唇とペン。
「それで結局お前らはどこまで行った訳?」
登校途中に出くわした秀斗はそう切り出した。重そうなエナメルバックを肩にかける彼は、俺の返事を待ちながら購買のパンを選んでいる。今日は朝のおやつを忘れてしまったらしい。
俺は朝ご飯代わりの豆乳のパックにストローを刺してから返事をする。
「どこまでって、何が?」
「とぼけるなよ。彼女だ、かーのーじょ! 矢橋さんとのことだ」
「やっぱそうか」
「察してるなら聞き返すなよ……」
「そうは言ってもなぁ」
察しているなら言えと言う事なのだろうが、俺としてはこういったことを他人に話したりしたくはなかったのだ。彼が購買のおばちゃんに料金を払い終えたのを見計らって俺は話を始めた。
「まあ、デートには行った」
「どこに?」
「水族館にほら、三駅先ぐらいの」
「ああ、あそこね。オレも行ったけど良いとこだよな。それで、キスはした?」
包み隠さず直球で爆弾をぶち込んで来た秀斗に対して、俺は動揺して咳き込んでしまう。鼻に豆乳が上って来た。痛みに耐えながら鼻をすする。
良くも悪くも表裏の無いこいつは、こういったとき恐ろしい。野次馬精神むき出しだ。でも、一度知られてしまった以上は仕方がない。不本意ではあるが質問に答える。
「……いや、まだだ」
「えー、つまんな。キスしてベットインまでいけよー」
「お前を楽しませるために行ってる訳じゃねぇんだよ、バーカ。だいたい、デート一回目でそこまで行けるか!」
秀斗は笑って、冗談だと誤魔化かす。買っていた焼きそばパンの封を切ると、そのままかぶりつく。一口目を飲み込んだ後、口を開いた。
「まあ、そう言った生々しいことはさておき、実際どうなんだ? 矢橋さんってなんかこう……不思議な奴だろ? だから上手くやっていけてるか気になってなー」
「お前、気、遣えたのか」
「その言い方は酷くないか!?」
「明日はサッカーボールでも降るのかと」
「それはそれでオレっぽいね。サッカー部だし」
ともかく、と彼は区切る。
「それで、どうなんだよ。上手くやってんの?」
「上手く……まあ、俺からすれば上手くやってるとは思うよ。まず告白して成功した時点で大成功だ」
「いや真也。お前、楽観的過ぎじゃない? スタートラインだろそれ。問題はこっから。付き合う事がゴールじゃないんだからさ」
彼は大きく口を開けて、焼きそばパンをかじる。
確かにそうだ。でも俺からすれば、伝えるはずも無かった想いを打ち明けて、それを受け入れて貰った時点で御の字。それ以上の事を想像するには羞恥心が勝り、なかなか深く掘り下げたことが無かった。
でもそれもやめた方が良いだろう。付き合い始めた今だからこそ、掘り下げるべきなのだ。
「そうだな。確かに」
「だろ。むしろここから彼女の心を掴まないと。まあ、お前は最低限できているとは思うけれどな。付き合って二時間で破局とか、そういう悲惨な事にはなっていない訳だし」
「運よくそういう事態は避けられているな。何とかだけど」
興味は持たれている。だが、好かれてはいない。
そういう綱渡り的な状態である事は伝えない事にした。正直な所俺だってよく分かっていないのだ。せめてこの状況を自分なりにかみ砕いてからの方が良いだろうと思ったのだ。
誰だって混乱している相手に相談を持ち掛けられたくないはずである。
「そっか、じゃあこの調子で頑張れよ」
「いわれなくてもそうするつもりだよ」
「それで? 目先のイベントは何が用意してあるのさ」
「次はテスト勉強……だな。この間デートを終えるまで忘れててな。あいつの方から言って来てくれたんだ。俺は一年の時にサボったつけがあるから、そろそろ成績にテコ入れしないと……って、秀斗聞いてるのか?」
俺が彼の問いに答えている間に彼はそっぽを向いていた。ようやくこっちを向いたと思ったら顔面蒼白。生気を失いかけているように見えた。
「…………いっけね」
「お前も忘れてたのかよ!」
「いやだってほら、ついこの間に中間テストやったばかりじゃなかったっけ?」
「そうだけど、授業中に先生がいろいろ言ってただろ。聞いてなかったのかよ」
「いや、だってオレ授業中は寝てるし」
「当たり前みたいに言うなよ……。俺も人の事言えないけどさ」
そんな事をやっているうちに俺達は教室にたどり着いた。黒板側の扉を開いて中に入る。既に教室に来ていた彼女と目が合う。俺が軽く手を挙げると、彼女は控えめに手を振り返してくれた。
これまでの日常に無かった動作。それは俺に幸せを運んできてくれるものだった。この余韻に浸りつつ、今日も一日頑張りたいと思うのだが、一つ問題がある。
「秀斗お前っ、背中つねるの止めろ。爪を立てるな、爪を!」
「だって、こっちは補習のこと考えてんのに、惚気られるのはムカつくじゃん?」
「じゃんじゃねえよ。じゃんじゃ」
「じゃんじゃんうるせぇっての!」
「お前が言うのかよ、それ」
そんな言い争いをした後のホームルーム。どうでもいい所連絡を聞き流しつつ、俺は一人考える。秀斗が言っていた、距離の詰め方について。
付き合う事がゴールではない。俺は証明しなければならないのだ。彼女が時間の経過は劣化しか生まないという考えの否定を。
そのためにの行動を考えてみたものの、やはりチャイムがなるまでに回答を導けなかった。
▼
放課後。今日からテスト一週間前と言う事もあり、あらゆる部活、委員会が休止になった。俗に言うテスト期間という奴である。
帰宅部の俺はいつも通りなのだが、図書委員である彼女は早く帰宅する。それを見越して前回の水族館の帰り、彼女が提案によって俺の家での勉強会が開かれることとなったのだ。
せかせかと足を動かす彼女は、俺の自宅の前にたどり着くと、ぼんやりと暖簾を眺めていた。
「君の家に来るのはなんだか久しぶりだね」
「そうだな。昔はよく来てたけど、中学に上がってからほとんど来てなかったろ」
「下のお店には来ていたんだけどね。近かったし、夕飯を楽に済ませたいときはお世話になったよ」
「息子としてはありがたいね。まあ、上がれよ。玄関は――」
「裏手に回るんだろう? 知っているさ」
指差しながら説明をしようとしたところを遮られた。初めて家に来る人のように説明してしまったが、こいつは幼馴染なのだ。そんなものは不要だろう。
「ん? そっか。そうだな、じゃあついて来てくれ」
ポケットから鍵を取り出しつつ、俺は店の裏に回ると鍵を開けて彼女を先に通す。靴を揃えて脱いでいるのが目に入った。
こういった所は昔からきっちりとしている。小さい頃は親によく比べられて、苛立ったものだが、今はそれほど意地っ張りではない。俺もその隣に靴を並べて脱ぐ。
「お邪魔しまーす。君の部屋は……確か二階だったよね?」
「ああ、部屋の配置はまんまだよ。飲み物を取ってから行くから、先行っててくれ」
「了解」
彼女は一足先に階段を上っていった。昔よく遊びに来ていたこともあってその足取りに迷いはなかった。
俺は店側にいた両親に適当に帰宅を知らせつつ、客人の存在を認知させた。冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーとコップ二つをお盆に乗せて部屋に向かう。
扉を開けて部屋に入ると彼女は勉強机の横、ベッドの上に陣取っていた。足を組んでマンガ本を読んでいる。彼女がいるだけで普段過ごしているこの部屋が全くもって違う空間の様な気さえしてくる。何というか、鳥肌物。無駄に緊張してきている。
そんな俺を見つけて彼女は口角をわずかに上げた。メガネの位置を人差し指で直すと、漫画を閉じて俺に表紙を見せびらかす。
「随分と可愛い趣味だね。少女漫画とは」
「良いだろ別に。もともとと言えばお前が勧めて来たのが原因だぞ」
「そうだったかな?」
「そうだよ。確かお前の家に遊びに行って、貸して貰ったのがきっかけだ」
俺がそう返すと彼女は持っていた本を棚に戻して、背表紙を撫でる。それを眺めながら部屋に鍵をかけつつ、お盆を机に置いた。
「まあ、真偽は分からないけれど、今じゃボクが借りたいぐらいの量だね。借りてもいいかな」
「良いけど、テストの話の前にそんな話をしだすなんてお前はやる気あるのか?」
「ない」
「被せ気味に即答するな。そんなんじゃお前が補修になりかねないぞ」
「それもない」
「どうして」
そう問いかけると彼女は元にいたベッドの位置に戻り足を組む。黒のストッキングが擦れる音がほとんどない室内に響く。彼女は顎に手を添えて俺の問いを考える仕草を見せる。
「貯金、かな? 普段からやっているし、慌ててやる気出すこともない。たった今からテストを開催したとしても補修は免れるだろうね」
「このガリ勉メガネめぇ……」
「何を言うか。だいたい、ボクから言わせれば君らの方がどうかしている。すぐに忘れてしまうかもしれない記憶をそのままにするなんて、どれだけ神経が分厚いんだって聞きたいね!」
彼女は俺の顔に向けて、人差し指を俺に向けた。
その言い分にも一理ある。俺にとっての優先順位が勉強より怠けることが勝ってしまったのが悪いのだ。彼女の貯金をひがんでいる場合ではない。とっとと自分の貯金を作った方が良いというのは分かっている。分かっているのだが……
「それはそうなんだけど、やる気がなぁ。出ないんだよなぁ……」
そう、普段の状態から当たり前の様に勉強している彼女に対し、俺は当たり前の様に怠けている。そんな状態の人間が普段より頑張ろうとするには動機やエネルギー、モチベーションが足りないのだ。
この状態が良くないというのは分かっているのだけれど、どうにかする手段は分かっていないというのが俺の現状である。
「やる気か。貯金があるボクと違って、短期で集中的に勉強する必要がある君には必要なのかもしれないね」
「だろ?」
「本来なら餌抜きで頑張って欲しいものだけれど、まあいいよ。今回に限りちょっとだけご褒美をあげようか」
ちょっとこっち、彼女が手招きをする。隣に俺は腰をかけると、二人分の体重を支えるベッドが軋む音がした。
ご褒美という前置きもあって期待は高まるばかりだが、彼女が何をしてくるのか全くもって予想できない。
「こっちを向いて」
「ん?
「そんなに近くで大きな声を出さないでよ。ビックリするじゃないか」
そうは言われてもパーソナルエリアに大胆に踏み込まれたのだ。仕方のない事だと言いたかった。いくら恋人だとはいえ、まだ俺はこういったことに慣れていないのだ。
彼女は戸惑いっぱなしの俺に遠慮することも無い。ただでさえ狭い空間を詰めて頬に手を添えた。
「キス、とかどうだい?」
「どうだい、って……」
「だから、ご褒美の話」
距離が迫り、彼女の声は徐々に小さくなっていく。綿で耳を撫でられているかのような、こそばゆい感覚に陥る。俺はその原因となっている薄紅色の唇から目を離せない。
エアコンが効き始めた室内は大して熱くはない癖に、背中を汗が伝っていく。
「そりゃあ……嬉しい、嬉しいけどさ。でもお前は良いのかよ。俺の事は別に好きでもない、だろ?」
言葉を口にしながら、その先をゆっくりと紡いでいく。頭が回らない。好きな人からアプローチを受けているのだから、何も考えずに頷けばいいはずだ。だが俺は変な見栄を張ってしまっている。
「確かに好きではないけれど、一番親しい人だ。遠慮することは無い」
「そうは言ったって、こんなところ見られたり聞かれたりしたら、どうすんだよ」
「問題ないよ」
「なんで?」
「なんでって、そうだね……君は『シュレーディンガーの猫』という思考実験を知っているかな?」
彼女は俺に問いかける。俺は「名前は知っているよ」とだけ返す。それを見かねた彼女はこれからの話が通じるように軽く説明をし始めた。
『シュレーディンガーの猫』とは、ある箱の中に猫と、五十パーセントの確率で毒が発生してしまう装置を入れて一定時間放置したとき、猫は死んでいるのか、生きているのか。そう言った条件のもと、行われる思考実験なのだそうだ。
生きているのか死んでいるのか、観測者が箱を空けて見ないと分からない。それまでは両者が重なり合って存在している状態になる。こんな異常な観測結果は存在していてはならない。そんな批判を目的としていたらしい。
「放射線発生物質だとか、それを検知する装置だとか、細かい所は君には分からないだろうから省略するよ」
「酷い言い様だな……まあ、事実だけど」
「だろう? 話を戻すとボクたちは今、その箱の中にいるみたいなものだよ。あの扉を開けるまで僕らが何をしているのかを観測できる者はいない。
外に声が漏れていたとしても、ボク達が何をしているのかを観測していない以上、如何わしい事をしているか、していないのか、両方が重なり合って存在していることになる。だから問題はない。少なくとも、君がかけた鍵を開けるまではね」
彼女はチラリと俺の後ろのドアを見た。
確かに理屈の上ではそうなのかもしれない。
だけれど、彼女の言う所の観測者は見たいように見て、聞きたいように聞く。つまりは思い込みで足りない情報を補うのだ。経験上俺はそう思う。
それに加えてもう一つ、問題があるのだ。それを示すために口を動かす。
「――駄目だ」
「駄目? どうして」
彼女が拳一つほど距離を詰めて、俺に問いかける。視線の衝突にドギマギしながらも俺は理由を提示する。
「何故なら、そんな事をされたら肝心な勉強に集中できなくなるのは間違いなしだ」
「ああ、確かに。君は良くも悪くもメンタルが良くブレるからな。この件はまた今度にしよう」
「……そうしてくれると助かる」
彼女が俺の体から離れた事で、緊張感がほぐれていく。自分の部屋がようやく自分の部屋らしく見えてくる。一度深呼吸をしてからペンを握り、机に向かった。いつか本当にご褒美を貰えるように。
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