時計の針は戻らない

 唇に残像が残っている。それを確かめるように、離さないように、俺は親指で唇に触れた。

 理解している。でも、信じられなかった。未だに彼女が俺にキスしたという事実が幻の様な気がしている。呆然とかき乱されたままの思考で俺は千恵を見た。


「君の出した命題について、ボクはずっと考えてた」


 噛み締めるようにゆっくりと彼女が語り始めた。言葉がスポイトから脱脂綿に水滴を落としたときみたいにじんわりと染み入る。そんな落ち着いたトーンだった。


「時間は劣化だけを生むわけではない、時に宝石を磨き上げるがごとく作用することだってある」

「それは、俺が屋上で言ったことだったか」

「そうだ。きっと君の気持ちはその宣言通りに磨き上げられてきたものだろうと、近くで見て来たボクは思う」


 でもね。彼女はそう言葉を区切る。


「ボクの気持ちはそうでなかった。君の気持ちみたいな輝きは無い。ボクはそれを忘れてしまっている。この気持ちは新品で、キラキラしているのかもしれないけれど、宝石には遠く及ばない。ビー玉みたいなんだよ。子供騙しにはなるけれど、それ以上にはならない。君の気持ちには釣り合わないんだ。どうしてもね」


 彼女は目を細めた。はかなげで息を吹きかければ綿毛みたいに飛んで行ってしまいそうな、弱々しい表情だった。


「なんで、そんなこと言うんだよ。そこで優劣を付ける必要なんてないだろ」

「……かもしれない。でも他ならぬボク自身が納得いかない。君の演説を聞いて、君がどれだけボクを真剣に見てくれているかを――」


 不自然に言葉が止まる。彼女の眉がピクリと動いた。目の前に人差し指を立て「静かにしろ」とジェスチャーで訴える。

 どうしてそんな風に止めるのか、気にはなったけれど、その仕草に従って沈黙を貫く。

 千恵はレンズ越しに目を細める。その視線を追おうと、振り返ろうとして――


「動かないで、気が付かれる」


 手が頬に添えられる。止められたのだ。そして、彼女は俺に抱き着いて耳元に口を近づけた。吐息がかかってこそばゆい。


「……気づかれる?」

「見られているんだ。男性。短髪。ネクタイは外しているから、学年は分からないね。心当たりは?」

「ない。……いや、似たようなことをしている奴がいた」


 少し前、籠島と対決する直前。俺はその心当たりがあった。作美と話して、俺たちの関係を探っている者がいると知ったのだ。

 結局その目的も、心当たりも無かったのだけれど。


「そうか、情報共有は後にしよう。位置は、君の真後ろの木陰。ボクならともかく君なら追いつけるよね。捕まえて、吐かせよう。合図をしたら立ち上がってダッシュだ」

「わかった」


 三、二、一……。

 耳元で彼女がカウントダウンを始める。ゼロになると肩を叩かれた。体を反転して、勢いよく駆けだす。腰を掛けていた青のベンチが軋んで悲鳴を上げる。

 木陰から一人の人間が飛び出す。その間の距離が数メートル。なまっているとは言え元々運動部だ。追いつける。

 息が弾む。足が地面を打って、リズムを刻んだ。足の回転に釣られて腕が大きく振られた。

 中庭を超えて、後者の中へ。放課後の校舎は夕焼けに染まって、人影は殆どない。その中で足を動かしていく。されど距離は詰らない。

 こいつ……早い。俺みたいな、なまっている人間とは違う。運動し続けてきた者の動き。

 それに急いて、階段に差し掛かったところで階段を無茶して三段飛ばしで登る。勢いのまま一回目、二回目までは順調。そして三回目。着地した爪先が階段を掴み損ねて、体が宙に浮く。


 声を出す間もなく、階段の角が剣山みたいに食い込んで――――――――



  ▼



 保健室。そのベッドの上で俺は横になっていた。追いついた彼女が俺をここに連れて来たのだ。ある程度痛みが引いて、来たところで彼女に声をかけた。


「……俺、よく生きてたな」

「幸い頭は打っていなかったみたいだからね」

「ああ、腹から着地したからな。内臓は……無事だと思いたい」


 自分の腹をさすった。さっき打った部分が所々痛い。明日はきっと青たんになっていそうだった。


「それにしてもびっくりしたよ。追っかけて行ったら君がすごい音と、うめき声を上げて階段でもがいていたんだから」

「そんな無様な姿は忘れてくれ」

「しばらくは忘れることができなそうだよ」


 千恵は意地悪な笑みを浮かべる。恥ずかしい気分になったけれども、そんな事よりも問題があった。


「悪い、捕まえられなかった」

「構わないよ。悪気があった訳でもないんだろう?」

「……そうだけど」

「だから君を責め立てる気にはなれないかな。大事を取って、今日はこのまま帰ろう。明後日にはもう選挙だしね」


 千恵は備え付けの丸椅子を引いて、ベッドから立ち上がった。

 彼女の言葉の続きを聞きたかったけれど、もうそんな空気ではない。熱は冷めてしまっていた。


  ▼

 

 翌日。俺は一人で登校してきた。下駄箱から真っ直ぐに教室に向かう。でも、その過程で違和感を覚える。人とすれ違うたび、俺に目をやるのだ。

 普段はそんな事はない。道端の石ころみたいに視界には入っているが注視しない。そんな扱いなのだ。でも今日は誰もがその石ころに注目している。


「おい真也! やったなお前!」


 聞き覚えのある声、突然背中を叩かれるとそのまま肩を組まれた。目線を横に動かすと秀斗がいる。いつもよりも笑みが増されている。


「やった? 何の話だよ」

「とぼけるなって、あんな大胆不敵な策をお前がやるとは思わなかったけど、確かにあれなら他の人は矢橋さんに手出ししにくくなる。オレが言うのもあれだけど、理にかなってる」

「……待て、本当に何の話だ。さっぱり分からない」

「いや、だから、掲示板、それと教室。いろんなところに写真をバラまいてただろ」


 写真をバラまく? 分からない。そんな事をしたつもりはない。そんな事をできる時間もない。俺はたった今来たばかりだった。

「……それは、どんな写真だ?」

「お前と矢橋さんがキスしている写真だよ」


 そう言われた直後、放送で俺と千恵が呼ばれた。




「それで結局、君達がこの写真を学校中にばらまいた訳じゃないのね」

「ええ、勿論です。ボクたちがこんな事をするメリットはない。先生だって分かるでしょう?」

「そうね。矢橋さんがこんな事をするなんて考えにくいから」


 反対側のソファーに腰を下ろしている担任はため息を付く。ため息を付きたいのは俺の方だ。朝っぱらから突然呼び出されて、疑惑の目を向けられるのは勘弁してほしい。


「ごめんなさいね。二人に辛い思いをさせて。でもこうなった以上はポーズとして君たちを呼び出さなきゃいけなかったの、ルールが形骸化してるとは言っても、一応この学校『男女交際の禁止』だから、他の先生がうるさいのよ」

「いえ、構いません。あれだけの騒ぎになっていましたから教員側にも生徒側にも何かしらの対応を見せる必要があるのは分かります」

「一定の理解を示してくれるのは助かるわ。もっとも、川田君はそうはいかないみたいだけれど」


 覗き込むように先生はそう言った。鋭い。俺の不満を明確に読み取っている。何だか普段のぽわぽわとしたイメージが先行しているから違和感がぬぐえない。


「そうですね。真也、そういうの隠すのが苦手なんですよ」

「へぇ、そうなの。知らなかったわ。流石彼女、分かってるわね。他にもあるのかしら、そういうの」

「ええ、ありますよ。いろいろと。嘘の付き方とか緊張の誤魔化し方とか」

「千恵、俺の動作研究を先生に報告するのは止めろ」


 俺が突っ込むと二人してクスクスと笑う。こういったときの女性のツボは本当に分からない。


「いいなぁ、そういうの。羨ましい。私はそう言う事できないまま、高校生終わっちゃってたから。ちょっと勇気を出して告白でもしてみればよかった」

「先生にもそういう人がいたんですか?」

「ええ、ちょっとだけ気になる人がいたの。今更後悔しても遅いけどね」


 先生は千恵の問いにそう答えると、儚げな表情に窓の外を見た。しばらくすると先生は「ごめんなさい」と言ってソファーから立ち上がる。


「つい長話しちゃった。まあこうやって三十歳手前になってから後悔しないように、君達は青春してね」


 先生はそう言って表情をいつもの笑顔に切り替えて、応接室を去った。

 解放された俺たちは仕方なく教室に戻る。普段には無い目線が不快でたまらなかった。

 ホームルームや休み時間は気が休まらない。授業時間の方が気を抜けるなんて経験は中々味わえないだろう。

 耐えかねた俺は授業中先生の眼を盗んでスマホを操作して、千恵に「昼は屋上にしよう」とメッセージを飛ばした。


  ▼


 屋上の手前の踊り場で昼食を摂る。お互いに食べている間はほぼ口を利かなかった。きっとこの半日でお互いに疲弊してしまっていたのだと思う。

 重く、鉛のような空気を纏ったまま、俺は弁当、彼女はコンビニで買って来た菓子パンとペットボトルのお茶を消費していく。

 やがて、その全てを胃の中に収めた後。彼女がようやくこちらに視線を向けた。


「さて、作戦会議をしようか」

「作戦会議? そうは言っても原稿も方針ももう決め切っただろ。これ以上ごちゃごちゃと無駄に考えすぎるのも良くないんじゃないか?」

「まあ、それも一理あるんだけれど、その方針に問題が出て来た。いや、正確に言えばその方針の信頼度に問題が出た、といえば正しいかな」


 細かく注釈が気になる。でもそれが具体的にどのような問題なのか分からない。


「信頼度?」

「ああ、信頼度だ。これまでボクはクリーンなイメージでやってきた。清廉潔白なアイドル枠としてやってきている」

「アイドル、ねぇ……。本気で言ってる?」

「本気、というか事実になった。ボクにそのつもりは無くても、周りがそのように扱っている。それを都合よく利用してきた。でも、それももうできるかどうか怪しい。ボクに付与されていた偶然のギフトはあの写真で引きはがされてしまった」


 あの写真。応接室で見たあの写真はものの見事に俺たちのキスシーンをやたらに高画質でとらえていた。誰がやったのかは知らないが、腕は確かだ。


 まあ、その後学校中にばらまいた行動と性格は最悪と言ってしまってもいいが。


 嫉妬なのか、好奇心なのか、いたずら心なのか、目的は不明だが結果として俺たちの行動指針に影響を及ぼしたのは事実である。

 それには対処しなければならないだろう。


「くっそ……あの時、俺が捉えられていれば」

「終わってしまったことを嘆いたって仕方がない。時計の針は戻らないんだし、大事なのは問題が起こってしまった後と、更に問題が起こる前だ」

「……そうだな、それは、間違いない」


 俺は頷く。


「まあ、当面の問題は信頼度だよ。今の僕が、彼氏とキスしている写真をバラまくような女が、『学校の為』だとか『皆さんの為』に、とか言っても信用が置けるわけがない。今のボクはそのような事が言っても許される清廉なイメージではない。どちらかといえば俗っぽい方が、イメージに沿っているかな」


 その通りだ。今の状況では写真をバラまいたのは誰だが分からない。その他大勢から見れば俺かもしれないし、千恵かもしれないし、他の誰かかもしれない。

 人は見たいように見て、聞きたいように聞く。

 その他大勢が好むのは俺たちがばら撒いてそのせいで呼び出された、みたいな方面だろう。


「つまりこのまま演説に挑むのは愚策だといいたい訳か」

「そういうこと。そこで君にもアイデアを捻出して貰いたいと言うことさ。三人寄ればなんとやら。人数は足りないけれど、一人で考えるよりはマシなはずだ」

「そうだな」


 問題を解決するために俺は頭を回す。

 まず現在の問題。それは信頼度の低下、築き上げて来たイメージの崩壊だ。

 それを解決するにはどうしたらいいか。


 一つ、原因になった写真が偽物であると証明する。


 無理だ。それができたのならば千恵の信頼は回復するだろう。しかしあの写真に収められたのは実際に起こった出来事なのだ。

 アイドルやスターがそういう事を捉えられ、それを弁解しようとしても、逆に炎上する。それは連日、鬱陶うっとうしい程にテレビでも実例を見せつけられている。だいたい、偽物とわかった所で誰が信用するのだろう。


 二つ、あの写真を撮った人間を見つけて、弁明をさせる。


 これもダメだ。まともな策でもない。できるとも限らない。できたとして効果があるとは思えない。

 効果があるタイミングがあるとすれば、それは俺が追いかけたとき。写真が流出する前に水際で食い止める事だった。それが失敗した今、未練たらしく考えるべきではない。


 三つ、三つ……三つ――――


「クッソ、駄目だ。思いつかない。どうやったら信用度を回復させられるんだ」

「そうだね。回復という観点では難しいみたいだ。ボクも今考えてみたけれど、策が全く思いつかない」


 千恵は苦笑いする。また少し空気が鉛に近づいてくる気がして、俺は冗談交じりに「もう回復させない方が良いのかもな」なんて言って見せる。


 一瞬きょとんと、俺を見る。しまった。冗談でもこれは言ってはいけないことだったかと、弁解しようとする。

 だが、その間も無く彼女は目を伏せて肩を震わせた。クククとアニメーションで見せるような笑い声を漏らす。


「成程、成程……確かに。それは言えている」


 ふぅと一息ついて、笑いで乱れた声色を戻して、また俺を見た。


「思いついたよ、回復させない策が」

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