揺れる天秤

 彼の一言は俺が抱えていた疑問をたやすく氷解させた。彼が言っていた対価。俺たちの誘いに乗ってグループに入った訳。不気味だったわだかまりが線で結ばれて疑問を晴らしていく。

 問題は彼の言葉は俺自身が蒸発してしまうんじゃないかと思うほどの熱量を持っていたことだ。俺はそれにたじろいで上手く言葉を紡げないでいた。


「彼女は知的で、度胸もある。これからも魅力もより磨きがかかっていく。もともと目は付けていたけど、この間の文化祭で確信した」


 この間の文化祭。千恵の立ち位置が大きく変わったイベント。あの時籠島は同じ舞台に立っていたのだ。千恵の立ち振る舞いを一番近くで見ていた。彼の言い分には筋が通っている。

 いや、筋も何もないだろう。これは感情の話だ。論理の話ではない。だというのに、俺は彼の言葉の粗を探す様に聞いている。それだけ頭が参ってしまっていた。


「川田と矢橋さんは仲が良い。それは傍から見ていても分かる。この間の休みだって二人で買い物に出かけていたぐらいだしね。……でも本当にそれだけなのか? それ以上の関係は持っていないのか? 俺はそれを、どうしても確かめておきたいんだ」


 籠島は俺に強い目線を向けた。彼の視点からすれば当たり前の疑問だ。自分が好意を持っている相手には相手がいるのか否か。

 彼は見た目通りに誠実さが服を着て歩いているような人間だ。少なくとも俺はそのように認識している。この問いは彼にとって重要だろう。


 ここで千恵とは恋人であると告げれば、彼は諦めてくれるかもしれない。


 しかし、俺はどのように答えればいいのか分からずにいる。形式的には恋人だ。勿論それは彼女自身も認めている。だが、心情的にはどうだろうか。彼女は俺と関係を結んだ瞬間に言っている。『俺の事を好きだなんて思ったことは無かった』と。だから俺は自信を持って彼女との関係を肯定することができないのだ。


 それにもう一つ懸念点がある。彼女は俺との関係性を広めないで欲しいと希望していた。ただでさえこの頃、周りを慌ただしく囲まれている。加えて俺との関係が露見してしまえば彼女が望む静かな日々は更に遠くへ行ってしまうだろう。それは避けなければならない。そう思った。


「俺達はそんな関係を持っていない。少なくとも、籠島の思っているようなことは無い」


 内容を濁して答える。結局、決断はできなかった。それを受けた籠島は腰に手を当てて「そうか」と呟く。


「じゃあ競争相手か。……厄介だな」

「お前には言われたくないよ。さっさと諦めてくれると助かる」

「そうはいかない。俺だってこんな気持ちを覚えたのは初めてなんだから」


 そのとき、俺はどのように返したらいいのか分からなかった。こんな気持ちになったのは籠島と同じく初めてだったから。無言のまま部屋に戻って、ジュースを配って……泥の様に眠った。この時間から逃れたかったのだ。


  ▼


 それからはあっという間に時間が過ぎていった気がする。楽しむ余裕も無く、千恵と距離を縮めるんだ、なんて気力も削がれてしまっていた。まるであの自動販売機の前に忘れてきたみたいに。


 帰りの新幹線。俺は班員とは少し離れた所に座っている。一人になっていたかったのだ。とてもじゃないが、今他の奴とはしゃげる体力も精神力もない。ぼんやりと窓に流れる景色を捉えて、ただただ時間が過ぎるのを待っている。でもアドベンチャーゲームのコマンドみたいに時間は流れ去ってくれるわけじゃない。


 この間の記憶がべっとりとこびりついて離れなかった。何度も繰り返して再生される。俺の取った選択が正しかったのか、間違っていたのか。結果という結果が出ていないから判断はつかない。けれどもし、あの時二人を追いかけなかったら、俺はこんな気持ちにならずに済んだのに。

 そんな事を何度も、何度も繰り返し考えて過ごしている。すると目の前の窓のブラインドが下りて視界を遮った。

 窓に伸びた指先をたどって、腕から胴体へ。目の前で揺れる前時代的な三つ編みがその主が誰かを教えてくれた。


「君さ、まぶしいから閉じていいかって聞いてたでしょ。聞こえてなかったの?」

「……千恵か。悪い」

「はぁ、なんで作美さんだけじゃなくて君まで調子を落とすかな……」

「作美がか?」


 千恵は頭をかきながら漏らして隣に座った。いつの間にか隣に陣取っている。読んでいた文庫本にしおりを挟んで閉じると前の座席についている机に置いた。どうやら読書に戻らず俺と話をするつもりらしい。


「そう、振られたんだって。君は協力してたんだから知ってるんじゃないの?」

「……そうか。あいつ話しかけてこなくなったし、連絡も寄越してないから、どうなったかと思ったけど、やっぱり」


 一応建前があった。俺はあの日、告白なんて見てない。トイレに行っていたことになっている。俺は嘘の上塗りをするために素直な言葉をかき消した。

 彼女はそれをそのまま受け取ったらしい。「作美さんが振られたのは君のせいじゃない」と告げたぐらいだ。その姿を見て俺の心が削られる。


「そんなに気にすることでも無い。籠島君にだって許容量があるだろうし」

「許容量?」

「そう。許容量。そうだな――君は『カルネアデスの板』という思考実験を知っているかな?」


 千恵はそう問いかけた。俺は知らないと首を振ると、彼女はいつもの様に説明を始める。何だかこのやり取りも久しぶりな気がした。

『カルネアデスの板』とは古代ギリシアの哲学者、カルネアデスが出したと言われる問題らしい。

 舞台は紀元前二世紀のギリシア、一隻の船から乗っている人間が全て投げ出された。一人の男は命からがら船の一部だった板にすがりつくことに成功する。そして同じく、板につかまろうとする者が現れた。

 しかし、その板は人一人を支えるので精一杯。これ以上人が捕まると沈んでしまうだろうと男は考えた。悩んだ末に男は後から来た者を蹴り飛ばし、水死させてしまった。この行為は正当かどうかを問いかけているんだそうだ。


「実を言うとこの男は無罪として扱われる」

「無罪なのか。人を殺してるのに」

「日本の法律的には刑法の『緊急避難』という項目を適応するとのことだ。いろいろ説があって、その行為が過剰避難と捉えられる場合もあるから断言はできないけどね」


 ある程度説明を終えて、彼女はホッと一息ついた。


「でも、それについては良いんだ。今回の本題はそこじゃない。板だ」

「板なのか?」

「ああ、さっきも言ったように板は一人しか支えられない。限度がある。籠島君も同じように支えられる人には限りがある。身体は一つ、時間は有限となれば、何でもかんでも二つ返事で了承するわけにもいかない。今回作美さんが断られたのも、もっと打ち込みたいことがあったんだろうさ」


 彼女の推測はあながち間違ってはいない。籠島は作美と付き合う時間よりも重視したいものがあった。断った理由もそこにある。俺が神経をすり減らしてナーバスな理由もそこにあった。

 その理由からは逃げるわけにはいかない。


「だから仕方のない事だ。君が気にする必要なんてない」

「そうかもな」

「何だ、はっきりしないね。君やボクだって例外じゃないんだよ。抱えられるモノにも、時間にも限界がある。当たり前のことだけどさ」


 それはそうだ。物事が無限であると仮定することはできる。現実に無限なんてない。そんなものが存在するのは数学の紙面上だけだ。だから俺はこんなところでウジウジしている暇なんてないのだ。

 彼女がこちらを振り向いている時間だって有限だ。競合相手が出て来た以上、今まで以上に急いて彼女に好きと言って貰う必要があるのだから。

 


「ボクも作美さんの件でようやく自覚したんだ。悩んでいる暇なんてない。ようやく決心ができた」

「決心……? この間悩んでいたやつのことか」


 彼女の言葉で脳から記憶が引っ張り出される。修学旅行の準備に出かけた帰り道を。聞いていた彼女の悩みを。その内容は伏せられたままだった。

 俺の言葉に頷いた彼女は人差し指を立てて話を紡ぐ。


「そう。この間のやつ。一度しかないチャンスで、一人にしかできない経験だ。挑戦してみる価値はある」

「ちょっと待て。話が見えてこない。何をするんだよ」

「ああ、ゴメン。回りくどかったね。ボクはね。生徒会長になってみようと思うんだ」


 彼女が告げる。俺との会話で見せたことのない真剣な表情だった。嘘や偽り、冗談ではなく本気でそう思っている。それがとても眩しくて、自分がしていたことがガラクタの様にしょうもなく感じてしまう。


「……俺はそういうの苦手だと思ってたよ」

「ボクもだ。だから先生には勧められたけど、断ろうと思ってた。でもボクもそのままじゃいられない。子供のまま大人になるわけにはいかない。成長するための良い機会だと思ったんだ」


 俺は「そうだな」と頷く。

 やはり千恵は大した奴だ。知識と度胸を持ち合わせている。その上向上心もあるときた。隠れファンがいるのも、籠島が魅かれるのも無理はない。それだけの魅力を持ち合わせている。

 しかし、それに対する俺の魅力は釣り合っているのだろうか。人間として、恋人として、彼女に見合うだけの何かを提供できているのだろうか。そういった疑問が頭をよぎる。


 許容量があるのは千恵とて例外ではない。使える時間は有限なのだ。

 そのうちの一部を、大部分を、俺みたいなやつが占拠してしまって良いのだろうか。『カルネアデスの板』を掴むべきなのは俺じゃなく、掴もうとしている誰かでは無いのだろうか。

 そこまで考えて、気分が海の底に沈んでしまいそうになる。


「可能な限り手助けはするさ。悔いのないように頑張れよ」

「言われなくてもそうするよ。ありがとう」


 彼女は微笑んでそう言う。俺は不安をかき消す為に、彼女に影を落とさないように無理矢理笑顔になる様に務めた。上手くできているかは分からない。けれど、彼女には悟られたくはなかった。どこに向けたらいいのか分からないこの気持ちを。

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