ボクの望み

 代休が終わり、学校が始まった。その放課後。俺は図書館に顔を出すことに決めていた。目的はもちろん千恵に会うためだ。修学旅行以降、千恵は積極的に話しかけてくることは無かった。事の真相が分からないなりに、俺の様子からいろいろと察してくれたのだろう。


 日が沈み、すっかり暗くなった廊下を歩いて図書館へたどり着く。横開きのドアをスライドさせて足を踏み入れる。

入口からすぐの所、図書委員がいる受付に彼女は一人、椅子に腰をかけて本を読んでいた。本に栞を挟んでからパタンと閉じる。


「来たのか。正直、今日は先に帰ってるんじゃないかと思ったんだけどね」

「何だよ、来ちゃ悪いか?」

「いや、大分精神的に不安定といった感じだったから。落ち着いてからが良いかと思っていたんだ。もう大丈夫なのかな?」

「そう、だな。そっちについてはもう折り合いがついたから大丈夫だよ。問題ない」


 俺は後ろ手でドアを閉めて、近くの椅子を引いて腰をかける。椅子の足が床をひっかく音が静かな室内に響いた。


「そう、ならいいけれど。少し待ってくれるかな。戸締りをするから」

「ああ。待ってる。何なら手伝おうか?」

「いいよ。それほど手間じゃない」


 千恵は手を左右に振って俺の手助けを断ると、席を立った。宣言通り手間がかかるわけでも無かったらしく、殆ど時間をかける事無く戻って来る。


「あとは鍵を職員室に返してお終いだね」

「なんというか、手慣れてるな」

「一年の時からやってるから、そりゃあね。これで慣れてなかったら逆に何してたんだって感じだよ」


 千恵はスクールバックを肩にかける。俺はそれを見てから自分のリュックを背負う。先を行く彼女はタグとボールチェーンで繋がれた鍵を人差し指でクルクルと回転させながら図書室を出て、俺が出たのを確認して施錠する。

 近くの職員室まで行くとまだ残っている先生がチラホラいて、挨拶を交わしながら鍵を返す。先生たちの様子から察するによくある光景なんだろう。鍵を無事に返すと、お辞儀をして二人そろって退散する。


「今更ながらお前って先生と仲良いのな」

「それなりだよ。特別良いって訳じゃ無い。まあ先生からすれば、素行も悪くない。成績もいい。こうして校内の活動にも精力的となれば悪い気はしないんじゃないかな?」

「だろうな。優良物件過ぎる」


 先生からすれば素晴らしい生徒の一人として数えられるだろう。きっとそのような状況だからこそ彼女は生徒会をやってみないかという誘いをかけられたのだろう。

 でも、肝心なのは彼女の決心が揺らいでいないか。それを確かめなければならない。下駄箱で靴を履き替えている時に、最初の問いを投げた。


「この間の話、もう立候補したのか?」

「したよ。正式な告知はまだだれど」

「そうか。今のところどうよ、この間手伝って欲しいって言ってただろ?」

「何だ、珍しいね。君がそういう風に言ってくれるなんて」


 先に靴を履き終えていた彼女は微笑みながら俺を見降ろす。俺が立ち上がるのを確認すると、背中を向けて校舎から出て行く。それに俺も続いた。


「でも大丈夫だよ。問題ない。今のところは特に身構えてすることもないから」

「悠長だな。生徒会長ってそんな気楽になれる物じゃないだろう」

「どうだかね。ほぼそのままエスカレーター式で決まるさ。こういうのは面倒って思う人間が大半だろう?」


 彼女の問い。普段なら「そうだな」と肯定している内容。だが、今回はそれを否定しなければならない。そうしなければ彼女に手助けをする時間が長く確保することができないからだ。だから俺は首を横に振る。


「いいや、分からないぞ。生徒会選挙ってのはある種の人気投票みたいなもんだ。目立ちたがり屋な人間なら立候補する可能性は十分あるだろ」


 俺は力強く力説して見せた。こちらに彼女は振り返る。何だかきょとんと、ぼんやりと俺を見ている。どうやら俺に否定されたのが意外だったようだ。

 俺は昨日のうちに秀斗と考えに考えた。千恵がどうやったら俺に手助けを求めるのかを。その結果、彼女が組み立てる理論に近いもので説得するべきだと、そう結論づけた。

 千恵は寓話や、思考実験、パラドックスと言った話を好む。その莫大な知識の中から今の状況にあったものを抽出し、融合させて問いかけてくる。それが変わらぬ彼女のスタンス。

 俺はそれに習う。無論完璧ではないだろう。だがそれでもいい。足りない部分は彼女が補ってくれる。俺は彼女が好む方向に釣り針を垂らせばいいのだ。そのように俺は切り出す。


「そうだな。お前は『モンティ・ホール問題』は知ってるだろ?」

「ああ、勿論」


 千恵は頷いてみせた。確認するまでも無いといった様子だ。


『モンティ・ホール問題』名前にもなっているモンティ・ホールが司会を務めるアメリカの番組で行われたゲームに関する論争である。

 三つの閉じたドアがあり、そのうち一つには景品。残りの二つはハズレ。その中からプレーヤーは一つドアを選び、それに応じて司会者は残りのドアから一つ選択、その中身を公開する。

 ただし、司会者が選ぶドアは確実にハズレであり、プレーヤーに残りの二つのドアから選択し直してもよいと選択権を与える。

 果たしてプレーヤーはドアを選び直すべきかどうか。そういった確率を問う問題だ。


 結論から言ってしまえば、この問題の正しい答えは選択し直すことである。細かい事は省くが、選び直すよりも的中する確率が二倍に膨れ上がるからだ。

 しかし感覚的には、確率が二倍になるなんてあり得ないと考えるのが大多数だろう。実際、当時はこの問題を解明した数学者には同業からの批判が殺到したほどだ。


「直感で正しいと思える解答と、論理的に正しい解答が異なる場合がある」

「それは『モンティ・ホール問題』が適例として出されることだね」

「そうだ。だからお前が言うように自分が正しいと思っている事と、現実にはギャップがある時がある。そういう可能性がゼロではないと言う事は分かるはずだ」


 千恵は顎に手を添えて息を漏らす。長考中らしい。


「今回、お前が今回選ばなきゃいけないのは論理的に正しい回答だろ? 楽観的な考えは捨てるべきだとは思わないか?」


 最後の一押しをする。聞き届けた彼女は再びこちらを見た。


「そうだね。言っていることは間違っていない。だけど君らしくは無い。何か企んでるのかな」

「それは……」


 無いとは言い切れない。俺には俺なりの打算が、目的がある。

 しかしそれを話すことは、俺が未だに持っているわだかまりを、籠島が彼女に抱いている好意を説明しなければならないと言う事だ。それは避けておきたかった。


「でも、それは後にしよう。ひとまずは君のやる気を買って、作戦会議でもしようか」

「良いのか?」

「良いも何も君が説得してきたんだろう? 恋人である相手がらしくない真似をしてまでしてきた提案だ。それを無下にするほどボクは非道な人間ではないつもりだよ。……それとも何だ、やっぱりやめるかい?」

「まさか」

「なら良いけど。場所は……ボクの家でいいかな?」

「お前んかよ。俺は良いけどさ、そんなポンポン男を上げていいのかよ」

「いいよ。どうせ父さんは帰ってくるのは遅いから。別に君は父さんにも面識があるし、問題ないさ。そうと決まれば善は急げってね。行こうっ」


 何故か上機嫌な千恵に導かれて、俺は帰り道をたどる。先を歩く彼女の足取りは泉を飛び回る妖精のように軽やかだった。


  ▼


 それから千恵の部屋にあがって話をした。生徒会選挙に向けた作戦会議。政策や公約。根回し。それらをどうやって行っていくのかは秀斗と大まかに考えていた。彼も協力を惜しまずすると約束してくれたから問題はない。

 ただ、俺や秀斗の足りない脳味噌だと計画に穴がチラホラと見られて、それを千恵が修正することとなった。何だか申し訳なかった。


 やがて千恵は机に引っ付いている本棚からノートを取り出して、修正が終わったものをリストアップしていく。

 思えば文化祭でも似たようなノートをまとめていたのを思い出す。あの時はすでにまとめられている物を受け取っただけだったが、こうして作業している所を見てると本当に手際がいい。定規を取り、シャーペンで線を引く。その動作でさえ、研磨された宝石のような美しさを感じるのだ。俺は思わずじっとそれを眺めてしまう。


「何? じっとこっち見て」

「悪い。つい、な」

「こんなところを見てても面白くないだろうに」

「いや、あんまり綺麗にノートを取るもんだから」

「別に普通だよ。こんなものは。意識すれば誰だってできる。……よし、これで終わりかな」


 千恵はテストが終わったときみたいにシャーペンをカランと置く。背伸びをして上体を後ろに逸らして見せた。制服が横に引き伸ばされる様を目の前で見せられて、俺はとっさに視線を外す。

 一瞬だけだったけど、その、ヤバイ。すごいわ。割と猫背気味だから普段は露わにならないが、千恵は持っている。これは確かにめっちゃ柔らかそうで気持ちいいんだろうなぁと、冷静さを欠き、靄のかかった思考で考える。これは早乙女さんが揉みたくなるのも分かる気がした。

 俺が煩悩を押し殺す中、当の本人はそれを気にせずに話を続ける。


「それにしても、君がそこまでボクについて考えているとは正直思わなかったな。ここまで真剣だと君の目的が気になるね」


 彼女は微笑みながら俺にそう問いかけた。先程保留にしていたものだった。

 バクバク動く心臓を落ち着かせつつ、煩悩にフルブレーキをかける。腕を組んでカモフラージュしつつ、二の腕を全力でつねった。あまりの痛みに顔が歪み、声が漏れそうだ。

 確実に不振に思われただろうが、成果はきっちりと出た。思考はスッキリと元通りだ。


「それは、だな――」

「何、どうしたの? 涙目だけど」

「いや、これは、別の事だ」

「そう、ならいいか。それで? ボクの芸風を奪ってまでしてきた提案だ。何を企んでいるのかな?」


 人差し指で涙を拭った。俺の目的を話したくないという希望は変わらない。それ故に俺は言葉を濁す。


「どうして、そんな事を気にするんだ?」

「君がここまで手間暇かける事なんだから、それ相応の大きな目的があると思うのは自然だ。それが何なのか気になるじゃないか」

「そうかもしれないけどさ」


 今回千恵に手助けする理由は簡単だ。

 ただ単に千恵の気を引きたい。誰よりも自分の事を好きになって貰いたい。他の誰かの所へ行かない様に。

 でもその事は彼女には言わない。この問題は俺が解決すべきことだ。彼女と約束したことにも被っている。これは俺が証明すべきこと。だからその問いに返答はできないのだ。

 いや、恥ずかしいとかそんなんじゃないからな。本当だよ。


「今は、言いたくない」

「そうか。まあ話したくないならいいさ。言いたくなるまで待ってることにする」

「助かるよ」


 そこまで言って俺は思う。何かこれ、漫画とかで元敵キャラとかがやる『目的は話せないが一時的に利用されてやる』みたいな動きだな。めっちゃ怪しいじゃん。イメージを払拭するために口を動かす


「ああ、でも全力だぞ。決して手を緩めるつもりは無いからな。必ずお前を生徒会長にしてみせる」

「そこは疑ってないって。頼りにしてるからね」


 千恵は俺の胸に拳を当ててそう言った。どうやら俺に信頼を重く置いてくれているらしい。それが何だか嬉しかった。

 彼女の秋風に揺れる花の様な微笑みが脳裏に焼き付いていく。ああ、俺は……この笑顔を見るためならどこまでも頑張れる気がする。本当に単純だな。


  ☆


 日が沈んで、真也が靴を履いてこの家から出て行く。自分以外のいなくなった家は、温もりが乏しくて心細くなる。彼が全部連れ去ってしまったみたいだった。さっきまでは、更に言えば数か月前、こんな事は感じなかった。


 ボクはきっと置き換わってしまってる。


 部屋に戻ってしばらく待つと窓越しに隣の部屋の明かりがついたのが分かった。カーテンに隠されてその全貌は拝むことができない。さては今日は寝坊気味で、カーテンを開けないまま学校に来たんだな。

 窓ガラス二枚に布一枚。たったそれだけの物が彼とボクに境界線を作ってしまう。

もし窓と窓が学校の渡り廊下みたいに繋がっていたのならば、この冷たい家にも温かさが残ってくれるのに。なんて考えてしまう。

 自分もカーテンを閉めて、ベッドに体を沈める。蛍光灯がプラスチックのカバー越しに伝えてくる光が眩しくて、手の甲でそれを遮った。

 そうしていると今日の出来事がぼんやりと浮かび上がってくる。


『必ずお前を生徒会長にしてみせる』


 真也の言葉。

 彼が同じ目的の為に宣言してくれた。

 目的は自分の力だけで達成すべきことだと、心のどこかで決めつけていた。それを文化祭での一件や修学旅行で動く真也を見て、改めた。時には自分以外を頼るのも必要だと。人間一人でできる事なんて限られているのだから。


 今回の真也への要請もその一環だった。正直ここまでやってくれていたとは予想外だったけれど、彼がボクと共に全力を尽くしてくれるのは嬉しく、好ましい。

 それだけに彼の努力に応えたい。ボクは自分の成長以上に彼と二人で成し遂げる事を強く望んでいた。

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