第85話 WANT とNEED

6月20日 木曜日 午後9時


アンが横に座っている。銀座のクラブ。

ユカの居る浅草のマンションを8時に出てきた。

目の前のテーブルにはシャンパン『ベル・エポック』の綺麗なグラスが並んでいる。

シャンパンボトルは、これもベル・エポック専用の、絵柄が入った透明なシャンパン用のバケツに収まっている。正面に座っているママの口が動いている。目は俺を見ているので、俺に話しかけているのだろう。無音。口紅で真っ赤に塗った唇が動いている。別の生物の様だ。

アンが俺を肘でつつく。

「中本さん・・・どうしたの?」

アンの顔を見る。音が戻って来る。

「ゴメン・・・考え事してた」

「ママが話しかけてるのに・・・」

ママが言う。

「何かいい事、考えてたんでしょ・・中本さん」

「いい事ね・・・イッパイ有り過ぎて困っちゃうな・・もう一本いこう!」

ベル・エポックの追加だ。アンが俺の目を覗き込む。声を落として言う。

「なんかあったの?」

「どこか遊びに行きたいと思ってね・・・アンと」

「金曜の夜か、土曜日の朝に出て、月曜日の午後に帰ってくればどこでも行けますよ」

「ハワイって訳にはいかないな」

ボーイがシャンパンを持ってきて栓を抜く。

シャンパンを頼むと、自然とヘルプの子が数人増えている。

一杯ずつ飲むと、シャンパンボトルは、ほとんど空だ。更に濃いめの水割りを一杯ずつ飲んで、ママの指示で『ごちそうさまでした』と言って席を立つ。『飲み要員』という奴だ。

ママも席を立ってアンと2人だけになる。アンが言う。

「私の店のめどがついたら、この店を辞めるでしょ・・・その時に4・5日旅行したいな」

「そうだな。これから勝負だから今は客を捕まえとかないとな」

「嬉しい・・・分かってくれて」

俺の肩に頭をのせるアン。これだけで嬉しいから、男は・・・俺は本当に馬鹿だ。

アンが俺の口に、お通しの、『いぶりがっこ』にチーズを挟んだ物を運ぶ。燻したタクアンにチーズの組み合わせは意外に旨い。水割りがすすむ。

アンの顔を見る・・・相変わらずの美人。非の打ち所が無い。冷たくも見えるが、そこがいい。

「何か欲しい物無いか?」

つい、口に出てしまう。欲しがり、ねだられると買ってやりたくない。欲しがらないと、何か買ってやりたくなる。男とはそういう物だろう。

「着物が欲しい・・・これからママになると、着物が必要になってくるの」

「そうだな。クラブのママはほとんど着物だな。着付けは出来るのか?」

「うちのお母さんが着付け教室をやってて、私も教わったの。成人式の時も自分で全部着たんだから」

アンの着物姿を想像する。ゾッとする程綺麗だろう。

「それは凄いな。見かけによらないと言うか・・・」

「もう、『見かけによらない』は要らないです」

「いいよ。好きなのを買えばいいよ」

「一枚じゃ済まないの。最低3枚。帯も3本。それに小物も沢山あるの」

「いいよ。好きなだけ買えばいい。いくらするんだ?」

「300万円で収まると思う・・・収める。節約するところは節約して」

「他のママに負けないような、いい物を買えよ。1000万出すから」

アンは息を大きく吸い込み、目を見開く。抱きついてくる。

「ダイスキ」

俺の腕を抱きしめるアン・・・こいつの望むことなら何でも叶えてやる。

自分の鼻の下が延びきっているのが分かる。分かるだけマシなのかな。



いつもの帝国ホテル。

いつもの様に、アンは俺を天国に導いてくれる。彼女は、自分の部屋に来ればホテル代の節約になると言うが、何も気にせずに楽しめるのはホテルだ。アンが自分の部屋に誘ってくれるだけで嬉しい。


6月21日 金曜日。

朝食もルームサービスで済ませ、自宅に向かう。

西銀座駐車場から出したジュリアは相変わらず調子いい。2550回転で最大トルクの61.2キロを生み出すエンジンと、瞬時に最適なギアを選ぶ8段ATは、どのスピードからでも背中を押し出すような加速を見せる。


たった2日間、留守にしただけだが久しぶりに帰る気がする。

娘達が抱き着いてくる。子犬がじゃれついてくるようだ。起きたばかりだ。

フレッシュネスバーガーに行きたいと言い、着替え始める。俺も気軽な格好に着替える。

金庫から100万円を、空だった財布に補充する。金庫にはまだ29370万円が残っている。

娘達と歩く。両側で俺の手を取って歩いている。本当の娘だったら15歳になってオヤジと手を繋いで歩くだろうか。

今日は2人ともルーズなTシャツだから、それ程目立たないが、それでも綾香のEカップのオッパイが歩くたびに上下に揺れる。すれ違う男どもは間違いなく綾香の揺れるオッパイを見ている。

綾香がハンバーガーを頬張りながら言う。

「オジサン・・・私の携帯壊れちゃったかも知れない」

「使えないのか?」

「使えるけど。たまに電源が勝手に切れちゃうの」

「新しいの欲しいのか?」

「買ってくれるの?」

「欲しいから言ったんだろ?」

「必要だから言ったの」

瞬間的に言葉を使い分ける事が出来ている。『欲しい』と『必要』。英語では子供が親にねだる時に必ず『NEED』と言う。親は、「それは『WANT』でしょ。我慢しなさい」と言う。

日本語で、その使い分けが出来ない若い子が多い。『要るから要るの』イルカライルノ。幼稚園児と変わらない。

「買えばいいよ。幾ら要るんだ?」

マキが乗り出す。

「いいなぁ~」

「2人とも好きなの買ってやる!」

「やったー」

大声で周りの人に見られる。

娘達が新型携帯の話をするがサッパリ分からない。

結局2台で20万円と言う事になり、10万円ずつを渡した。携帯屋が近くにあるようで、ハンバーガーを急いで食べ終わり、2人は飛び出していった。俺は1人で部屋に戻る。


アンや娘達に『WANT』と言われて『イイヨ』と言える自分が嬉しい。自分の息子には『欲しい』と言われても手が届かないのが分かると、いろいろ理由を付けて諦めさせていた。貧しかった訳ではない。自分の家族には人並みの生活をさせていたと思う。


『人並み』・『平均的』・『普通』・『標準的』・『みんなと同じ』・・・気持ち悪い言葉。

日本で成功した理想的な社会主義。マルクスやエンゲルスは東を向いて微笑んでいるに違いない。プロレタリアート(労働者階級)を見事に洗脳する。手の届く幸せを与え、望み過ぎると、その小さな幸せが崩壊することも理解させる。

『WANT』にはダメ。『NEED』にもダメ・・・時々ヨシ。


ケチくせぇ、馬鹿!



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る