チャンス
図書委員の仕事を終えて、職員室に鍵を返したボクは、夕焼けに染まる廊下を歩いていた。ほんの少しだけ早足で下駄箱に向かっている。バイトが休みだという彼が待っているはずだ。
彼氏彼女関係になったボクたちは、用事が無ければ一緒に帰っている。というのも、彼が挙げた『恋人らしい』行動の一つであったからだ。
ボクにはそれが判断できない。何故ならば、僕は彼の事を好きだとは思ったことは無いからだ。本や映画でそう言った男女の気持ちを描いた作品を見ることはあるけれど、ボクが彼に抱いているものと比べると、それらは違う物である気がする。
彼彼女らの情熱的な気持ちと、自分の彼に対する安心感は似ても似つかない。
でもまあ、結局のところ『登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません』だ。あまり参考にしてはならないだろう。
現実はフィクションの様に美しいとは限らない。ほろ苦い後味で終わる事もある。理想の夫婦に見えた両親でさえ、ああして崩れてしまったのだから。
今でも目を閉じれば、鮮明に思い出せる。
両親の怒鳴り声、散かった部屋。記憶に深く浸れば浸るほど、呼吸が、心拍が、荒く苦しくなって――
「千恵? どうしたの、大丈夫?」
「えっ?」
声に応じて振り返った。半袖短パンのジャージ姿に、茶髪のショートカット。褐色の肌は彼女の活発さを際立たせる。一目でクラスメイトだと分かった。隣の席の
そんな彼女と正面で向き合うために足を動かしたが、思い通りに行かずゆらゆらと体が揺れる。その仕草が余計に彼女を駆り立てたらしく、心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。
「貧血かな。保健室行く?」
「大丈夫だよ、郁。心配には及ばない」
「そうかな? 遠慮しなくていいって。私と千恵の仲じゃない」
まだ心配そうな彼女をボクは手で制した。
「だから大丈夫だって、それに今帰る所なんだ」
「そうなんだ。でもさっきの足取りじゃあ心配だなー。ふとした時に車に轢かれちゃいそうだし……。そうだっ! 私が一緒に帰ってあげる」
彼女は思いついたようにそう言い切ると、いつもの癖でビシッと人差し指でボクの事を刺す。その行動はありがたい。でも、懸念点がある。今日はもう先約がいるのだ。形式だけとは言っても彼氏との約束を蹴ってしまうのはどうかと思う。
とは言え、彼女の提案を断るのは一筋縄ではいかなそうだ。
「郁はそんな恰好だし、部活の片付けは終わってないんじゃない?」
「別にいいよ。そのまま帰る」
「制服以外での帰宅は校則違反だ」
「良いじゃん別に。電車に乗る訳じゃ無いんだから。それとも何? 私と帰りたくない理由でもあるの?」
「そういう訳じゃ無いけれど……」
その言い方は意地悪だ。彼女との距離感は嫌いじゃない、むしろ好ましいと言ってもいい。だからこそ提案を蹴りづらい状況にある。どうすればいいか悩んで、言葉に詰まってしまう。
「そうやって濁すって事は、言いづらくて帰りたくない理由……さては彼氏だな?」
肩が跳ねそうになるのを抑えた。まるでババ抜きでジョーカーを引かされた気分だ。彼女はこういった野生の感、第六感とも言える謎の鋭さを持っている。要所要所でそれを発揮してくるのだ。油断ならない。
このまま行けばそのうち聖闘士になりそう。
なんてことを考えてボクは気持ちを落ち着かせると、彼女との会話に戻った。
「ボクは何も言ってない」
「ま、そーだね。決めつけは早計か。でも、ザ・本の虫って感じの千恵が彼氏作るなんてイメージできないや」
「だろうね」
そんなにゲラゲラと笑いながらそう言われるとちょっと傷つくが、まあ良し。彼との関係を知られたらもっと笑われるのが目に見えていた。
「だいたい、できたとしてもいい物ではないじゃない」
「そうかな? 私、結構いいと思うけどなー彼氏」
「へぇ、どうして?」
ボクは聞き返す。現実にこうして存在している彼女が、恋人を欲しがる理由が知りたかった。自分に近い年代のリアルな思考を知りたかった。
それによって自分の思考にもまとまりが出てくるのではないかと考えたのだ。
「どうしてって……なんか、熱くなれるから?」
「熱く?」
「例えば、私が大会に出るとして、そのとき彼氏が応援に来てくれて、『頑張れ』って言ってくれる。……なんて想像してだけで素敵じゃない? 力が湧いてきそうじゃん」
「そういう物かな?」
「そういうものだよ。想像してみてよ、例えばさ、なんかここ一番で気合入れたいときとか」
「ここ一番ねぇ……無いかな」
「無いの!?」
そんなに驚かれた所で、無いものは無い。ボクは彼女と違って大会に出たりはしないから、そんな場面に出くわすことは無いのだ。
「じゃ、じゃあ! テストの時とかはどう? テストって気合入れたいし、緊張するじゃん」
「しない」
「それじゃあ、頑張りたいときとか! テスト前、深夜まで続く勉強地獄、そんなとき彼氏からメールが……」
「いや、ボクの頑張るポイントがさっきからテストに限定させすぎだろうに。それに勉強はテスト前じゃなくてもやるし、地獄ではなく楽しいものだ」
「ハッ、この模範的優等生め」
「別に悪い事じゃないだろう」
「私達が死ぬ気で頑張っているのに、スイスイと満点近い点数を叩き出していくのは、見ていてイライラする。というか、羨ましい」
彼女はそういって地団太を踏む。あと指差すなよ、指。行儀悪いって。もっとちゃんと言わなきゃ駄目なんだろうか……。
そんな事を頭の片隅で考えつつ、会話を続ける。
「ボクからすればあんな物は習慣だ。郁が毎日している部活動と一緒」
「部活動と勉強を一緒にしないで」
「一緒だよ。習慣づけないと身に付かない領域だってある。それは郁にとっては勉強で、ボクから見ればその身体能力だ。ついでに言えば、君の引き締まった肢体は正直、羨ましいと思うよ」
彼女の姿を見つめる。筋肉質で引き締まった手足はまるでギリシャの彫刻。ボクの物と比べようが無い。
そんな風に彼女を観察していると視線がぶつかる。郁は口角をグイっと上げた。
「そんなこと言ったら私は千恵の手足は羨ましいよ。女の子っぽくて柔らかそうだしっ!」
「急に背後に回って抱き着くな! 二の腕を揉むな!」
「そんなこと言わずに揉ませてよ~。千恵だってまんざらではないって感じの顔じゃん。その調子でおっぱいも揉ませてよ」
「セクハラ親父か君は! だいたいこんな所、誰かに見られたらどうす――」
視線を周りに巡らすと、いた。
鋭い目つきに、自信の無さそうな猫背。ここ数日でよく見るようになったその姿は紛れもなくボクの彼氏、川田真也そのものである。
彼はポケットに手を突っ込んだまま、呆然とこちらを見ていた。
『……あ』
郁とボクの声が重なる。彼とボクらの視線が交錯したと同時に、彼は何も見なかったようにこの場から離脱した。おい、ちょっとは助けてくれてもいいじゃないか。ボクと君は恋人だぞ!
少しイラッと来た。こうなったら追いかけて問い詰めてやる。
「郁、離して。ちょっと追いかけてくる」
「え? ああ、はい。でも別に追いかけた所でどうともならないと思うけど」
「あいつに関しては何とかなるから大丈夫。じゃあ行く。また明日」
「うん、また明日」
ボクはやや放心気味の郁を置いて下駄箱へと駆けだした。
▼
彼には意外と早く追いついた。いつも通りの帰り道をいつも通りに歩いている。見慣れた後ろ姿を確認すると、ワイシャツの襟を思いっきり引っ張った。
思わぬ荷重に対応できず、彼の身体がふらつく。
「うおっ!」
「何逃げてんのさ」
「逃げてない。ただ帰っただけだ」
「いや、そんな分かり切った嘘を付かなくてもいいから」
体勢を立て直した彼は「そうだな」と頷いた。ボクはその隣に立って歩く。
「で? どうして逃げたのさ」
「まあ、あれだ。かつてお前が計画していた『毎日百合姫計画』の邪魔はしたくはなかったんだよ」
「あれは冗談だって。分かり切った事だろうに」
「それ以外にお前の状況を当てはめることができなかったんだ」
頭をかきながら彼は弁明した。ボクは「まあいいよ」とその理由を受け入れる。
「だとしても、君はボクの彼氏、つまりはボーイフレンドなんだ。グイグイ来たって良かっただろうに」
「そうしたら無駄に俺とお前の関係が広まるじゃねぇか。ただでさえ、秀斗にばれてるんだ。これ以上はまずいだろ」
「別に構わなかったけどね。人の口には戸は立てられないとは言うし、一人も二人も一緒だろう」
「そういうもんか?」
「たぶん、そうだよ」
適当にうなずいた。見せつけるつもりは無い。ついでに隠すつもりもないのだ。人の見る目なんてあまり気にしなくてもいい。
「たぶんって、お前にしては随分と曖昧だな」
「ボクだって、全てを小難しく考えている訳じゃ無い。手を抜くときは抜くさ」
「なんか意外だな。少なくとも俺はそんな所を見た覚えがない」
そう言われて自分の行動を振り返る。まあ確かに外では手を抜いてる姿を見せていない、というよりは、抜いてるようには見せたことが無い。友人にも、他人にも。
何故ならば、そちらの方が何かと都合がいいからだ。いい印象を与えておけば、邪険には扱われない。
まあ、彼はそんな事をしないと分かっているから、取り繕わなくていいと思ったのだ。
「君の前で僕は気を抜かなかったと言うことじゃないかな」
「それはなんだか残念だ。俺はお前とは気の置けない関係だと思っていたけれど、お前は違ったのか。そりゃあ、好きでも何でもないって言うか」
「ん? いや、そう言う事じゃない。ボクも君の事は気の置けない、つまりは親しい人物だとは思っている。ただ、ダラダラとした自分を見せたくはなかっただけ」
「……じゃあ、今は前よりも心を許してくれているのか」
「まあね。せっかく彼氏彼女関係になったんだ。なるべく偽らないようにしていきたいと思っている。ありのままを見せようと思っている。良い部分も、悪い部分もね」
「そうか。ありがとうな」
彼は微笑んで礼を言った。ボクはそれに対して思わず足を止めて聞き返す。
「なんでお礼を言われたのか分からないんだけど……」
「だって、お前なりに距離を縮めようとしているってことだろ」
「縮めようとはしてない。ボクの素を見て逆に距離が開くかもしれない。むしろ、開く方が多いいと思っている。少なくとも経験上は、ね」
嫌な記憶がちらつく。会話中と言う事もあってそこまで深くは考えていないが、それでも不快感は拭えなかった。
そんな僕に対して彼は間を空けて、ボクの言葉を噛み締めた後、『でも』と区切って言葉を紡ぐ。
「だからこそ俺はチャンスだと思っている。お前を、より好きになるための」
息を呑んで、その言葉をゆっくりとかみ砕いた。
インコースへの直球、デッドボール間近の言葉をこうもよくスラスラと言えるものだ。そんな驚きと感心が、抱いていた不快感を払拭してくれた気がした。
「ポジティブだね、君は」
「まあな。数少ない取り柄だ。もっと褒めてくれ」
「止めておくよ。君はあまりほめ過ぎると調子に乗るからね」
彼はボクの言葉を聞いてあからさまに肩を落とす。彼は相変わらず分かりやすい。昔から好ましい所の一つだった。
「ボクにも来るかな」
「何が?」
「その、キミを好きになるチャンス」
「来るさ。来るようにして見せる。絶対に」
彼はボクの目を見て断言すると、再び歩き始めた。
たぶん、嘘は付いてない。それはこれまでの付き合いから分かる。彼は本気なのだ。こんな面倒な人間なんて放って置いて、違う人間のところに行けばいいのにと思う。
だけれど、彼にこんな考え方を粉々にして欲しいと思う自分もいるのだ。身勝手な事この上ない。
ボクは自己嫌悪で押しつぶされそうになる思考を抑えて、彼に返事を返す。
「……そう。じゃあ、楽しみにしてる」
「ああ、待ってろよ」
簡単にチャンスが来るとは思っていない。時間が経てば彼の良い所以上に悪い所が露呈していくと考えている。
だけど、もしボクの知らない関係が築かれる可能性があるのならば、賭けてみたい。
そんな想いを抱きつつ、ボクは彼の手を取って指を絡めた。虚を突かれた彼の肩がビクッと跳ねる。戸惑いを隠せない彼の顔も面白くて、頬がほころぶ。
この間、僕が告白された日。彼が屋上で笑った訳が何となく分かった気がした。
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