そんな沈んだ気分の中でも時間の流れは当然のことながら遅くなる事も、止まる事もなかった。当たり前に日が昇り、重たい瞼を開けて制服に着替えてから朝食を食べる。

 正直な所、去年までみたいにこんな日は私服にして、サボってしまいたかったのだけれど、それは許されない。

 去年の暮れ、先生に釘を刺されているし、何より千恵の手伝いもいよいよ大詰めだ。それにこんなところで立ち止まってしまえば二度と歩きだせないような気がした。


 食器を水に浸したときに見た時計の針は、普段の生活からは考えられないほど手前にいる。でもこれ以上家に入り浸る理由もない。履き慣れたローファーに人差し指を刺して足を通すと「行ってきます」と一言添え家を出る。


 何百回も繰り返した住宅街を歩いて、学校前の上り坂で規則的に繰り返される足音を聞いた。目を細めてその音源を探すと、もう見慣れた姿が坂の頂上に向かって駆けている。他に人が走っている訳でも、並んでいる訳でもないから今日も彼女は一人で自主練しているのだろう。

 頂上にたどり着いた彼女は身体を反転させて、下って来る。なんとなく手を振ってみると彼女はこちらに感づいて、腕を大きく振った。


「おはよう、早乙女さん」

「うん。おはよ。真也君。どうしたの? 珍しいね。こんな時間に」

「早く起きちゃったからさ。早乙女さんは熱心だね。今日も自主練?」


 早乙女さんは「まあね」頷いてから俺の隣に立つ。


「走ってないと落ち着かないし。今しかできない事もあると思うし。それに頑張ってる人を見るとさ『私も頑張んなきゃなぁ』って思うじゃん?」

「それって千恵の事?」

「千恵もそうだけど、真也君も。昨日見てたんだから」

「ああ、見てたんだ。恥ずかしいな」


 頬をかきながら視線を外す。昨日のことを振り返る度にどうしても湧き上がる不快感を悟られたくなかったのだ。自虐の意味を込めつつ言葉を続ける。


「ヘタクソだったでしょ」

「そう? そこまでは思わなかったよ。一生懸命さが伝わって来て良かったと思う」

「お世辞でも嬉しいよ」

「私がお世辞なんて言うほどまわりに気を遣ってると思う?」

「どうかな。なんだかんだ言いながら世話焼きだし、そういう所にはすごい気を配っていると思ってたけど」


 そう言うと「そこは気遣う所じゃないよ」なんて早乙女さんは笑い返す。そんなつもりは微塵もなかったのだけれど、ここで言い直すと余計に気を遣っている気がする。


「でも、そういう技術とかクオリティとかの話じゃないでしょ? ああいうのって。どれだけその人の事を考えて、それを言葉にするのかだと思う。だから真也君は千恵の気持ちを射止めたんじゃない?」


 逸らしたままだった俺の顔を覗き込むようにして早乙女さんは言う。その後「うっわ、恥ずかしい! やっぱ今の無し!」と顔の前でブンブンと手を振った。

 彼女は俺にそう言ったことを後悔していたみたいだったけれど、俺にはその言葉が胸にスッと入っていった気がする。たった一度の肯定で気持ちが上向くなんて俺は単純だ。


「いや、ありがとう。そうだったらいいな」

「大丈夫だって、そんな心配しなくても」

「そうかな」

「そうだよ」


 早乙女さんは自信満々に頷いて見せる。その根拠のない自信はどこから湧いてくるのか気になった。もし、小説やアドベンチャーゲームみたいに彼女のモノローグが括弧かっこを付けて漏れ出て来たのならそんな自信を持てそうだけど、それはそれで怖かった。


 告白したあの日。彼女が言っていた認識。あれ以降彼女の気持ちの所在を確認することはしなかった。

 でも、いつまでもそのままじゃいられない。この関係もいつまでも続けられる訳じゃない。

 だから、今できることを精一杯やろう。そう、決めた。


「早乙女さん、ちょっと聞きたいんだけど、いいかな?」


 ▼


 俺は学校についてから積極的に動き始める。早乙女さんをはじめ、図書委員や演劇部。千恵の事を好意的に思っていた人間たちを再び訪ねて回った。

 昨日応援演説をしたとき。俺は自分の視点からしか彼女の魅力を語れなかった。少しでもその内容を深めようと彼女について聞いてみることにしたのだ。

 実際に聞いてみると、その多くは女性で、男性、それも片思いというフィルターのかかっている自分では上手く見れない部分も語ってくれることが多い。

 放課後には一通り聞き終わって、中庭に顔を出す。青のベンチにはまだ彼女の姿はない。一足先に腰を下ろした。


 千恵が来るまではノートにペンを走らせることにした。彼女の様に綺麗にまとめるには至らないけれど、思考をまとめるには丁度いい。

 聞いて来た話を取捨選択する。あからさまに目的に合っていない物は弾けた。だが、微妙な所がいくつか存在する。

 長所と短所は表裏一体とはよく言ったもので、今回の様な場合、伝えたい物事によって使い分けていくことが無難であろう。

 やはり問題は――


「何やら悩んでいるみたいだけど、何について考えているのかな?」

「うぉっ……ああ、びっくりした。急に後ろから話しかけるなよ」

「いや、君がなかなか気づいてくれないものだからさ。つい、ね。それで、何していたのかな」


 後ろにいた千恵は回り込んで隣に陣取ると俺のノートを覗き込んだ。走り書きの雑な文字列の中から情報を読み取り、頷く。


「ああ、成程ね。台本作りか」

「そう言う事。いろいろと考えてみたんだけど。ちょっと詰まっちゃってさ。ある程度までは話したい事に合わせて絞り込めるんだけど、ここから先はお前が気にいるかどうかだと思う」


 俺はノートを手渡して彼女に意見を求める。

 まだ数ページしか書いてないそれをパラっとめくって、千恵は顎に手を当てた。その様子を隣で眺める。

 相変わらずの太いマジックペンで縁取ったみたいな黒縁眼鏡。そのレンズ越しにある瞳が文字を追って揺れる。差し込む光の反射が綺麗で、じっと見ていたい衝動に駆られた。

 しかし、こういうのもなんだか久しぶりな気がする。というか実際に久々なんだろうな。彼女と一緒にいることは多かったけれど、彼女そのものよりも、他の事にとらわれてしまっていていたのだろう。


「ふむ……悪くはないね。おおよそはこのままで使ってもいいと思う。ただ、」

「ただ?」

「『他人のことでも全力で頑張れる』って言うのはちょっと違うかな」

「そうか? そんな事無いと思うけど」


 俺は思ったことを聞き返す。彼女は目を閉じて首を横に振った。


「そういうのはボクを表す言葉じゃない。ボクの『他人の為に頑張る』ってのは結局は自分の為なんだよ。自分の為に、全力なんだ」

「そのようには見えないけどな」

「見せてないからね。露骨に自分の為に頑張る所を見せると敵を作る事があるからさ」


 千恵は「ふぅ……」と息を漏らす。まあ女の子には色々あるのだろう。

 ほどほどに孤立せず、かと言って話題の中心になる事無いような立ち位置(最近はそうでもないが)をキープしてきた彼女は、気苦労も絶えないのかもしれない。


「そんな事を言うなら、ボクよりも君に合いそうなキャッチフレーズじゃないかな。今日だってほら、君はボクの為に頑張ってくれているじゃないか」


 彼女は「違うかい?」と問う。その言葉を訂正するために首を横に振る。


「いいや、俺だってそうだよ。結局は自分の為だ。お前と変わらない。それは最初に言わなかったか?」

「そうだったかな。でも君がボクの為に頑張ってくれているっていうのは変わらないだろう?」

「……まあそうだな。でもその理屈で言うならお前にだって同じことは言える」


 俺が問いかけると彼女は表情を歪めて目を伏せた。視線の先の足がブランコみたいに揺れる。


「あまり完璧な人間扱いをされるのは好きではないんだよ。そんなものは存在しないし、自分がそのような期待を向けられるなんて吐き気がするからね」

「それは言えているな。大きすぎる期待を受けると首を絞められているみたいな気分になる」

「流石、分かってるね。だから過剰な物は求めない。着の身着のまま、そのままのボクをアピールしてくれればいいさ」


 暗い気持ちを振り切る様にそう言うと、千恵は拳で軽く俺の胸を叩く。

 彼女は偽ることを嫌う。嘘でどれだけ自分が有利になるとしてもそれは変わらない。こんな場面でもそれを貫き通すのだから、きっと彼女をかたどる上で重要なピースなのだ。


「了解。じゃあその方針で行く」

「うん。改めてお願いするよ」


 会話が途切れて、千恵からノートを受け取る。そして今の意見を含め改めて台本を作り始めた。

 木々のさざめきとペンが紙の上を走る音。消しゴム一個分ぐらいにしか離れていない距離が彼女の息使いや体温も伝えて来そうだった。

 特別な事は何もない。ただそばにいるだけ。なのに、他にはない多好感が確かにある。

 それは今日だけの事じゃなくて、家でした勉強会。水族館でのデート。夏祭り。その全てで感じてきたことだった。


 ああいった出来事から離れて数ヵ月。俺は、これまで以上に彼女と過ごしたくて、離れたくなかった。だからこそ俺は彼女の手伝いをしている。


 改めてそれを自覚して、俺はペンを止めた。


「お前、俺の事……今はどう思ってる」


 口の端からぽろっとこぼれたかの様に呟く。

 それが俺の目的であり、彼女の好奇心の中心にして、俺たちの関係性を繋いでいる楔だった。


 一瞬の空白で俺が何の考えもなく、楔を崩そうとしていることに気が付く。慌ててノートから視線を彼女へと移した。


「ああ、いや、その、やっぱなし。本当はこんな所で聞くつもりじゃなかったんだ。忘れてくれ。ここで聞くのは何か、ズルい気がするから」

「ズルい? 何がさ」

「恩に付け込んでいる気がする。ここでお前が断ったら俺が応援演説止めちゃうかも、とか考えるだろ? そういうのは嫌なんだよ」


 本当は生徒会選挙が一段落してから言うつもりだった。ここで千恵の役に立てたのなら、俺は彼女の中で少しでも大きくて、重要なピースになれる気がしたのだ。

 でも、後悔しても遅い。回り出した口車は勢いがついて、そう簡単に止めることができない。彼女の食いつきから見ても、ここで何事もなかったかのように振る舞う事は不可能だ。

 だからブレーキをかける事はしなかった。


「今やってることが、全部片付いたらでいい。……俺に、お前の気持ちを聞かせてくれ」


 振り絞る様にして発した言葉。それだ届いているのかどうか不安になって彼女の顔を覗き込む。

 

「――なんで、そんなこと言うかな。言葉よりも態度で示していたつもりだけれど……まあ、不安にもなるか」


 千恵はバツが悪そうに頭をかく。

 やがて彼女の腕がこちらに伸びて、指先が頬の上で滑る。驚きと熱が硬直を融かして、視線が彼女の瞳にブラックホールみたく吸い寄せられた。

 艶やかな唇が動く。その音が聞こえなくてもその形で読み取れそうなぐらいにハッキリしている。


「今でいいよ。答えは変わらないんだから」


 突如として引力が強まる。彼女の言葉に応える間も無く、ただそれに翻弄され、視界の中心にあった者がぼやけて姿を消す。

 熱。吐息。鼓動。

 その全てが実像となって俺へ存在を主張してくる。

 何が起こったのか全く分からなかった。

 ただされるがまま、息を止めている事しかできない。

 やがて引力が弱まって、ピントがずれた視界が元に戻り、再び千恵の顔を捉えた。

 

 そこでようやく俺は、彼女に唇を奪われたのだと理解した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る