疑惑と不安、シュレーディンガーの猫

自問自答とお節介。

 夕食後、ボクは再びペンをもって机に向かっていた。彼と一緒にいた時には手を付けていなかった数学の応用問題に手を出している。

 なかなかうまく解けなくて、シャープペンシルの先でノートをつついたり、大して上手くもないペン回しをしてみたりと、集中力を欠いているのは明らかだった。


 右手からシャープペンシルがこぼれて、カラッと音を立てながら床を転がっていく。ボクはキャスター付きの椅子に腰をかけたまま手を伸ばして拾う。

 ボクは体勢を元に戻して再び問題に目をやったけれど、これ以上考えていても解ける気がしなかった。今日はここらが潮時なのかもしれない。もうじきお風呂に呼ばれるだろうし、丁度いい。


 机に出していた文房具たちを筆箱に仕舞って、テキストを本棚に戻す。両手をちりとりと箒の様に使って、散らばる消しカスを片付けた。

 そしてボクはベッドに体を預ける。慣れたマットレスの反発が心地いい。天井を見つつボクは今日の出来事を振り返る。

 学校に行って、何時も通りに授業を受けて、放課後彼の家に勉強を教えに向かった。そしてボクは彼に――


「……考えて見ると、とんでもなく恥ずかしいな」


 ボソッと、部屋の空気に溶けて消えるようにつぶやく。自分の中から炎のような羞恥心を吐き出したかったのだ。

 なぜボクはあのような提案をしたのだろう。

 その原因、理由を知りたくなった。

 あの場では特に深くは考えなかったけれど、あらゆる事象には理由が生じる。何となくで済ませるのは怠慢だと思うし、これは自分自身が知りたいと思っている事、それに近づく材料にもなるはずだ。


 目を閉じて、自問自答。


 ボクが彼にキスをしようと提案したのは何故か。


 彼が望んでいたから?

 ……どうだろう? ボクに彼の望みが完璧に分かるわけでは無い。もし仮に分かると言い切ったのならそれは傲慢だ。

 意思の伝達は百パーセントできるわけでは無い。

 例えるなら液体を一つのカップから別のカップに移し変えるようなもの。元のカップには水滴が残り、別のカップに移ることなく、淵から床に滴り落ちることもある。

 いや、厳密に言えば人間はそれよりもっと酷い。相手がザルや穴付きお玉なんてこともある。だから、相手の意思をくみ取るなんてできるわけがないのだ。


 では、他ならぬ自分が望んでいたからとしたらどうだろうか?

 ――いや、それも正解と頷ける物ではない。何故なら、ボクにそのような願望があったように思わないからだ。

 だいたい、そんな願望を抱えていたのならばもっと早くに行動に出てきてしまっている。欲しい物は先行販売に行ってでも手に入れるのがボク流。それが自然に、意識せずに、意図せずに出てきてしまってるから困っているのだ。

 ……しかし、望んでいるか、いないのかで考えるのであれば、望んでいると言わざるを得ない。望んでいないのなら意地でもあんな言葉が出ないように努めるはず。

 故に、ボクは彼とならばキスをしてみてもいいと考えているのかもしれない。

 そう、仮定する。でなければ話は進まないだろう。


 では次に『なぜボクは彼とキスをしたいと考えたのか?』この議題について考える。

 ボクが彼を好きだから?

 ……グレーゾーンだ。ボクは彼の事を少なからず気にかけている。そこらの人間とは一線を画す。どうでもいい存在ではなくなっている。

 好きになりたい。そう思っていることまでは肯定できる。

 でもそれで、好きになっていると断定はできないだろう。そもそも『好き』とはどういう事なのか、その定義が曖昧あいまいなのだ。

 これまでに読んだ本や漫画では、ふとした時に思い浮かぶとか、寂しい時に会いたくなる人だとか、……キスをしたいと考えたときとかそんな風に説明をしていた。だけれど、ボクにはそれらを上手く理解できない。納得がいかないのだ。

 だから自分にとって『好きになりたい』と『好き』の境界線がどこなのか、分からないでいる。


 イギリスの哲学者、ジョン・ロックが唱えた白紙説を思い出す。

 人間はもともと何も知を持たない、白紙タブラ・ラサの状態で生まれてくる。そういった哲学的概念。

 ボクは色恋沙汰においてほぼ白紙に近いと言ってもいいだろう。今までもそうだったとはいえ、いつまでもこの状態でいて良い訳が無い。

 だから知識を得なければならない。知覚による経験をもとにして、白紙に境界線を引くのだ。そのためには……


「もうしばらく彼には付き合って貰わないとね」


 ベッドから上半身を起こすと、階段が軋む音が聞こえた。きっと母さんがお風呂を勧めに来たのだろう。自問自答も一段落したところだから丁度いい。

 ボクは声をかけられる前に立ち上がって、ドアノブを捻った。


  ▼


 そこそこの時間に家を出て、学校に向けて歩き出す。ボクらは学校と家がある程度距離が近い。ボクは歩きで、彼は歩き時々自転車で登校する。

 ほどほどの通行料のある歩道を歩き、学校の直前、急傾斜の坂道に差し掛かったところで見覚えのある後姿を見かけたので声をかけた。


「おはよう、いく

「ん? ああ、千恵じゃん。おはよ」

「朝練かい?」

「ううん。今日は自主練」


 彼女は首を振ってそう答えた。ジャージのお腹当たりを持ち上げて顔の汗を拭う。褐色の肌と可愛らしいへそが見えた。

 ……いや、道端でお腹を出すのはやめようよ。彼女にはこういった恥じらいというか、たしなみというか、彼女には色々と欠けている。やっぱり言った方が良いのかなと考えてしまう。


「千恵が来たって事はもういい時間か。そろそろ引き上げようかな。ちょっと待って、今すぐ準備するから途中まで一緒に行こうよ」

「うん。分かった」


 彼女は飲み物の入ったボトルやそばに置いてあったタオル、脱ぎっぱなしになっていた上着を回収すると「お待たせ」と言ってボクと並んで歩き出した。


「そういえば最近は調子良さそうだね」

「そうかな? いつも通りだと思うけれど」

「ならいいけれど、この間はしんどそうだったからさ~」


 この間……ああ、先週末の放課後の事か。あの時はちょっと嫌な思い出に浸り過ぎて気分を悪くしたのだった。彼女には心配をかけてしまったらしい。

 ボクはスクールバックを彼女が立っている方から反対側に持ち替えた。


「大丈夫、問題ないよ。何というか一過性の物なんだ」

「ふーん。そっか。ならいいけど」


 ところでさ、彼女は目の前に立つとビシッとボクを指差す。だから人を指差すなよ。やっぱり指摘した方が良いのだろうか。でも、マナー違反になる厳密な理由すらも曖昧なものを対手に押し付けるのはなんか違う気がした。今回も指摘するのはやめておこう。

 そしてボクは「なに?」と聞き返した。


「あの時さ、追っかけて行った人、同じクラスの真也くんだよね? どうだったのさ」

「どうって?」

「あそこまで必死になって追いかけるんだから何かあるんじゃないの、って事」


 彼女は足元の石ころを蹴りながらそう言った。

 必死、他の人から見たらそう見えたのだろうか? あの時のボクは苛立っていたから特に時間も置かず、衝動的に彼を追いかけたのだ。だからそう見えたとしてもおかしくはない。


「無い訳でもない、けどこれと言って面白い物もない」

「えー、そうやって誤魔化さないで教えてよ~。ほらほらー」

「肩を肘で小突くなよ。くすぐったいから」


 ちょっと距離を開けて抵抗して見せるも、彼女は肩を小突くのを止める気はないらしい。聞くまで引かない徹底抗戦の構えだ。

 話すべきかどうか、正直悩む。正直に話しても、無言を貫いても彼女は面倒な行動を続けそうだ。だから間を取った返答をしてやることにした。


「……彼とはまあ、幼馴染だよ。昔から隣に住んでる」

「それだけ? それだけってことは無いでしょ」

「そうだね。ちょっと前から気にはなってる」


 そう言うと彼女は「マジで!」と肩を掴む。そして前後にボクを揺さぶる。止めてくれよ、公園のスプリング遊具じゃないんだぞ。頭グラグラするだろうが。

 五回ほど揺さ振った後に彼女は落ち着いたようで、ホントにとボクに問う。ボクは無言で頷く。


「それで、それで! 真也君のどこが気になるのさ!」

「どこが……うーん」

「悩んじゃうんだ!?」

「人に言うほど具体的に考えてなかったからなぁ」


 彼女が蹴っていた石ころに追いついて、代わりに蹴った。またボクらの前を転がって進む。


「えー、言ってよ。楽しくないじゃん」

「君を楽しませるためにやっている訳じゃ無いからね。それに、簡単にぽろっと出てしまうようなものでもないだろうし、そうしちゃいけない気がするんだ。もっとゆっくりマイペースに形にしたいって思うよ」

「ふーん。ま、千恵らしいね。そのめんどくさい感じ」

「面倒くさいとか言うな。思慮深いと言ってくれ」

「どっちも一緒だって、それ」


 彼女は腕を頭の後ろで組むと唇を尖らせて大股で歩いた。彼女の背中が見える。置いて行かれないようにボクも歩幅を少し広げた。


「でも考えて、考えて、考えつくしたのだけれど。自分がこれからどうすべきなのか、分からないことだらけだ」

「悩んでるんだ? いつもみたいにズバババッと解決しちゃえばいいのに」

「問題集みたいに答えがある訳じゃ無いんだからそう簡単に行かないよ」


「それは言えてる」と彼女は二度頷く。


「でもさ、動かなきゃ時間がもったいないじゃん。高校は三年だけで私たちはもう二年生だし。もう半分だよ」

「これから先も同じ進路になるとは限らないしね」

「そうそう。だからさ、うじうじ考えてないで動き始める所から始めようよ。いきなりデート……はハードル高いだろうから、遊びに誘うとか」

「デートと遊びに誘うって何が違うんだい? 二人で遊びに行ったらデートじゃないのかな」


 デートは既に経験済みという事実は伏せつつ、ボクはそう聞き返した。知られたら彼女は弄り倒してくるのが目に見えているからだ。からかわれるのはあまり好きではない。

 この問いに関して彼女は殆ど時間を使う事無く回答する。


「二人だけじゃなくて他の人もいる状態かな。みんなで遊びに行くって言えば誘いやすいでしょ?」

「成程ね。一理あるかもしれない」

「でしょー。だから私と千恵、真也くんとさ、真也くんが気まずくないようにあと一人ぐらい男子誘ってどこか遊びに行くの。どう? 良くない?」


 彼女は横目でボクを見る。その瞳は期待に満ち溢れているように輝いて見えた。


「悪くはないとは思うけどさ、その計画にはいくつか問題がある」

「なに?」

「ボクと郁と彼はともかくとして、そのあと一人の男子はどうするつもりなのかな。当てはあるのかい? それに彼にはなんて誘うのさ」

 

 浮かんだ疑問をそのままぶつける。ボクと遊びに行くほど仲が良い男子生徒なんてそれこそ、彼ぐらいだし。郁は知り合いが多いが、それ以上の交友をもつ人物はいないと記憶していたからだ。

 だから彼女が考えなしだった時はそのプランを白紙に戻す必要があるのだ。しかし彼女は戸惑う事無く人差し指を一本立てると、自信有り気に答える。


「問題ないよ。最後の一人が全部解決してくれるはずだから」

「それは他力本願過ぎだろう」

「大丈夫だって! 彼なら面白がって手伝ってくれるだろうし。それに真也君とも仲が良かったはずだから。ちょっと待ってて……」


 彼女は衣服のポケットに手を突っ込んでは中身を漁る、一通りそれを終えると体の様々な場所を叩きながらキョロキョロと周りを見た。


「どうしよう千恵~。スマホ無くしちゃったかも……。これじゃシュー君に連絡取れないよ~」

「いや、君。走るのに邪魔だから荷物は殆ど部室に置いてくることにしたってこの間言ってなかったか?」

「え……。ああ、そうだった。そうだったよ! ありがと!」


 テンションが高くなったからってバシバシとボクの肩を叩くなよ。ひ弱な身体には刺激が強すぎる。ただでさえ君は力強いんだから。

 そう注意しようと思ったけれど、今回は胸に秘めておく。体育会系ではこれが普通なのかもしれないし。


「……まったく、しっかりしてよ」

「大丈夫、大丈夫。これからするから! じゃあ、私は早速セッティング始めるから先行くね。スマホも取りに行きたいし」


 彼女はボクに再び前に出ると「じゃっ!」と手を振って、走り去っていった。その足取りはリズミカル。一定のテンポを刻んでコンクリートを蹴って進んで行く。ボクは手を振って彼女を見送った。


 なんだか付き合っている事を隠したことで少々にややこしくなった気がするが、この際仕方がない。ハイテンションで弄られるのを回避するのに精いっぱいだったのだ。最小限の被弾で済んだことで良しとしよう。

 この後の事を彼女に任せるのは不安があるが、後は野となれ山となれだ。

 そんな小さな不安を近付いて来た石ころと共に蹴り飛ばし、ボクは校門をくぐった。

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