お見舞い

 学校からの帰り道。文化祭を迎える直前になっても千恵が隣を歩くことは無い。でも今回は事情が異なる。何故なら彼女はそもそも学校に来ていないからだ。

 その理由を端的に説明すれば、体調が崩してしまったからである。文化祭準備での負担は相当こたえたらしい。

 彼女に割り振られていた仕事量は相当な物であり、故に体調を崩すことは必然とも言えた。十分に休んで、本番に向けて万全な体調に戻して貰いたい。


 だが、彼女の離脱は相当な痛手だ。

 彼女は作業の中心としてクラスを回している。小道具班、役者班は彼女の指示によって動いている。それに加えて実行委員の作美を食い止め、現場を動かしやすくしていた。

 彼女がいなくなった今、現場は作美による実行委員側の引き抜き。加えて、作業内容が明確化されないという状況に陥った。そのため進捗はゼロと言うしかない現状である。


 そこで、状況を打破するため、誰かが彼女にお見舞いに行き、そのついでに支持を受けて来るという作戦が提案された。その実行に比較的家が近い(と言うより隣だが)俺が選ばれて今に至るわけだが、ここで一つ俺は葛藤を抱えることになる。


 それは彼女の家を訪れるべきか否かだ。俺はどちらの行動を取るべきか悩んで、彼女の家のインターホンの前で立ち止まってしまう。

 指示されてきたのに、何を言ってるんだと思われるかもしれない。だが、彼女は療養中であり、そこに押しかけてそれを妨害するのははばかられる。

 本当に彼女を想うのであれば、彼女の身を最優先してここを去るべきなのではないか? そう言った疑問が俺の中にある。

 だがその逆にクラス全員の行動を俺の独断で左右してしまってもいいのだろうか? と言った葛藤も俺の中にある。

 そんな選択肢の前で揺れ動く俺を見かけて、声をかけてくる人物がいた


しん、お前何やってんだ。人ん前で」

「うおっ! ……って親父かよ。ビックリさせんなって」

「そりゃあこっちのセリフだ。家に帰って来るかと思いきや、通り過ぎて矢橋さんに行きやがる。何か用事でもあんのか?」


 白の制服に身を包む親父はバンダナを外しながら俺に問いかける。この時間は夕飯時にはまだ早い。山場に向けて休憩をとるつもりだったのだろう。いつものことだ。

 だが、俺にとってはタイミングが悪い。何故ならここで「実は何も意味はないんだ」なんて言う事ができなくなったからである。家族に不審がられること間違いなしだ。だから俺が取れる選択肢は一つだ。


「見舞いだよ。あいつ体調崩したからな。文化祭での連絡を含めて顔をだすんだよ」

「へぇ、そういえば今日は挨拶が無かったな」

「挨拶?」

「そうだ。朝の店の前を掃除する時間が千恵ちゃんと被るんだ。昔っから挨拶してくれるんだぜぇ。家にはそんな可愛げのある女はいないからなぁ。貴重なんだよ」

「おふくろに言ったらぶっ殺されるからな、それ。ぽろっと出すなよ」


 それはため息をつく。親父は「大丈夫、大丈夫」と俺の肩を叩いた。もうどう見ても大丈夫じゃない。その口癖がでて大丈夫だったことがあっただろうか。少なくとも俺の記憶にはなかった。


「まあともかく、ダラダラしてないでさっさと行きな。じゃあ俺は一服してくっからよ。じゃあな」


 親父は尻ポケットから煙草の箱を取り出して、ひらひらと手を振って歩いて行く。俺との話はニコチンに劣るらしい。ボケボケしてると客が来る時間になるから当たり前か。

 親父の背中を見送ってると何を思ったのか途中で立ち止まり「ちょっと待て」と俺に声をかけた。店側の入り口から家に入り、少し後にビニール袋を引っ提げて戻って来る。


「これを持ってけ」

「何だよ、これ」

「スポーツドリンクだ。体調不良の時はあった方が良いだろ。夏場にまとめ買いして余ってるの思い出したんだ。じゃ、失礼のないようにするんだぞ」

「分かってるって」


 今度こそ親父は去っていく。それを最後まで見送ることなく、千恵の家のインターホンを押した。


  ▼


「なんでお前が出てくんだよ。寝てろよ」


 インターホンを押すと、ドアを少し開けて彼女が半分だけ顔を見せる。普段は三つ編みに編まれている髪は解かれていて、マスクからチラリと見える白い肌は紅色を増していた。

 それに今も息が途切れ途切れ、あからさまに体調が悪そうだった。


「……他に人がいないんだからしょうがないだろう。それに本来だったら居留守を使ってる」


 本来? その言葉が引っかかった。もしかして、もしかすると恋人の俺が来たからわざわざ開けたのかもしれない。俺はそんな期待を抱きながら「じゃあ、何で出て来たんだよ」と彼女に問う。


「今日はミツリンから本が届く予定だったんだ」

「病欠満喫してんじゃねぇよ、この野郎」

「昨日の時点で暇は嫌と言うほど……思い知ったからね。まあ、上がっておくれよ。ボクの、見舞いに来てくれたんだろう?」


 扉が解放されて彼女の全身がさらされる。彼女は白のパジャマ姿だった。デフォルメされた猫がちりばめられている。他の人間には見せることのない姿を目の当たりにしているのだ。

 そう思うと心なしか気分が高まる。でも、そんな彼女の姿を他の人に見せるのは気に食わない。そんな独占欲から俺は彼女との距離を詰めた。


「ああ、上がってく。話したい事もあるし、いつまでもお前を立たせてるもどうかと思うしな」

「そうしてくれると、助かる。昨日よりはマシになったけれど、それでも全快ではないからね」


 俺は玄関に入ると靴を脱ぎ、きっちりと揃えてから家に上がった。一足先に上がっていた彼女は手招きをする。


「じゃあ、ボクの部屋に行くよ」

「わかった。でもその前に、これスポドリなんだけど冷蔵庫入れとくか?」

「差し入れか。気が利くじゃないか。喉も乾いたし貰うよ。台所の場所を君は覚えてる? 覚えていたらそっちからコップを持って来てくれるかな?」

「お安い御用だ。じゃ、先に部屋行ってくれ。俺もすぐに行く」


 彼女と別れた俺は台所に向かい、そこから一つコップを手に取った。それから二階の彼女の部屋に足を運んだ。二階の廊下から見える彼女の部屋のドアには「ちえのへや」と書いてあるネームプレートが昔から変わらずぶら下がっている。

 手の甲でノックをしてから足を踏み入れた。


「ようこそボクの部屋へ。先日の君の様に歓迎できないのは残念だけどね。ゆっくりしていってくれ」

「俺はお前にくつろいでもらわないと困るんだけどな」

「それも、そう……だね。ではボクを思う存分堕落させてくれ」


 彼女はベッドの上で両手両足を広げて見せる。真上から見てるとなんか抱き枕カバーみたいな絵面だった。

でも今は体調が悪そうで、愛らしさよりもしんどさが先に来てしまっている。

 俺はそんな彼女を見かねて、ペットボトルを開封し飲み物を注ぐ。


「ほら飲めよ。あと変に取り繕わなくていいから」


 コップを差し出すと彼女は上体だけ起こして受け取る。そしてマスクを顎まで下げてから、飲み物を一口含んだ。


「……別に、取り繕ってる訳じゃ無い。君とじっくり話をするのも久しぶりだからね。ちょっと、はしゃいでしまったというか、なんというか」

「お前が病人じゃ無けりゃ、手放しで喜べるんだけどな」

「違いない。でも病人じゃ無かったら今頃まだ仕事を回されているだろうから、この風邪にもちょっとだけ感謝してるよ」


 病気にならなかったら、か。本来であればそれを望むべきなのだろう。でも状況が状況だっただけに、健康であって欲しいとは一概には言えない。

 何故なら、彼女の負担がどれほどの物だったのか実感したからだ。もし彼女が風邪を引かなかったら、誰もが気が付かなかっただろう。


「そっか。やっぱり、辛かったのか?」

「辛い訳では無いよ。ああいった変な反感を買うのは慣れている。一度や二度じゃない。ただ、仕事量に肉体がついて行かなかっただけ」

「なら良いけどさ。でも、本当につらい時は言ってくれよ。俺はなるべく力になりたい」

「その割には仕事の手伝いはしてくれなかったじゃないか」

「できる事とできないことがあるんだよ」

「それはそうだね。かの有名な神龍シェンロンですらできないことがあるんだから」


 彼女は人差し指を立てて告げた。お前は要所要所でネタを投げかけてくるなぁ。


「そう。だから『これから来るサイヤ人を倒してくれ』みたいな頼みはダメだからな」

「そんな無茶は頼む気はないよ。君に任せたらもっと状況がこんがらがりそうだ」

「否定はできないな」


 俺が弱々しく言葉を返すと、彼女は口元を抑えてクスクスと声を押し殺して笑う。でも、その途中で咳き込み始めた。口頭ではそれなりに元気な様に見えるけれど、体調が悪い事は変わらないらしい。


 彼女と一緒にいるのは喜ばしいが、あまり長居するのも良くない。一番望んでいることは彼女が健康体でいることだ。ならば用事を終えてさっさと出て行った方が良いだろう。


「なあ千恵、ちょっと聞きたいんだけどいいか? クラスの奴らから質問を預かっててな」

「質問? はぁ、高校生にもなったんだから自分で考えて勝手に動けばいいものを。病人に指示を仰ぐかねぇ……」

「耳が痛いな」

「まあいいさ。出来ないと分かったら即座に聞きに来るというのも間違いじゃない」


 彼女はため息をついて、肩を狭めた。

 がっかりするのも分かる。出来ると思ったから休んだのだろうから。でも、お前は運動能力を除けば高校生にしてはオーバースペックだ。それを平均的だと思って貰っては困る。凡人枠の俺が教室で息がしづらい。

 彼女は人差し指で机を指差しつつ話を続けた。


「机の上に出しっぱなしのノートがあるだろう?」

「ああ、これか?」

「そこに全体の仕事内容がメモしてある。持って行けば、何とか作業は回るだろう」


 俺は言われた通りにノートを手に取ってパラパラとページをめくってみる。字がぎっしりと詰まっている訳ではなく、適度に見やすくレイアウトされていた。


「休んでいる間に作ってたのか?」

「いいや、前からだよ。自分で作業を把握してないと指示を飛ばせないからね。自分の考えをまとめるために作ってた」

「なら良いんだけどな」


 これで用事はこれで終わり。このノートを持って行けば、今滞っている仕事も何とか片付けることができる。あとは予定通りに撤退だな。……名残惜しいが、これは彼女の為なのだ。


「じゃあ、俺はこれで行くよ。お前も寝て、早く体調を立て直せよ」

「……分かっている。ボクも丁度眠くなってしまった所だ。それに君に風邪を移すわけにもいかないしね。でも、その前に少し我が儘を言ってもいいかな」


 我が儘? 何だろうか。俺は彼女に視線を向けて続きを促す。彼女は持っていたコップの残りを飲み干すと口を開いた。


「手を握って貰いたいんだ」

「手を? どうして?」

「昔、寝る前にはお母さんがしてくれてね。落ち着くんだ。……ダメかな?」


 彼女は首を傾げて俺を見上げる。潤んだ瞳が俺を捉えて離さない。……少しぐらいはここに居ても大丈夫か。俺は根負けして彼女に向けて手を差し伸べた。


「ほら、手だせよ」

「んっ」


 ゆらゆらと、何かにすがる様に伸びた手を取った。自分より高い体温、滑らかな感触が俺の皮膚から染み込むように伝わってくる。

 この感触には未だに慣れない。心臓の高鳴りが意識せずとも耳に伝わってくる。それを誤魔化すために口を動かした。


「温かいな、お前の手」

「布団に入ってたし、熱出てるからね。逆に君の手は冷たい」

「まあ、外にいたからな」


 彼女の手がゆっくりと動く。シンプルなつなぎ方から複雑に指を絡めた恋人つなぎへと変わっていく。そしてベッドに腕の重さを預けた。


「こっちの方が温かいかな?」

「そんなこと言われたって、分かんねぇよ」


 俺は顔を背けて見せると、彼女が笑ったのが分かる。俺をからかって何が楽しいのだろうか。


「早く寝ちまえって、眠いんじゃなかったのかよ」

「そうだね。おやすみ」

「ああ、おやすみ」


 彼女の瞼が落ちて、部屋の中には彼女の呼吸音と、掛け時計の秒針が進む音だけが響くようになった。窓から差し込む光が赤褐色に変わっていた。

 時間が経ち、手に伝わってくる力が弱まっていく。どうやら彼女は眠りについたらしい。口元が半分空いていて、もうしばらくしたらよだれが垂れてきそうだ。

 完璧に見えて抜くところは抜く。彼女らしいといえば彼女らしい寝顔だった。手を解いて、ベッドのすぐそばから離れる。

 彼女の部屋のドアノブに手をかけた所で俺はふと気が付いたことがあった。


「……あいつが寝たらこの家の鍵閉められなくね?」

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