第162話 空手マスター
10月9日 午前11時。いつものように暇だったので事務所を抜け出して港を散歩していると妹が探しに来た。事務所に来客が有ると言う。
昨日の人質になっていた10人が来ていた。警察署での事情聴取が終わってセブシティに帰る前に挨拶に来たのだった。ゆうべテレビでインタビューに答えていた警察官が一緒に来ている。昨晩は街のホテルに泊まっていたらしい。全員が怪我もなく元気そうだった。人質になっていた日本人学生の内2人が財団に興味を持っていろいろ聞いて来る。
興味が有るのなら、給料は安いがここで働くかと言うと身を乗り出して頷く。試用期間は他のフィリピン人スタッフと同じ日給400ペソ計算だと言ったが、それでもいいと言う。一旦セブシティに戻って用意をして来ると言い帰って行った。
19歳の女性と23歳の男性だ。セブに英語を勉強する為に、女性の方は4か月、男性の方は6か月前から来ているそうだ。他のスタッフとの基本的な会話は大丈夫だろうが生活に慣れるかどうかが問題だ。
午後3時と4時から奨学金申請者の面談をした。4人の内2人に援助が決まりそうだ。1人は10年生で16歳。あと2年で大学に行ける歳になる女性だった。
面談で援助可能の判断がされると、当事者への調査を行う。家庭環境や学校での聞き取り調査を行い、財団からの援助によって学業が続けられるのが確実になると援助が開始される。又、援助開始後も定期的に学校や家庭にも訪問して、応援を欠かさないようにしている。卒業後に財団で働きたいと言う学生も大勢出て来ている。今現在、調査には2人1組で6人が担当になっているが、援助する学生の人数が増えるとスタッフも増やさないとならない。
午後5時になり事務所でイザベルの仕事が終わるのを待っていると警察官が2人来た。孤児院の現場検証に立ち会って欲しいと言う事だった。警察の車に乗って孤児院に行くと子供達が出て来て抱き着く。敷地内には未だ10人を超える警察官がいた。全員が俺と子供達を見る。
警察官の一番偉そうなのが俺に聞く。ゲリラ18人の内1人は銃で撃たれて死んでいるが、他の生存者1人を含む17人は強い打撃によって倒されているのが不思議だと言う事だった。どうやったのかと聞かれるが殴ったとしか言いようがない。殴っただけで胸骨がバラバラになったり顔が陥没する程の衝撃が与えられるのかと不思議がった。又、銃を持っている大勢の相手をどうやって殴ったのかと言うが、走ったとしか答えられない。還暦を迎えた60歳の俺が、そんなに早く動けるわけが無いと笑うので、走るのが一番早い警察官は誰だと聞き、速足自慢の若い警察官と孤児院の中で競争した。俺の方が少し早い程度に加減して走ったが、負けた警察官は悔しがり驚いた。格闘技の経験があるのかと聞かれ有ると答えると、どんな風に戦ったのかを見せて欲しいと言い、ボクシングをやっていると言う警察官と向かい合った。まだ23歳だと言う彼の動きは軽やかだった。フットワークがいい。サウスポーの彼は右足を踏み出してはジャブを打って来るが俺には全部見える。ジャブ、ワンツー、全てのパンチを紙一重でかわす。俺からはパンチを打たずに、何度か頭を押した。熱くなった彼がラッシュを掛けて来るので足を掛けて転ばした。完全に子ども扱いされた彼が掴みかかってこようとした所で止めろと声が掛かった。偉そうな警官が俺に言う。
「勝負になりませんね。あなた・・・中本さんは空手なんですか?」
「まあ、そんなとこです」
警察官達には『空手マスター』と呼ばれるようになってしまった。
振り返るとイザベルが子供達と笑いながら見ていた。男の子達がボクシングの真似をしている。工事で来ていた兄弟達も2人でボクシングの真似事をしている。
家に帰ると6時になっていた。オヤジは網を仕掛け終わって俺が帰るのを待っていたようだ。笑顔でビール瓶を持って近づいて来る。1杯飲んで夕食だ。
兄が彼女を連れて来て俺に言う。
「今度の土曜日、12日に結婚式をします。トールにも出席して欲しいです」
「もちろん出席するよ。パーティーは何処でやる?」
「ここでやろうかと思ってます。庭も広いし。テーブルや椅子はレンタル出来るので」
「それはいいな。孤児院の子供達や近所の人もみんな呼ぼう」
「呼ばなくてもみんな来ますよ」
確かにそうだ。豪華な食事を見逃すわけがない。
「レチョン・バブイ(豚の丸焼き)は俺がプレゼントするからな。3匹でも4匹でもいいぞ」
2人は嬉しそうだ。幸せになって欲しい。
セブに帰った日本人学生から電話が掛かってきて、明日2人で来ると言う。泊まる所を考えるが、他のスタッフの手前も有るので、特別な事はしたくない。誰かの家に下宿させようかと考える。イザベルに言うと、スタッフの一人の家でアパートを持っているらしい。明日、学生と見に行けばいい。どんな所でも住めるかどうかは本人次第だ。
何より日本人が2人来ると言うのが嬉しい。ここの生活に馴染んでくれればいいが。
ビールを飲みながら考え事をしている俺を、後ろからイザベルが抱いて言う。
「トール。何本飲んでるの?」
「まだ酔ってない」
「そう言う時は絶対に酔ってる」
「酔ってないって・・・」
立ち上がるとそのまま転んだ。すかさずプチが走って来て俺の顔を舐める。
みんなが俺を見て笑っている。プチに舐められながら俺も笑った。
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