水の世界でデートをしよう。
「デートをしよう」
自分の昼食を食べ終えた後、屋上の手前の踊り場でそんな提案をした。隣に腰かける彼女はサンドイッチを頬張りながらそれを聞いている。
彼女は何度か口を動かして飲み込むと俺の方へ眼を向けた。手に持っている白い生地は小さく凹んでいた。その控えめさから別世界の生き物ではないかとすら感じてしまう。
比較対象が大食漢の秀斗だから当たり前と言えば当たり前だ。けれど、そういった今まで気にしたこともないことですら、新鮮に感じるのは彼女のおかげなのだろう。
確信は無いが、そう思う。
今回誘ったのは彼女の知らない部分を、より感じるため。
彼女が知らない俺を伝えるため。
その『チャンス』を創り出すための行為だった。
「デート、ね……」
「駄目か?」
「……いや、構わない。ボク達は恋人だからね。君がそうしたいならそうしようか」
彼女の返事までの間が少し気になったが、首を縦に振ってくれたこともあり、そこに疑問を持ち続けることは無かった。
「で? 場所と日時は決めているのかな」
「決めてある。明日に三駅先の水族館だ」
「へえ、君にしては良いチョイスじゃないか。誰かに助力を仰いだのかな?」
彼女はそう言って俺の顔を覗き込んできた。ちょっと待て、近い近い! なんかいい匂いするんだけど! こんなことをシレっとするから男性のくすぐるんだよ。恋人かなんかと勘違いしちゃうだろ。いや、恋人なんだけれども。
取りあえず俺は落ち着くためにそっぽを向いて顔と顔の距離を開けた。
「いや、相談はしてない。昔、一回だけ一緒に行ったことがあったろ。それで結構楽しそうだったから」
「そうだったかな?」
「おい、また覚えてないとか言わないでくれよ」
「ごめん、ごめん。冗談だ、覚えてるよ。小学生の頃、家の母と君の家のお母さんとボク達で行ったよね」
彼女はケラケラと口元を手で隠して笑う。どうやら覚えているというのは嘘ではないようだ。
「じゃあ、そう言う事で明日の朝に迎えに行くから準備しておいてくれ」
「ん、了解。楽しみ、と言う事にしておく」
「何だよ、その含みのある言い方は」
「別にー。ま、君が気にすることじゃないさ」
彼女は持っていたサンドイッチを平らげて「さて」と彼女は立ち上がる。下敷きにしていたスカートをパンパンと叩いた。
「戻って授業の支度をしなきゃね」
「そうだな。次は現文だったか。気を抜くと寝ちゃいそうだ」
「気を抜かなくても寝ているだろう、君は。見るたびに船を漕いでいる気がする」
「うるせーよ」
軽く彼女の肩を拳で叩いて、俺は彼女の前に出た。
▼
最寄駅から出ている直通の送迎バスに揺られて、俺達は水族館にたどり着く。バスから降りて、海辺から吹き付ける浜風を受けながら隣の彼女は「んー」と声を上げつつ背伸びをしていた。白いTシャツのロゴが横に引き伸ばされる。
ちょっとは周りの眼を気にしろよ。ちょこちょこ周りの男が見てるじゃないか。「あの子ヤバくね」じゃねぇよ。横に居る俺が見えてないお前の目の方がヤバいわ。
気に食わなかった俺は、彼女の手を取る。
「ほら、行こう」
「ん? いつになく積極的だね。でもそんなに焦ることは無いだろう? デートは始まったばかりだし、それに人ごみは少し苦手なんだ。中に入る前に少し休ませて貰えないか」
「そっか、悪い。気が付かなかった。でも――」
「でも?」
俺は近づいて来ていた男の内、一人に目配せをした。苛立ちを見せつけるように目を細めて。だけれど、彼にはそんな事は気にならないらしい。また彼女への距離を縮めてくる。
どうやら俺は目に入らないほど迫力不足らしい。どうしたものかと頭を悩ましていると、彼女は俺の手を握り返して来た。
「でも、なんなのさ。言いかけで黙られるとモヤモヤするんだけど」
どうやら周りに目を向け過ぎていたらしい。俺は建前の言葉を考えつつ、彼女に視線を戻す。
「……中の方が冷房効いてるし涼しいと思う。休むならそっちの方が良いだろ」
「ふーん」
彼女は俺をじっと見た。そして今度は眼鏡の上に手で屋根を作って、当たりを見渡す。何かを確認しているようだ。
「じゃ、中にしよう。どうやらこの辺り日陰もないみたいしね。気を遣ってくれてありがと」
「どういたしまして」
「よし、行こう」
彼女に手を引かれて、俺は入場ゲートに足を運ぶ。気が付けば周りの人間は気にならなくなっていた。まるで彼女に視線が全て持って行かれてしまったかのようだ。
それでも、少し懸念点が残る。重要な事だ。女の子とデートするうえで大切な事だ。
『急に手を繋いだりして大丈夫か俺? ハンカチで手とか拭っとけよ! なんか変な緊張で手汗ベッタベタだったりしない!?』
心の中で叫ぶ。手を引いた時は周りに意識を巡らせることで精一杯で、頭が回っていなかった。他人を気にする前に自分を気にしろよ……。
フーっと息を吐く。時間は不可逆だ。戻る事は決してない。後悔先に立たずとも言うし、切り替えていこう。
そう言い聞かせて、俺達は水族館へと足を踏み入れた。
▼
「お、あれは、
「ちょっと待て、今なんて?」
休憩を終えて見学を開始した彼女の第一声に、俺は思わず聞き返した。彼女は瞳を閉じたまま、人差し指を指揮棒の様に立てる。
「いやだから、鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイル――」
「急に呪文を唱え始めるな。言われても分かんないって」
情報が細かすぎる。頭の中に辞書を何冊置いたらそうなるんだよ。
「物覚えが悪いんだね」
「いや、俺は一般的。ただお前に比べると相対的に悪いだけだ。だいたい、何でそんなものを覚えているんだよ」
「ボクは一度読んだ本の内容はほとんど忘れない。それに昨日復習もしておいたからね。準備は万全さ」
彼女は得意げにそう言った。
予習、つまり彼女なりに楽しみにしてくれていたと言う事で良いのだろうか。だとしたら嬉しいのだが、彼女の場合、俺への好奇心ではなく単純な生物への好奇心という説も否定できなかった。
「テストじゃないんだから、そこまで気合を入れなくてもいいだろうに」
「人生日々勉強だよ。テストじゃなくても勉強はしていくべきだ。それとも君はあれかい? 手を抜いてデートに挑んで欲しかったのかな?」
「そう言う訳じゃ無いけどさ……」
「まあ、一晩でゆるふわのかわいい系女子になれないからね。頭でっかちながら君を楽しませられるようにと努力してみた訳だよ」
いや、気合を入れるベクトルが斜め上だ。そう言いたかったけれど、彼女には彼女なりの頑張りがあったのだ。彼女が、俺の為に何かを考えてしてくれたというだけでも嬉しい。
遠くに行ってしまっていた彼女がまた近くに来てくれた気がしたからだ。
綻ぶ頬を引き締めながら、彼女の方を向く。
「そっか、ありがとう。じゃあさ、俺にも分かるように聞かせてくれ」
「言われなくてもそのつもり。職員並みのガイドを期待してよ」
「ああ、楽しみにしてる」
それから俺達はゆっくりと歩き始める。お互いが思うままに立ち止まり、俺が聞いたり、彼女が説明したり、途中で昼食を挟んだりしながら時間が流れていく。
知識を披露するとき、展示内容から新たな知識を得るとき。彼女はころころと表情を変えた。その一つ一つが学校では見たことのない物で、心をゾワゾワと撫でてくる。俺の気分もつられて高まってくる。
女性とのデートは初めての経験だったけれど、なるほど、こんなにもいい気分になれるのなら、彼氏彼女を持っている奴が自慢をしたくなるのも納得できた気がした。
彼女が隣から俺の顔を覗き込んでくる。
「楽しそうだね。顔がにやけてる」
「まあ、実際楽しいからな。お前はどうよ」
「楽しいよ。好奇心を刺激される場所は好きだ。今日も気になる事をいくつか見つけたからね。しばらく調べものには退屈し無さそうだ」
調べものって……どうやら俺と彼女が感じている楽しさは異なるらしい。彼女が楽しそうなのは嬉しいけれど、なんか複雑だ。
そんな想いを抱きつつ、俺は「そっか」とだけ返した。このまま直球勝負で「じゃあ俺と居るのはどんな気分だ?」なんて聞ければ、この複雑な気持ちを解消できるのかもしれないけれど、その代わりに精神的ダメージを受ける可能性も否定できない。彼女なら「別にいつも通りだ」とか言いかけない。だから、この衝動は伏せておくべきだ。そう決めて言葉を続けた。
「……なら良かった」
「ボクも、良かったと思うよ。正直な所、君とデートって言われてもピンと来なかったんだ。想像したことも無かったし」
「俺はしてたけどな。ずっと」
「え? ……まあ、そうか。長らく、というか今も片思いをしている訳だから、デートぐらいは想像するよね」
「余計な修正を入れるなよ。なんか悲しくなるだろうが!」
「でも事実だろう?」
「そうかもしれないけど。それだと俺が片思いの女子をデートに誘って、一人舞い上がってる奴みたいじゃないか……」
話していくうちに声が小さくなる。彼女の言う事が否定できないので、自分が情けなくなってくる。自分と彼女の関係を整理すればするほど、歪で、不格好で一方的なのが分かってしまうからだ。
でも、落ち込みかけた俺の気分を彼女は肩を二度叩いて繋ぎ止めた。
「自分で言って落ち込むなよ」
「いや、別に落ち込んでないし」
「嘘つけ、いつもより猫背が酷くなってる。ほら、シャンとするっ!」
バンッ! と背中を叩かれる。叫び声を上げそうになったけれど人目を集めるのは嫌だったので、歯を食いしばってこらえた。
「痛ってぇ! 何すんだよ」
「彼氏のだらしない所を見たくなかっただけ。せっかくのデートなんだし、どうせならかっこよくいて欲しいの。ダメ?」
「ダメ、じゃないけど……」
そう言われたら頷かざるを得ない。俺だって彼女に好かれたいのだ。でもそれを知ったうえで、利用してくるのはなんかズルいと思う。
だけどまあ、これが惚れた弱みという奴なのだろう。たぶん。
「ならいいでしょ。ん、よし。やっぱり背筋が伸びてた方がかっこいい。ずっとそうしてたらいいのに、せっかく背が高いんだから」
伸びきった背筋を彼女の手が撫でる。ジンジンと痛む背中を労わる様に優しい手つきだった。その感触を堪能しながら返事をする。
「そうかな?」
「少なくともボクにとってはそうだよ。大衆的にどう見えるかは保証しかねるけどね」
「そこは保証してくれよ」
「してもいいけど、ボクの価値観は一般的とは思えないからなぁ……」
彼女は手を後ろで組みつつ先に進み、俺はその後ろをついて行く。
最初に入って来たゲートが見えた。俺たちはもう館内を一通り回ってしまったらしい。門外の人の世界はオレンジのフィルターがかかっている。
夕焼けを見るのは嫌いではない。むしろ好きな部類ではある。が、それでも今日に限り最も迎えたくなかった瞬間であった。
察しは付くだろうが、楽しい時間に区切りを付けなければならない合図だからだ。
家に帰りたくない。ずっと遊んでいたい。なんだか小学生みたいな考え、想いだった。
「もう、終わりか」
「そうだね。意外とあっという間だった」
「俺もそう思う。あのさ……またしてくれるか、デート。良かったら、来週あたりに」
未練を誤魔化す為の言葉を切りだす。遊びは終わらない。これは一時的に分かれるだけなのだ。そんな子供の様な言い訳を自分に言い聞かせた。
彼女はそれを受けて、間を空けずに「駄目だ」と首を振る。
「ど、どうして」
頷いてくれると思っていたからか、言葉に詰まる。
今日は彼女を楽しませることができたと思っていた。だが彼女は断った。
その理由は何なのか。それが俺の頭では突き止めることができない。不機嫌にさせるようなミスはしなかったはずだ。少なくとも俺が感じ取れる範囲では。
だから結果的に今の俺に取れる選択肢はその問題点を聞き返す事。原因が分かっていなければ対処のしようが無い。彼女はすぐにそれを語り始める。
「正直な所さ、今日だって承諾するか悩んだんだ」
「お、おう。そうなのか……」
「うん。それに君は気が付いていないみたいだし。やっぱり言わなきゃダメだなって」
俺が気付いていないミス。彼女にとってデートを断るほどの重大な欠陥。それを告げるため、彼女は人差し指でビシッと俺の鼻を示す。
決別を告げられるかもしれない恐怖、緊張感。それに屈して目を強く閉ざした。聞きたくない台詞を聞くために、聴覚がより鋭くなってる気がした。
「月曜日から期末テストじゃないか?」
「……あ」
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