第6話 ウミメ
日本海は荒れていた。
海岸線には高波が舞いあがり、道路まで
日も暮れ、あたりは暗い。
どうやら道に迷ったようだ。
このあたりに旅館があると聞いたのだが、それらしい建物はいっこうに見つからない。
下谷和樹は一人でバイク旅行をしながら、昔の伝承やその土地の都市伝説を聞き集めるのが趣味だ。
学生のころはヒマを見つけて、ひんぱんに旅行していたが、社会人になってからは、ゴールデンウィークや盆休みなど、たまの長期休暇をこの趣味にあてている。
今回、シルバーウィークに有給をつけて、十日ほど連休をとった。ひさびさに遠出して気分よく進んでいたのだが、季節はずれの台風に見舞われて、天気が急変してしまった。
このあたりには高い崖もあり、見通しが悪くなると、ひじょうに危険だ。早く、どこかで休みたい。
道の片側は海、片側は山。
ずっと、そんな調子だ。雷雨は、ますます激しくなってくる。何より風がきつくてバイクの安定がよくない。ふらついて何度もハンドルをとられそうになる。
そんなとき、片側の林がとぎれた。細い土の道が目に入り、そのさきに小さな平屋建ての家が見えた。ぽつりと一軒、かぼそい灯がともっている。
旅館のようではない。造りは、ごくふつうの民家だ。民宿にしても小さすぎる。
泊めてくれる保証はないが、とにかく、三十分でもいいから休ませてもらいたいと、和樹は考えた。旅館の場所を教えてもらえるかもしれない。
小道はぬかるんでいた。スリップしそうなので、和樹はバイクをおりた。押して歩いていく。
雨は激しくたたきつけ、和樹の体を打つ。
この時期の雨は雪より冷たい。
芯まで凍えて、ふるえが止まらない。
ようやく、家の前についた。
近ごろは片田舎でも家はモダンなことが多いのだが、昔ながらの瓦屋根の昭和風の建築だ。古くて暗い。
「すみません。道に迷いました。この台風で困っています。少しのあいだでいいので休ませてもらえませんか?」
呼鈴らしきものが見つからないので、戸口をたたきながら声をかけた。
しばらくして、なかから人の歩いてくる足音が聞こえた。
玄関は引戸だ。ガラガラと音を立てて、戸口がひらく。
女が立っていた。
三十代の始めくらいだろうか。薄暗くて、よく見えないが、それでもキレイな女だと思った。
「どうしましたか?」
「道に迷って、休ませてもらいたいんです」
家のなかは静かだ。女の一人暮らしなら断られるだろうと、和樹は覚悟した。あの足をとるぬかるみの道を、また歩いて帰らなければならない。徒労感が重く肩にのしかかる。
ところが、女は意外なことを言った。
「いいですよ。どうぞ」
「ありがとうございます」
軒下にバイクを停め、玄関をくぐった。
とにかく照明が薄暗い。玄関には明かりがなく、ろうかにも電球が一つついているだけだ。
女が右手の障子をあけると、なかは六畳の和室だ。
カチカチと女が電気の傘から伸びた紐をひくと、黄色い光が部屋に満ちた。
明るい電光のもとで女の姿を見た和樹は、ハッとした。
キレイな女だとは思っていたが、予想以上に美しかった。
透きとおるような白い肌をしている。
長い黒髪のつややかさが、それを強調していた。
しかし、和樹が息を呑んだのは、そのせいではない。
女をどこかで見たことがあると思ったからだ。とは言え、どこで会ったのか思いだせない。こんな美人を目にしていたなら、おぼえていそうなものだが。
「タオルを持ってきますね。お茶漬けくらいしか出せませんが、何か召しあがりますか?」
「いいんですか? 助かります」
女はいったん、部屋から出ていった。和樹はちゃぶ台の前にすわった。
だが、部屋に暖房器具が置いてないので、室内は薄ら寒い。このままでは風邪をひいてしまう。
ふるえていると女がもどってきて、ちゃぶ台に盆を置いた。片手にはタオルを持っていて、和樹に手渡してくる。
「これを使ってください」
「どうも」
盆には茶漬けと漬物がのっていた。粗食だが、あたたかいものが腹に入ると、生きかえるようにあったまった。
ほっとしたところで、ちゃぶ台をはさんで真正面にすわった女が話しかけてきた。
「お天気が悪くなって災難でしたね。日本全国を旅してまわっているんですか?」
「旅をしながら、各地で怪談や伝承を聞くのが趣味なんです。もしよければ、何か話してもらえますか?」
「いいですよ」
女はまた、あっさりと承諾する。
「このあたりには、海女という妖怪の伝説があります。海の女と書いて、ウミメです。
「海難事故からってことですか? 海の神さまみたいなものですね?」
「まあ、そうなんでしょうね」
「それだけじゃ、あんまり怖い話とは言えないなぁ」
和樹がつぶやくと、女は笑った。
「海女の話は大昔からの伝承ですから。でも、それにまつわる、こんな話があるんですよ」
「どんな話です?」
「昔、このあたりに左吉という漁師がいました。父を海で亡くしたので、漁の安全を願って、毎日かかさず海女の祠に魚をそなえました。そのせいか、左吉はどんな悪天候の日でも、ぶじに帰ることができました。
ある日のことです。いつものように漁に出ると、急に黒雲がわきあがり天気が急変したのです。
左吉の舟は、大波小波のあいだを木の葉のようにキリキリ舞いし、やがて、よこ波をかぶって転覆しました。
ああ、もう、ここまでかと左吉は考えました。深く暗い海の底へ、ブクブクと沈んでいきます。
そのときです。海底から何かが近づいてきました。そして、左吉の体をつかむと、岸まで運んでいったのです。そうです。海女が助けてくれたのです」
「なんだか、人魚姫のようなお話ですね」
ふふふと女は笑った。
そのなまめかしさに、和樹はドキッとした。
「あんなキレイな話ではありませんよ」と、女はどこか冷めた口調で言う。
「翌朝、目がさめたとき、左吉は女に介抱されていました。ぬれたような黒髪の美しい女でした。お梅と名乗る女と、左吉はそのまま夫婦になりました。
お梅は美しいだけでなく、たいへん働き者で、気立てもよく、近所でも評判の良妻となりました。
お梅は毎晩、左吉が寝ているあいだに、どこかへ出かけていくようでした。帰ってくるときには必ず、たくさんの魚や貝などの海の幸を持っていました。
おかげで、左吉はみるみる金持ちになりました。二人で食べる以上の魚介類は、米や金にかえて貯めることができたからです。
いい嫁をもらったと、左吉は喜んでおりました。ですが、お梅がどこから、どのようにして、あれほど、たくさんの魚を得ているのか不思議にも思いました。
もしや、左吉も知らない豊かな漁場を知っているのではないか——
そう考えた左吉は、ある夜、寝たふりをして、お梅が出ていくのを待ちました。こっそりとあとをつけて、漁場をつきとめようとしたのです。
穴場の漁場を知ることができれば、このさき、もっともっと裕福になれると目論んだのでした。
きっと、お梅は舟を使って海へ出るのだろうと、左吉は考えていました。ところが、お梅が歩いていったのは、浜辺の粗末な小屋でした。左吉が漁の道具を入れておくために建てた、ほったて小屋です。
漁の道具を持ちだすのだろうかと待っていましたが、お梅はいつまでたっても小屋から出てきません。
左吉はしびれをきらして、小屋をのぞいてみることにしました。小屋に近づき、壁板の節目に目をあてました。
なかは灯りがなく、真っ暗です。
ですが、なにやら声が聞こえます。
うーん、うーんと、うなるような声でした。
ザザザ……ザザーンと、波の打ちよせる音。
そのあいまをぬって、うなり声はしだいに激しさを増すばかり。
左吉は冷や汗が止まりませんでした。それほど、うなり声が尋常ではなかったからです。
お梅はなかで何をしているのだろうか?
まるで殺されそうな声だが……。
そう考えながら、じっと目をこらしました。
すると、月明かりがさしてきました。小屋のなかも、ほのかに明るくなりました。お梅の姿が暗がりのなかに白く浮きあがります。
左吉は腰をぬかしました。
ひろげたお梅の足のあいだに、何かが、うごめいています。
それは、魚でした。
大きいのや小さいのや、フグやアジ、
左吉は声も出せずに逃げだしました」
和樹は息を飲んだ。
女はなれているのか、いやに語り口がうまい。
臨場感のある話しぶりに、手に汗が浮かぶ。
「……怖い話ですね。おもしろかったです」
女は湯のみにお茶をそそぎながら、思わせぶりに言う。
「これで終わりじゃないんですよ。後日談があるんです。女房が人間じゃない、化け物だと知った左吉は、お梅が寝ているすきに麻の袋につめて、海になげすてたんですよ」
「そんな! それで、どうなったんですか?」
「どうなったんでしょうね。言い伝えでは、そのあとしばらくして、左吉は気が狂って死んだそうです。海女の祠がある崖の上から身をなげて」
「そうですか……」
「それからというもの、海女には別の言い伝えがくわわったんです。ウワサ話のようなものですけど。女をひどいめにあわせた男に罰をあたえてくれるのだそうです」
「罰……ですか」
恐ろしい話だった。
だが、もちろん、和樹は本気で信じたわけではない。ただ少し、身の内がゾクリとした。記憶の底に沈めたものを呼びさましそうな、そんな気がした。
その夜は女の家に泊まることになった。
真夜中に目がさめたとき、どこからか変な声が聞こえた。
獣のうなるような声だ。
うううううううう……。
ぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐ……。
嵐は去ったらしく外は静かだ。
静寂のなかで、その声は異様にひびきわたった。
女の声だ。あの美しい女が人間とは思えないような声をあげている。
和樹の体はふるえた。布団のなかにいても寒気が止まらない。
女が話してくれた海女の伝説が、いやおうなしに脳裏をよぎった。
いったんは布団にもぐってムリヤリ寝ようとしたが、どうしても気になった。和樹は恐る恐る部屋をぬけだして、声のするほうへ歩いていった。
その声はとなりの部屋の障子のむこうから聞こえた。
女がここで眠っているようだ。
和樹は、そっと障子に手をかけ、少しだけひらいてみた。
四畳半ほどの座敷だ。豆電球が一つ、薄暗い光をあたりになげている。
女は布団の上によこたわっていた。
白目をむいて悶絶している。布団は血みどろだ。
その顔を見たとたん、和樹は思いだした。
(やっぱり、そうだ。どこかで見たことがあると思った……)
ここにいたら殺される。
あれは生きた女じゃない。海からあがってきた死人だ。
恐ろしさに足がすくんだが、必死になって玄関まで這っていった。
とるものもとりあえず、和樹は外へ出ると、バイクをひいて車道まで歩いた。舗装された道まで来ると、ふるえる手でキーをさしこみ、エンジンをふかす。
バイクが走りだしたときには安堵した。
ここまで来れば大丈夫。もう、あの家も見えない。女は追ってこない。
そう思う一方で、まだ冷水をあびたように全身のふるえが止まらない。
あれは、あの女だった。
あのとき、和樹が崖の上からなげすてた女だ。
あの日も嵐だった。
視界が悪く、激しい雨のなか、数メートルさきも見えなかった。
ちょうど、こことよく似た海岸ぞいのまがりくねった山道を走っていた。女はとつぜん、ヘッドライトのなかに現れた。和樹にはさけようがなかった。急ブレーキをかけたが、路面がぬれていてまにあわなかった。
女をひいてしまった。白目をむいて、口から血のあわをふいていた。殺してしまったと思った。あるいは急いで病院へつれていけば助かったのかもしれないが。
あのときは、そんなことは思いうかばなかった。
人を死なせてしまったと思った和樹は、女を崖の下へなげすてた……。
(ゆるしてくれ。ゆるしてくれ。どうしようもなかったんだよ。まだ学生だったし、人生これからだったんだ。人なんかひき殺したら、全部おしまいじゃないか!)
そのとき、視界のさきを何かがよぎった。
思わずハンドルをきった。
急カーブがせまっていた。
バイクはガードレールをつきやぶり、崖下へ落下していった——
*
意識がもどったとき、和樹は病院にいた。
全身のいたるところを骨折し、右目もつぶれて失明した。
一命はとりとめたものの、これから自分がどうなるのかは、なんとなくわかっていた。
これは海女の呪いなのだ。
だって、いつも視界の端に何かがいる。
赤黒い、ビチビチとはねる、いやな匂いのする何かが。
ウジャウジャと大群になって、からみあっている。
追いはらっても、追いはらっても、きりがない。
いつかは、あれらに埋もれていく。
「うわー! 来るな! 来るなぁー!」
「下谷さん。落ちついてください。事故後の後遺症による幻覚ですよ」
「そこにいる! いるんだ!」
一人になると、つい叫んでしまう。
医者や看護師は錯覚だと言うが、そんなはずがない。
ずっと、和樹のあとをつけてくる。
海女は
とこしえに、そばについて、生み続ける。
男に殺された女の怨みを……。
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