2:ローラたしなめられる ―楊と言う女性―

 そこは『ならず者の楽園』と呼ばれた巨大スラムである。

 ここは大都会東京、その目の前の洋上によもや東アジア最大規模のスラム街が存在しているなど誰が予想しただろうか?

 オリンピックなどのビッグイベント開催を通じ、日本と東京は世界中の多くの人々に開かれた。だが、日本へと入り込んだのは善良な人々だけではない。

 紆余曲折を経て、社会に居場所を確保できない人々がその東京湾洋上の街へとジワジワと集まっていく。そして、出来上がったのが東京湾中央防波堤外域埋立地・洋上市街区、通称『東京アバディーン』

 未来都市東京の歪みと影を一身に集めた町である。



 それでも人々は、その街で生きていた――

 時に2040年2月のことである



 東京アバディーンのメインストリートの南側。その一番奥になる南東地区は中華系の人々が多く暮らす中華街である。

 華僑系、大陸中国系、そして台湾系と出自別にさらに細かく別れている。台湾系の人々はもっとも一番奥の海沿いにほど近いあたりに一区画を占めている。


 その台湾系住民の街区の近くには、寂れた廃ビルを手直しして、とある子どもたちが住み着いていた。

 俗称『ハイヘイズ』

 戸籍や国籍を持たない混血孤児たちである。

 すがる者も寄るべき同胞も居ない彼らは、似たような境遇の者たち同士で集まり、肩よせあって生きている。貧しく過酷な暮らしではあったが、それでも彼らは懸命に生き延びようとしていたのだ。

 

 その子どもたちに対して台湾系住民の人々は比較的親切であった。

 居場所が近かったこともあってか悲惨な暮らしをしている子供らを何かと手助けしていたのだ。

 

 ローラはその日も台湾人街のもとへと足を運ぶ。

 少ないながらもラフマニたち男手が稼いでくる収入をやりくりしながら日々の糧を得るのもローラの役目だ。当たり前に買うこともあれば、値下ろしの見切り品を探すこともある。飲食店などで出た余剰物やまだまだ食べれるきれいな廃棄予定品を分けてもらうこともある。ローラが養っている孤児たちの惨状を知っている人の中には毎日、施しものを用意してくれている人もいる。

 ローラは明らかに外から来た異人種だったが、彼女が孤児たちとの橋渡し役となる事で得られるものは多かったのだ。


 人混みの多い街路をローラが歩いていると声がかけられる。

 

「ちょいと――」


 声の出処へと振り向けば、豆類や雑穀や米を扱っている食料品店の主人だった。歳の頃は六十くらいで人生の年輪を重ねた年代である。

 

「持ってきな、見切り品だ。痛みが出始めたんで店先から引っ込めたんだが、まだまだ食えるからな」


 老主人が渡してくれたのは、タイ米や豆類が入った袋だった。量から言って5キロくらいか。パッケージの日付を見れば賞味期限まであと少しというところだ。本来なら売れ残りとして廃棄処分するところだ。


「悪いなこんなものしかやれないでよ。持てるかい?」


 老主人が気遣えば、ローラははにかみながらそれを受け取り答える。

 

「ありがとうございます。でもこれくらい平気です。毎日これより重い子どもたちを抱いてますから」


 子どもたちの世話で担う苦労を思えば、これくらい苦にもならない。

 

「いつもありがとうございます。子どもたちも喜んでます」

「そうか、それは良かった。またなにか余ったらとっとくよ」

「はい、よろしくお願いいたします」


 老主人は笑いながらそう告げる。そしてローラも深々と頭を下げながらまた歩いていくのだ。

 ローラが目指しているのはとある中華料理店だ。

 

――天満菜館――


 その界隈の中では名のしれた大衆食堂で、そこの女将は界隈の台湾人の妙齢の女性たちのまとめ役であったのだ。

 店の片開きの扉を開けて店内に入る。昼過ぎで昼食時は終わっているためか店内に人影は少ない。扉には真鍮製のベルが取り付けられており、開け閉めするたびに心地よい音を奏でている。そして、そのベルの音にとある女性の声が返ってきた。

 

歡迎光臨ファンイングァンリン


 中国語での〝いらっしゃいませ〟の言葉だ。

 その声の主を見つめれば、歳の頃は40くらいだろうか。中肉中背の女性が薄桃色のワンピースに純白のエプロンで店内を切り盛りしていた。長い黒髪を後頭部で丹念に結ってまとめており、切れ長のよく目立つ目元が印象的な妙齢の女性であった。

 その視線がローラを捉えれば、驚きの声が漏れてくる。

 

「あら。ローラじゃない」


 ローラの顔を見るなりその女性は歩いてくる。

 天満菜館の女将の楊 雪嬌ヤン シージャオである。ローラは楊に向けて挨拶する。

 

「楊さん」

「いらっしゃい。待ってたのよ」


 楊もそう声を返しながらその手には包を持っている。

 

「はいこれ。点心をいくつか見繕って入れておいたから」


 白い包み紙にくるまれた袋がいつくかあり、それが紙製のバッグに入れられている。

 

「いつもありがとうございます」


 感謝を述べつつその紙包を受取る。だがローラは疑問を口にした。

 

「あれ? 少し多いんですけど?」


 ローラは子どもたちに食べさせる量を想定していたが、受け取ったのはそれよりも遥かに多かった。そんなローラに楊はにこやかに笑いながら告げた。


「おまけよ。食べ盛りなんでしょ?」


 にこやかに微笑みながら楊は言う。彼女も母として何人もの子を苦労して育てた事がある。ローラが背負う労苦は決して他人事ではない。そして、ローラは荷物を受け取りながら懐から紙幣を取り出すと代金を支払う。

 

「ありがとうございます。本当に助かります」


 ローラが手渡す紙幣は、ラフマニたちが必死になって稼いできた大切な蓄えだった。それを楊は確かめるようにしっかりと受け取る。

 

「はい、確かに――。待ってなお釣り持ってくるから」


 楊はためらわずに紙幣を受け取る。彼女は無償で施しをするような事は原則としてしない。ちゃんと代金を受け取ることで、ローラたちを対等に扱う事ができるようにするためだ。たとえ少額で形式的なことだったとしてもだ。

 それはとても重要な事であると彼女は思っているのだ。

 そして、いくらかの釣り銭を持ってくるとそれをローラに手渡しながら、楊はこう問いかけた。

 

「そういや――」

「はい?」

「ラフマニとなんかあったのかい?」

「え?」


 思わぬ問いかけにローラは思わず拍子抜けした声を上げる。楊は笑いながらさらに問うた。

 

「今朝、通りを歩くアイツを見かけたんだよ。なんかイライラしてたみたいだったからさ。もしかしてとローラちゃんとケンカでもしたのかと思ってさ」


 図星である。そして鋭い読みにぐうの音も出ない。ローラはうつむきがちに答える。

 

「はい、今朝――ちょっと。子どもたちの事で焦ってたらラフマニの朝の世話を忘れてしまって――」

「やっぱり。売り言葉に買い言葉だったんだろ?」

「――はい」


 その問いかけにローラは頷いた。困った風の表情で答えるローラを楊はたしなるように諭した。

 

「気持ちはわかるけど、その口から吐き出す言葉は慎重に選ばないと――なにしろ、子どもたちがどこで聞いてるかわからないんだよ? 親の言葉を真似するって事もありえるんだからさ。そうだ、ちょっとまってな」


 言葉を失いうつむくローラに楊はとってかえして店内の奥へと向かう。そして丁寧に包装された包みを持ってきたのだ。手のひらに乗るサイズでさして大きくはない。

 

「はい、これ」

「え?」


 手渡された包は小さな見てくれよりはずしりと重かった。

 

「〝香腸シャンツァン〟だよ。あの子、これが好きなんだよ。ネギと一緒ににんにくで炒めな」


 香腸、台湾風のソーセージ風の肉詰めである。甘辛い味付けが特徴でありサラミソーセージにも似ていた。

 

「あいつ、酒もちょっと飲むから。それを出すと喜ぶよ」 


 楊はローラに仲直りのきっかけをよこしてくれたのだ。

 

「ありがとうございます」

「礼なんかいいよ。早く帰っておあげ」

「はい」


 楊の微笑みに丁寧に頭を下げながらローラは店をあとにする。その後姿を楊はじっと見つめていた。

 ローラがこの地に来てから、楊はなにかと目をかけてくれていた。ローラ自身の身の上の事も知っているし、子どもたちの世話をする上で、助言も度々してくれる。ローラにとって楊は母親業の先輩のような人物であったのだ。

 店の扉から出ていくローラを見守りながら楊はそっとこうつぶやいたのである。


「できればあたしもあの子達をたすけてやりたいけど立場があるからねぇ――頼んだよ。みんなアンタを頼りにしているんだからさ」


 楊も街外れの孤児たちの事はわかっていた。だが、自分の店を切り盛りして暮らしている都合上、できることには限界があった。ずっと心の中に引っかかっていたのである。

 そんな折に子どもたちと寝食をともにして、守り育ててくれる人物が現れたのだ。胸のつかえがとれた思いであった。

 その楊の願いは一つだ。

 

「あの子たちが笑顔で育ってくれるのが一番なんだからさ」


 そしてそれはこの界隈に住む人達にとって、誰もが抱いている思いだったのである。

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