、作業員が一人、死亡したのだという。
落下してきた鉄骨が頭部を直撃し、凄惨な死にざまだったらしい。頭蓋骨がくだけ、顔の半分がなくなっていたとか。
それ以降、私はこの道を通るのをやめた。どんなに急いでいても、遠まわりしている。
ただ……。
なぜだろうか?
近ごろ、背後に足音が聞こえるのだ。
暗がりを歩いていると、どこにいても、追ってくる……。
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