第172話 平和な一日

10月22日 朝8時半に松濤の自宅に帰った。すぐに9時から治療だ。  

 午前中6人で午後が7人。昼休みに神原がリビングに上がって来て、アルファードが届いたので書類にサインして欲しいと言う。

 アルファード・・・買ったのをすっかり忘れていた。車庫に下りると黒のアルファードが置かれていた。サインして書類を渡し、神原の運転で後ろに乗り近所を1周した。家に帰って来た時には寝ていた。寝心地の良いシートだった。


 午後の最後の患者を診ている時にトランプ大統領から電話が掛かってきた。

ロシア艦隊との戦いを労ってくれた。時間はいつでも作るので、ホワイトハウスに遊びに来てくれと言われた。横で聞いていた患者は、テレビによく出ている女性評論家で甲状腺の具合が悪くて来ていた。俺が『ドナルド、またね』と言って電話を切ると畳の上で座ったまま口を開けていた。電話の相手はアメリカ大統領かと聞くので『ドナルドダックの声優』だと言うと、それ以上何も聞かなかったが、尊大だった態度が変わったのを見ると、話しの相手がトランプ大統領だと分かったのだろう。

 ドナルドダックはキャンプ・デービッドにいると言っていた。俺も別荘を買おうかと考えたが、ホテルの方が気楽だと思い考え直した。

 今日は13人から11億1000万円の寄付が集まった。最後の女性評論家はJIAとも繋がりがあるらしく1000万円で引き受けたと二階堂が言っていた。


 NPOの資金が今日の段階で47億円になっていた。スタッフの人数も増え常勤が25人、非常勤が8人になっていた。NPOの実際の運営の責任者には、有名財閥の財団で働いていた48歳の香川と言う男が就任していた。彼もJIAの二階堂の推薦だった。


 午後6時になり娘達とパオと庭で遊ぶ。30分程経つと幸恵が夕食の準備が出来たと俺達を呼んだ。特上のステーキだ。椅子に座る娘達の間でパオが大人しく待つ。綾香とマキが時々ステーキの切れ端を与えている。パオの顔が笑っているように見えた。セブのプチも顔のカタチ的にはシェパードに似ているが、純血種のジャーマンシェパードであるパオの顔はデカイ。子犬の頃に真ん中に寄っていた耳も、今ではピンと立っている。

プチに会いたくなってきた。もちろんイザベルにも。


 午後7時半。庭を飛び立つ。治療は少しの間休業だ。高度を14000メートルまで上げてみる。気圧が0.157気圧しかない。何分持ち堪えられるかが勝負だ。全速力でフィリピンに向かって飛ぶ。20分で意識が薄れて来るので高度を2000メートルまで下げる。右に高い山が見える。標高2463メートルのマヨンボルケーノと呼ばれている火山だ。形が富士山に似ている。ここまで来ればセブはすぐだ。マスバテ島を過ぎるとセブが視界に入る。20分で3000キロ近くを飛んでいた。単純計算で時速9000キロ近い。マッハ7以上は確実に出せる事が分かった。

バランバンの自宅裏庭に着地する。現地時間で午後7時前だ。表に廻り玄関からリビングに入る。ダイニングテーブルでは食事が始まったところだった。魚のシニガンとご飯だ。東京の自宅で食べて来たステーキは空に消えてしまっている。大盛りのご飯をイザベルが寄越して言う。『来る前に連絡してって言ったでしょ』横でプチも俺に吠えた。


10月23日 財団職員の男性が『水道を引きたい場所が2か所ある』と言って来た。

バランバンの行政区域の中にも貧しい人達が無断で家を建てて住んでいる場所が2か所ある。1ヶ所は墓地が集まっている区域の奥だ。

 立派な私営の墓地の先に公共の墓地が有る。公共の墓地へと続く通り沿いにはバラックの小屋が立ち並び、そこに住む人達は墓地の『墓守り』を有料で引き受けたり、ローソクや花等を売って生計を立てている。その集落の真ん中に井戸が有り、多くの人が共同で井戸を使っている。決して綺麗な水は出ない。その水を飲み水としても使っているのだ。

 もう一か所は山よりの場所だった。山の麓なので水が枯れる事は無いが、広いエリアに1箇所の水場なので、毎朝水を汲みに来る子供達の労働は大変なものだった。

 市の水道局に掛け合った。墓の近くの方は私営の墓地までの水道が引かれているのでそこからの本管の延長で約30メートルで井戸のそばまで来る。山の方は表通りの場所から集落の中心までの300メートルの本管の延長をしなくてはならなかった。2か所とも10世帯以上が集まれば本管の延長工事を水道局側ですると言う事だった。 一番の問題は本管から各家庭に水道を引く場合に、工事代金がメーターの料金込みで1300ペソ掛かり、毎月の水道料金の270ペソを払えるかどうかだった。月に10立米までは270ペソの基本料金に含まれているが、井戸の場合は無料なのだ。

 財団で各家庭への1300ペソの工事代金を払う事にすると、申し込みが35件有った。

これで本管の延長工事は無料だ。しかも、まとめて工事をすると言う事で35件で4万ペソになった。毎月の水道料金を払ってくれることを願うばかりだ。


 午後3時に奨学金の面談があった。2人の内1人は奨学金を給付出来そうだった。

 面談が終わってしまうと暇だった。イザベルに先に帰ると言い、出掛けようとしていたスタッフにバイクで家まで送って貰う。オヤジが網を仕掛けに行くところだった。ビールを2本持ち、一緒にボートに乗る。オヤジが網を仕掛けている間、海を見ながらビールを飲んだ。波に揺られて気持ちいい。網を仕掛け終わるとボートを沖に出して貰う。オヤジにビールを渡して俺は海に飛び込んだ。夕方になり大型の魚も捕食に動く時間だ。

 水深20メートルのショートドロップオフのエッジに捕まって待つ。1分程で北側から大型の魚の影が近づいて来た。5匹のマグロが泳いでくる。先頭が一番大きい。目の前を通り過ぎようとした時に念力で引き寄せる。マグロの顔が俺を向く。他の4匹も顔を俺に向ける。更に引き寄せる。あと2メートルという所で他の4匹が逃げて行った。マグロを手元まで引き寄せて脇に抱え、目の後ろに光の玉を撃ちこむ。マグロのエラに手を掛けてゆっくりと浮上する。水面に上がるとオヤジが寄って来る。100キロは有ろうかと言うマグロをオヤジが引き上げる。俺は下から押し上げた。ボートに横たわったマグロを見て『ホホー』とオヤジが言った。


 マグロを庭のレストランのキッチンに持って行き解体する。頭を落とし、片面2つの長い肉の塊にした。腹側のハラミの部分は綺麗な中トロだ。これを刺身で食べずに何にする。

 イザベルに電話してイチと美沙を連れて来るように言った。今夜は刺身パーティーだ。

 中骨に付いた赤みをスプーンでそぎ落とすと中落ちだ。ワサビと醤油でご飯が何膳でもいける。足元を見るとプチがお座りをして期待に満ちた顔で見ている。そぎ落とした中落ちを茶碗に一杯分あげた。あっと言う間に完食だ。また後でと言って母屋に入り、シャワーを浴びて1時間ほど寝る。

 母屋とレストランの冷凍庫はマグロで一杯になってしまったようだ。しばらくは売り物に困らないだろう。

 6時になりイザベルがイチと美沙を連れて帰って来た。中トロと赤身の綺麗な部位は刺身にして既に冷蔵庫に入れて有った。キハダマグロだったが旨かった。俺は調子に乗って寿司まで握った。フィリピンの酢でも砂糖を混ぜる事で、そこそこの寿司酢が出来る。中トロの握りも評判が良かった。


 8時を回り、外に椅子を出して飲んでいる時に美沙が言った。

「中本さん・・・宗教団体を作るなんて考えた事ありますか?」

「ないない。そんなの俺には向かない」

「でも、やってる事は聖書の神様と同じですよ。病気の人を治して、悪人を倒して」

 イザベルが俺の膝に手を置いて言う。

「この人はやりたい時にやりたい事をやるの。人を導くってタイプじゃ無いと思うな」

 今、イザベルとやりたくなってきた。パオが俺のサンダルを奪って逃げていく。

 イチが言う。

「俺みたいに付いて行きたい人は勝手に付いて行くからいいのかも・・・」

 イザベルが頷いて言う。

「そうね・・・でもね、変な人なのよ、この人は。本能で生きてる」

「動物みたいに言うな・・・」

 みんなの声が遠くなってくる。椅子に座ったまま寝てしまった。

 事件も起こらずに平和な一日だった。


 

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